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日記と珈琲_6月の裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。6月の裏側、日記をもとに書いたエッセイです。


6月は、こんな日があった。

06/22
朝、シーツ交換でマットレスとレスリング。
14時、〈弘前れんが倉庫美術館〉の活動「向こう側研究会」の第2回。zoom越しの佐藤朋子さんは韓国から。前回の参加者がぼくを含めて3人、新規が二人。白神の話で、「境界線の厚み」という言葉が残った。数学的思考の癖で、線に厚みがないことを考えて、どうして厚みがあると考えるのか、を考えていた。すると一つ気付いたのが、境界線は近づくと面になる、線を象る言葉の淡いの中に入るということ。どちらでもない場所、向こう側ではない側に立つ姿勢でいるときっとそうなる。ぼくの医学、芸術、言語の領域を跨ぐときの感覚と重なって、偶になる、本で書かれていたことにピッタリ合うような感動を得た。そうか、境界線がよく言語化されると接近する、大きく見えるようになるのか。アリの視点だ。超弦理論だ。
20時、親友Hと将来の相談事。
COFFEEMAN good Peru La Huaca Susi Leon Martinez 抽出、YADORIGI COFFEE ROASTERS EL SALVADOR ANGEL 抽出、純喫茶 ルビアン 水出しコーヒー 600円。

米谷隆佑 「日記と珈琲_6月」 note より

境界よ、どうしてきみはぼくらと別の次元にいるのか。同居する存在なら扱いやすいものが、いや、考えが逆かもしれない。3次元人が扱いやすい2次元以下の抽象物、「線」が「境界」の正体なのかもしれない。
ぼくらが、普段から「線」を想像し、認知するおかげで、物事の二面的な要素を区分けすることに成功している。「線」は、自然のもの、水平線や川や棒などから編み出された概念だろうが、完璧な「線」は、数学や物理学の抽象世界に任せるとして、しかし複雑な要素の塊に引かれた歪な「線」を扱うのが、日常で、人文学の果たす役割なのかと思っている。
日記にしたあの日、「境界」という「線」で出来た世界に「厚み」の考えを一滴垂らして、概念が拡張され、感覚的に扱いやすくなったことを勢いのある筆で記録している。

「境界」は、分節で生まれる差異のことを言うのだろう。赤子が、世界を「一つ」として認識する話を聞いたことがある。母も床も天井も空気も全て自分に内在するものの一部で、そこに違いはない。だけど、徐々に違いに気づき始める。手元にあるものがいつもない。そこにないものが突然現れる。明滅する光のように現れる事象の一つ一つに感動し、驚くこと、しかもそのとき、外部から「音声言語」が漏れることで、現象と現象の間に差異があると認め、その現象と「音声言語」が一致し、言葉を獲得する過程で、「一つ」の色に染まった世界に「線」を引くのだろう。それが分節だと認識している。
言葉の獲得が分節の重要な要素だと、言語沼の人から何度も聞かされた。分節されていない世界はあまり「線」の数が多くなく、「一つ」に近い不明瞭な世界と考えられそうだ。
ヤーコス・フォン・ユクスキュルのいう「環世界」に似た、生命ごとの見え方の違いがあるのだろう。感覚器の違いで見え方の違いが生じるように、言葉の数によっても見え方に違いが生じることは、幼少の頃から授かった「言語化」によって経験してきたことだ。森田真生さんの『数学する身体』の中でも「環世界」について言及し、考えを拡張させ「風景」に辿り着いている。

人はみな、「風景」の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った「主体にしかアクセスできない」 要素が混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。

森田真生『数学する身体』 新潮文庫 より

「境界」というものを、感覚器だけで引いた「線」だけで見ると、案外「一つ」の中の「線」は多くないように思える。感覚器は、五感や何か化学物質を受容する器官があるが、しかし、そう多くはない。多すぎると感覚は世界に触れる幾ばくかの情報の海に埋もれ、行動不能になってしまいそうだ。だから脳は意図的に情報をシャットアウトする機構を備えているのか。常に触れている服も、汗をかく室温も、認識して言葉に起こす頻度が少ないのはこのためなのかもしれない。

ここで「境界」そのものを、顕微鏡的に捉えてみようと思う。ここからグイッと「あの日の日記」の本質に迫る。顕微鏡的に見る「微視」が、ときに考えを先に進めることを、ぼくは超弦理論から学んでいた。

