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【実話】二留の人(2)

[前回のあらすじ]
 就活留年をした私だったが、内定もないままに10月を迎える。とりあえず卒業論文の作成にとりかかるのだが…


 5年目の10月に入って「とりあえず就活は置いといて卒論を書こう」とシフトチェンジをしました。ところがシフトチェンジしたはいいもののシフトだけ変わってやる気がさっぱり出ません。

 教授とは最低限のメールのやりとりだけしかしていませんでした。それでゼミの同期はすっかり卒業していて、こちらから連絡もしないのでなにが起こってるか把握せずという体たらく。

 なまけになまけて、提出日が近づかないと全く動かざること山の如しでした。それでも昨年度の卒論提出日が「1月17日」だったということだけ頭にありました。

 そして教授から蜂の巣になるほど指摘された草稿を直すこともせず、たいした準備もぜずで迎えた2022年。1月7日にようやく正月気分(になってんのがおかしいんだけど)が抜けて、卒論をそれはそれはゆっくりと書きはじめました。

 苦し紛れに書いてようやく3割いったかいかないか。その時点で1月13日。あと4日しかないけど、ネットで調べたら「3日で書いた」とか「1日で書いた」とかあったし、何とかなるんだろと馬鹿に呑気で、その夜11時頃にメールを確認。

 すると大学からに 「卒業論文の提出日について」のメールが。なんとなく見てみるとなんと提出日が明日「1月14日の午後3時」。

 ふらふらになって思わず尻餅をつきました。「もう終わりだ。なにか悪い夢でも見てるんじゃないか」と焦ってなにも考えられなくなりました。もうてんやわんやになって訳もわからず、外へ出て冬の冷え切った新潟の町内をぐるぐる走り回るという奇行に走りました。

 それが済んで、1人暮らしの家へ戻って身体中震えて、今の状況をなんとか整理しようとしても無理でした。「1日で終わるのか、あと7割も残ってるぞ」もうクラクラしたのと、なにより親に、そのことを電話をしなければならないことで頭がいっぱいになりました。

 頑張ればよかったんですが、そこはアホみたいに判断が早く、もう諦めて父親へ電話。

 ところがここで「卒論書けませんでした」とは何があってもいうわけにはいかず、私は小さい脳みそで考えたあげく、「就活を新卒で受けたい」という内容をでっち上げることにしました。

 父親へは「もう半期就活をやらせてください。お金は必ず返します」と震え声で言いました。なんとか押し問答をそのセリフひとつだけで返し、最終に向こうからは「ああ、そうか」と呆れた返事が返ってきました。

 やったことはロクでもないですが、今になって考えてみると、ここから変に親の期待を背負って生きることはしなくなったのでそれはそれでアリだったのかなとは思います。ただそうしないのが1番ですもちろん。

 そうして「1月14日の午後3時」。朝に教授から「卒論提出の催促」のメールを冷静に確認。私は台所で菩薩のような顔でショートホープを吸ってその時を迎えました。なにか悟ってました。

 翌日、もうひとりでは抱えきれないと思い、院に行った友人2人に昨日のことを残らず話しました。正直話したくなかったですが、話し始めると「もうどうにでもなれ」と勢いづいてしまいました。

 なにか同情されるかと思ったら、院に行った友人は「来年も遊べるな」と大喜び。他人からみたらそんなもんかと少し慰められましたが、「おい冷たいな、思いやれよ」と思わないでもなかったです。(つづく)

 

 

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