天才に成り上がらない凡人でいい人生を生きたいから
2020.2.7. #203日目
凡人で生きることって、恥ずかしいことなんでしょうか。
全員が十人十色であることは間違いないですが、全員が天才、秀才にならないといけないのでしょうか。
天才や、秀才は、凡人を見下していいのでしょうか。
僕たち人間は、成長したり、成功すると、自分の過去を正当化してしまいます。
「あれをやっていてよかった」
「あの時のあの人のおかげだ」
って。
歴史なんかも同じです。
そうやって、今の状況から選び取られてしまうので、すぐに歴史は変わってしまいます。
例えば、
「お前、これやらないから凡人のままなんよ」
って本当の天才や秀才が言うとは思えません。
「相手を見下すことで、成功したように思い込む…それで本当に合ってますか?幸せですか?」
と自称天才に言いたくなった人は沢山いるんしゃないかと思います。
でも、自称天才に感情的にぶつかっても仕方ないのもわかっていらっしゃいますよね。
天才の定義は、辞書で引けば以下になります。
【天性の才能。生れつき備わったすぐれた才能。
また、そういう才能をもっている人。】
-広辞苑-
定義なんて、自由なので、僕はもう少し違った解釈をしておきたいです。
天才とは、
「才能を天性に任せない人」
なんじゃないかと…。
天性の上に定められた運命を信じない。
天性の上に決められた才能を傲らない。
天性の上に委ねられた職業に囚れない。
天性の上に捧げられた権力に頼らない。
それが、天才ではないかと。
天性の才能を持った人間は、天性の才能を持っていると満足しないし、傲り高ぶらない。
偉大な哲学者ソクラテスの提唱する「無知の知」にも近いかもしれません。
「自分があらゆる分野について知らないということを知っている」のが天才です。
決して、凡人を見下さない。
決して、凡人を見捨てない。
決して、凡人を侮辱しない。
決して、凡人を腐らせない。
だから、僕らは別に凡人であってもいいと思うのです。
これだけ個人主義が囁かれ育てられた時代ですから、「僕はオンリーワンの天才であろう」と思うかもしれません。
でも、数々の天才の周りには、数々の天才が居ることを見ればわかるように、人は凡人であろうが天才であろうが、なんであろうが、個人では何もできません。
どの時代にも圧倒的個人など居ません。
必ず周りに支える人が居た。
当時居なくても、その後の時代で支える人が居るから、天才は天才と呼ばれ続けるのだと思います。
凡人は凡人。
僕は凡人。
だから、いつか天才と呼ばれることがあっても、凡人であり続けてもいい。
そう思いませんか。