現代の人類が知覚可能な次元は、空間の3次元と時間を合わせた4次元、そこから低次元のものである。点、線、平面、空間と時間の想像が可能ならば、さらなる次元を見つけたら我々はどう想像することがてきるのか、また、既にあると仮定した高次元が知覚されていないのはどうしてなのか、考えれば考えるほど哲学的な難しさがわかる物理学の世界。
高校の頃のぼくは受験期の隙間で読んだ「Newton 別冊」で、「高次元は非常に小さく折り畳まれている」とする理論に感心したことがある。「超弦理論」という物質の構成を考える理論で、特に空間を構成する次元は9次元まであると予想され、知覚可能な3次元より先の6次元分は、折り紙よりも複雑な形をした「カラビ-ヤウ空間」となって見えないらしい。大きさは、10のマイナス31乗メートルくらい。どうしてそんなにも小さいのか。つまり、こうらしい。ぼくらには前後方向にしか動けない糸(「線」の次元)があるとして、蟻になると、前後に加えてもうひとつ、横方向にも動ける柱(「面」の次元)で知覚されるようになるのと同じで、扱いにくい次元を敢えて大きくするために微視的な考えを取り入れ、結果的に計算しやすい程度にすることで、高次元は見えない大きさであると結論づけたのだ。
ぼくはこの考え方で、光明を得た。「微視」は、分節とか解像度とかいう概念に密接な行為なのかもしれない。「境界」とはいわば「線」の次元だ。しかし、蟻の視点のように「線」に接近すると、「面」となって「厚み」が増すことがわかるだろう。「厚み」とはつまり、「微視」の結果である。「微視」は、分節がたくさんされた結果だと認識している。「境界」を構成する言葉がたくさんあれば、「線」を構成する形が変化し、「面」となるのではないか。
「境界」の扱い方が一段階変化する。「面」であれば移動に「遊び」が生まれ、縦横無尽、「境界」の中心にいるか、際に立つか、また「境界」の向こう側か手前側かに偏りながら、中立でいることもできるのが「境界」の「微視」的な観察の賜物なのだろう。立場を自由に設定できるためには、おそらく気の遠くなるような言語化が必要になる。それでも面白い議論やまだ価値を与えていない事象に光を差すのが自分の役目と負うのであれば、たくさんの言語化による「微視」を諦めることはできない。それが哲学であり、文学であり、医学なのだから。

「日記と珈琲_2月の裏側」でも、ぼくは「境界」をテーマに思索している。形態学的な接近が好きなぼくは、日記を書くことも、写真を撮ることも、まず、形の観察からはじめている。色などの情報の削れた、質素な形の違いをみる。見て気付かないものは、辺縁を撫でるようにさらに接近する。
すると、大切な「線」の性質の観点で、「境界」も「傷」も、よく似たもののように見えてくる。

ある日、宮地尚子さんの『傷を愛せるか』を読んでからというもの、ぼくのなかにあったはずの負の部分に光が差し込むようなった気がして、傷を愛する、という、一見、愛の対象でないようなものに、慈愛、ケアの精神を持ち込むことができたのだ。
普段の思考からは辿りつかない慈愛の精神を読んで、考えて、ぼくも傷の辺縁を撫でるような体験が必要だと思った。

4月の中頃、知り合いの福祉士から、スタバで話しましょうと誘われ、コールドブリューコーヒーを飲みながらソファで長話に耽ったことがあった。彼女は、ぼくと同じく言葉に多大な感性を捧げている人だ。福祉の世界で活躍するのに言葉が必要だと、ぼくは思うのだけど、彼女の言う言葉への関心は、他者の本心に迫るための重要な記号、差異を明るみにしながら鼓舞するために必要なものであった。詩を書き、歌を唄い、本を作っている。本職の外で活躍する様子に、実はぼくはすこし力を分けてもらっている。彼女がぼくを呼ぶときは、何か聞きたいことがあるからだ。私生活のこと、仕事のこと、課外活動のこと、人としてのこと。初めて本気で腹を割って話した去年の12月に〈可否屋 葡瑠満〉で「あいりっしゅ可否」を飲みながら、ぼくは彼女に「傷」のことを話した。それは、『傷を愛せるか』の言葉を引用したものだった。

傷のある風景から逃れることはできるかもしれない。傷のある風景を抹消することはできるかもしれない。けれども傷を負った自分、傷を負わせた自分からは、逃げることができない。記憶の瘢痕から身体が解放されることはない。ベトナム戦没者記念碑の黒い壁を見つめる兵士たちの像が重い荷を背負いつづけ、疲労の影を顔に深く刻みこんでいるように。(中略) 傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生き続けること。

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』 ちくま文庫 より

彼女に深く響いたらしく、解散の間際にもその言葉を反芻していた。ぼくも彼女も「傷」を紹介して、晒して憔悴したぼくを見て彼女は「米谷さん、傷のあたりを撫でるようにしてあげたいんでしょ」と言った。また、「傷を撫でてやる」というフレーズに触れて、妙に印象に残ったぼくが「傷を撫でてやる……か」と、今度はこっちが反芻していた。

