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森で生きる目的 ―H・D・ソローの非目的性―


はじめに

本稿はソローの著書「ウォールデン」(ちくま学芸文庫)(酒本雅之 訳)を一読した上で、ソローの目的に対する姿勢を考察したものである。

ソローの「ウォールデン」では、しばしば行動の目的を非明示的に記述されている箇所が見られる。目的を具体的にすることは、目的達成のための行動を明確化でき、効率的に行動をすることに役に立つと考える。しかしながらそうした効率的な行動は単調で無味乾燥な行動に陥りやすいのではないだろうか。

|ソローは森の生活において近代産業が掲げる具体的な目的を批判し、明示的な目的を持たない生活を試みたのではないか。そこで本稿ではソローが森で暮らす試みの非目的性について注目しながら、ソローの目的に対する姿勢を考察する。

ソローが森で生活する目的

目的に注目するにあたって、第一にソローがなぜ森で生活するのかという問いを考察する必要がある。ソローは「暮らした場所、暮らした目的」の章において、自ら森に行って 生活した理由を次のように述べている。

「僕が森へ行ったのは、慎重に生きたかったからだ。生活の本質的な事実にだけに向き合って、生活が教えてくれることを学び取れないかどうか突き止めたかったからだ。」

137ページ

慎重に生きるため、生活の本質的な事実に向き合うため、という極めて抽象的なねらいを述べている。こうした非明示的で抽象的なねらいは実現のための具体的行動が想起されないという点で非目的性が備わっていると考える。すなわち、慎重に生きるためには具体的な目的を持つべきでは無いと捉えられる。

非目的性が重要視される章「マメ畑」

意図的に非目的性を表現し、重要視する姿勢を示すのは「マメ畑」の章においてである。 ソローが畑でマメを育てる理由を次のように述べている。

「それにしてもなぜ僕は彼らを育てるのか。神のみぞ知るだ。」

237ページ

耕作の一般的な目的である食物にするため、換金作物にするため、といった目的は明示せず、マメを育てている。先ほど述べたようにソローは耕作の非目的性を通して本質的な事実に向き合い、何かを学び取ろうとしていると考えられる。 以降でソローはマメたちと親密になれ、自然事物との血縁を感じ取れる音や光景を見聞きしたと述べている。よって、非目的性を通して偶発的な思考や行動から、自分の内的な状態や精神を得ようとした姿勢が読み取れる。


19世紀の産業化した農耕の批判

また、19 世紀の産業化した農耕に関してもソローはその単調で効率一辺倒な目的を明確に批判する。ソローは同じく「マメ畑」の章にて以下のように記述した。

「古代の詩歌や神話を読めば、農耕が少なくともかつて神聖な技であったことが察せられるが、現代の農耕は、何しろ目的が大きな農地や多量の作物を得ることでしかないから、不遜な忙しなさと無頓着で営まれている。」

252ページ

すなわち古代と現代を比較しつつ、現代の農耕の批判すべきポイントをその目的 に定めているという点はソローの目的に対する否定的な姿勢を示しているに違いない。

目的を果たすための「場」の批判

さらに、農耕をするという目的を果たすための農場という場に関しても強く懐疑的な姿勢を表現する文章が見られる。

「農場だろうと群の刑務所だろうと、縛られることにかけては大同小異だ。」

128ページ

刑務所と農場の共通項は縛られることであると述べている。つまり、農場において耕作をして作物を生産し続けるという目的は刑務所に収監されることと違いはないと考えられる。人々は具体的な目的によって縛り付けられ、収監され、隷属されうるという危険性をソローは指摘している。


魚を捕らえるという目的について

釣りをすることにおいても、魚を捕らえるという目的についてソローの態度を示す文章 が見られる。

「池をずっと見ている機会に恵まれたのに、⻑い糸にじゅずつなぎにするだけの魚が獲れなければ、連中は自分が不運だった、時間が無駄になったと思うのが普通だった。」

323ページ

魚を捕らえるという明確な目的を持つが故に人々は不運に苛まれ、時間が無駄になったと落胆するのだ、と考えることができる。またこうした具体的な目的には「浄 化作用」(323ページ)が働くという。明示的な目的は浄化すべき人間の本能であると考えるソロー の姿勢が読み取れる。

さらに、魚を捕るという生存本能がもたらす目的に関しても以下のようにソローの考えが示されている。

「僕が魚を獲ったのは原初の頃の漁師と全く同じ現実的必要に迫られたからだ。」

320ページ

具体的な目的を批判するソローも現実的必要性(生命維持的必要性)があれば、明示的な目的を持つということを示している。しかしながらこれは、現実的な必要性がないにも関わらず目的を持つことに対して懐疑的であるという姿勢を表していると考える。資本主義によって資本を得るために生物的必要性を超えた過剰な目的が生み出されるが、ソローは生活における最低限の現実的必要性をウォールデンで実際に試みてその過剰さを批判したのだと考えることができる。

まとめ

以上のように、ソローは森の生活において自分の内的な状態や精神を得るような非目的性の高いねらいを示している。また、近代産業や人間の本能がもたらす具体的で明示的な目的を批判している。バーバラ・ジョンソンは著書「差異の世界」にて「ウォールデン」の横滑りしていく難解な文章に対して以下のように指摘している。

「『ウォールデン』がわかりにくいのは、ソロー自身が自分で書いている寓話のただなか文字どおり入り込んでしまったからである。」

バーバラ・ジョンソン,「差異の世界」,紀伊國屋書店

これまでの論考を踏まえると、なぜソローが自らの寓話に入り込んでしまったのか考察できる。

ソローは自らを隷属させうる目的性から離れるために、森へ入り非目的思考を実践したが故に自らの比喩的言語の世界に入り込んでしまったのではないだろうか。



参考文献
ヘンリー・D・ソロー,「ウォールデン」(酒本訳),ちくま学芸文庫
バーバラ・ジョンソン,「差異の世界」,紀伊國屋書店

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