どうしてだろう。ぼくは「傷」のある人が好きだ。それは他人の弱さでもあり、強みの象徴でもある。くどうれいんさんが『虎のたましい 人魚の涙』で「傷跡のある他人にもすぐにその傷の理由を聞いてしまう。」と言っていたエッセイを思い出す。

うっかり尋ねた傷の理由がその人にとって致命的で、とても重くて深い、かんたんに開けてはいけない箱の中の出来事と紐づいていることだってある。それでも、である。気さくに語られる傷は、わたしのようにわりとひょうきんな人間が「笑ってほしい」と思っている傷か、熊に噛まれたのに、「熊と戦ったんだ」と自慢げに言ったりする)おじさんがわざわざ見せてくる「勇士の古傷」ばかりであるような気がする。傷について気さくに聞くと、意外と皆、照れつつも教えてくれることが多い。(中略)案外、「聞かなきゃよかった」と後悔することはない。聞かせてくださってありがとうございます、と思うことばかりだ。

くどうれいん『虎のたましい 人魚の涙』「傷跡を聞く」 講談社 より

そうだ、ぼくは他人の「傷」を知りたいと思ってしまっている。それが心的外傷でも身体的外傷だろうが構わず、ぼくの人助けの性分の過剰な部分が現れる箇所で、たまに聞いて「傷」の状態を知って、あわよくば撫でてやりたいと思ってしまっているのだ。本当に強情で欲張りで、救済の意味の履き違えをしかねないなと恐れるときには、妄想でぼくの頬を引っ叩いてやっている。あわれ、どうしてそんなに聞いてしまうのか。聞かなければ角の立つ関係が丸く収まっていたかもしれないと言うのに。「境界」を越え、土足でずかずか入ろうとする精神が、憎たらしい。

おそらく根本に「自分をオープンにする」という姿勢があるからなのだと思っている。ぼくの基本スタンスとして、表も裏もない、本音と建前の少ない行動をしている。よく騙されやすい、と言われる、正確に表現すればそう言わざるを得ない内面に、ほとほと困り果てることが……ない。SNSは全て本名。ぼくは、逃げも隠れもしない。だから、他者との会話の中から相手をわかろうとするし、しかし本当のことを言えば、ぼくはあまり多くの人と関わりたくないと思っている。オープンに話しているから、ぼくに関わる事柄が際限なく薄く広がっていく感覚に襲われて、偶像になったぼくの顔が、ぼくの預かり知らない場所で新しい「傷」をつくっているかもしれないと思うからだ。
恐怖、他人を傷付けたくないと思えば思うほど寡黙を選択して身を狭め、しかし他者への理解を望むほど多弁を選択して話題を拡げる。定点的にぼくを見る人にはその変化に気付かされるだろう。その日のぼくは、大きく見えるだろうか、それとも小さく見えるだろうか。あるいは、ぼくという現象の背後にある輝きは、どのくらいの照度で放たれているだろうか。

ぼくもあなたも、ナラティブという領域を持つ。それは、その人のアイデンティティの根幹であり、歴史的背景である。お互いのナラティブに橋をかけることが会話の本質である。境界明瞭なナラティブを行ったり来たりすることで、言葉の裏を感じとり、気付けば自己の内部に他者が入り込む。そして自己が改変されるのだ。橋がかけられる前の守られていた自己がすこしずつ、すこしずつ変わっていく。
会話中、ぼくはその変化が易しい。いわんや本、映画、音楽、すべてのメディアから影響を受けて、選択したのかさせられたのかが曖昧な道を歩み、全てを容認してきた。だけど、ぼくよりもその変化に敏感で、変化を求めず変化させられる人には、会話などで影響を受けるという改変の現象を許しがたく思うはずで、それは当然で、長くナラティブに触れられることが結果として望ましくない未来を招くことになるのも念頭に置くべきことなのだ。ぼくは、それを不適切な方法で知ってしまった。

ある組織で、ぼくは馴染みの浅い女性と好きなものの話題をシェアして仲良くなろうと図った。彼女の会話は、いつも短い。好奇心が働いて、より知りたくなって、彼女から何かを引き出そうと強引な言葉と性急な橋掛けをしていく。知ってる共有の話題で間を詰めようとしたあるとき、堪忍袋の緒が切れた彼女が激しくぼくを叱責した。「あんまりなぁ、『〇〇って知ってる?』って言われるとな、こっちが馬鹿にされるようで惨めになるんだわ。一辺倒に言わんで、言い換えでもしな」「あんまり知識でマウント取られると、『馬鹿』でレッテル貼られることに嫌気がさすし、昔のこと思い出して苦しくなる」と、彼女の傷を強く刺激してしまっていたことに気づかされた。軽率だった。ふさぎ込んでしまって、しばらく会話を控え、言い換えの重要性を容認するまで自分を許せなくなり、心残りがあるまま彼女との関係が疎遠になった今、ようやく多様な言葉の作用、傷の触れ方に注意を払えるようになった気がする。
遅かった。いや、下手に踏み入って失敗したことが許せなかった。そのことが今のぼくを形成してくれていると思い、あのときの記憶を大事にしまってある。他人との会話で盛り上がるとき、ふと自戒の念を込めて思い出している。

傷、という愛すべきものの理解に心血を注ぎたい。ぼくは「傷」そのものをよく観察していきたい。見えない傷と見える傷があるとして、ぼくは精神のかさぶたのようなものを、剥がさず、丁寧に辺縁を触れてみたい。
ケア、という奉仕の精神がここで活きる。怖がって触っては、強い圧を与えて痛みを伴わせてしまうから、手のひらでやさしく並行して触れる。触れる、というよりかは触るという意思の伴った行動で他者の理解を求める。その構えを大切にする。
傷に触れ、何度か失敗した経験を忘れてはならない。傷付けられたこと、傷を持っていること、傷を触って関係に亀裂が生じたことの全てを抱え、明るみに晒された傷の物語、ナラティブにこそ人間理解の本質があることを深く思えば、ぼくは人との対話に興味が湧いてくるのである。

そんなことを考えながら、春の暮れを思い出した。

「米谷くんって、いま死んでも大丈夫そうだね」と言われた。初対面の人にこう評価されるのは、高校以来のことだった。その頃は生徒会長をしていて、身近の一個下の後輩に言われたんだった。全てが上手くいくような気がしていた。思い描いたこと、やりたいこと、誰かに言えば全部叶えられる。虎に翼とはまさにこういうことだと思った。ぼく、寅年生まれだし。生徒会の執務で運動会や文化祭を着々と遂行して、受験勉強を担任と進路指導の先生と同期とワークショップや早朝の教室で勉強し合って、万事うまくいく、なぜなら、そういう時期だから、としか言いようがない黄金期。だけど今の日経株価と同じような上昇傾向で成績が伸び続けた3年生の冬、図書室で祖父の訃報に触れた時は膝から崩れ落ちたが、勤勉だった祖父から意志を引き継いで、しっかり進学した。夢を叶えた直後で祖父には申し訳ないのだけど、ぼくのほころびは大学進学後すぐに訪れた。1年生の教養科目はその年に知り合った同期と乗り越えられたのに、2年生になった途端に孤立した。原因は明らかだった。驕っていたのだ。結構ギリギリの成績で進級したのに、まぁ自分には勉強の能力はあるわけだし、やるようにやっていれば何とかなるでしょ、と独り、解剖学と生化学と生理学の試験勉強をして、しっかり落ちて、留年した。けれどもなんだかんだで今は6年生だ。
「死んでも大丈夫そう」と言った彼女はデザインの仕事をしている人だった。会うまでお互い面識はなかったが、ぼくが絡んでいるNPO法人の新規事業にぜひ加わってほしいと嘆願しに行ったカフェで言われたのが、さっきのセリフである。しかし、お互いインスタグラムでは知り合っていた。共通の知り合いからも活動の枝葉が伝わっていたので、初対面とは言え、親戚のお姉さんに会ったかのような感触を覚えていた。
ぼくは、デザインの力に興味がある。彼女のノウハウが伝われば、事業を通して弘前の魅力を発信できるのではないかと思い、お互いの事情を話しながら探り合っていた矢先に、「死んでも大丈夫そう」と一言突きつけられて、面食らって嬉しくなった。ぼくがやっていることに希望の光が差し込んだ気がして。
「いきいき」している状態はそれと同時に「しにしに」している状態とでも言おうか、背反する生死の概念がお互いを支え合って、ぼくらは「いのち」を輝かせているのだと思う。
ぼくは「よく生きること」を「よく死ににいくこと」に見つけている。しかし、まぁ、ぼくがいつ死んでもいいかと問われると甚だ疑問が残るが、ぼくが生き生きと、書いて、撮って、話して、勉強してよく動いている様を見れば、あなたはきっと驚いてくれる。

ぼくは一隻の舟だ。

快活に海図を広げ、思考の帆を広げ、風に任せて先を行き、静かに舵を切って目的地に進んでいる。
舟は空気と水の境界を漂い、地球の辺縁をなだらかに揺らいで波に乗っている。

父なる大地から離れて。

接近した境界であそぶ。

7月のエッセイは、8月になれば。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR

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