【発信疲れした人用】いつのまにか、毎日何度も多数決の答えの中に埋もれちゃってるから、疲れる。
2020.2.28.金 #224日目
「発信しても発信しても、いつまで経ってもうまくいかないじゃないか!」
って心の中で怒鳴ったあと、
「誰もわたしなんかに興味がないんだ」
って冷静にネガティブになっている人に、物凄く共感するところがあります。
いわゆる「発信疲れ」を起こしている。
僕もそんなところを通ってきてて、
なんなら今もそんなふうに思う時もあります。
発信活動の全てを「やめてしまいたい」と思うその瞬間があるのです。
そんな時が、また来たらどうすればいいか。
ほんとは、見てくれている人が居ます。多分、この記事のタイトルを目にしてここにきてくださった読者さんは、おそらく、ぼくと同じ悩みを一度は持ってらっしゃった。
そうだと思って話を進めていきます。
さて、これからどうするか。
僕たちは、
何のために発信をしているのでしょうか。
見てもらいたいのでしょうか。
褒めてもらいたいのでしょうか。
批判してほしいのでしょうか。
叩かれたいのでしょうか。
そうかもしれませんね。
もっと違った理由がありませんでしたか?スタートしたキッカケのようなもの。
嬉しかった出来事を話したくなった。
悲しくて耐えられなくて聞いてほしかった。
ムカついて何か形にして捨てたかった。
発信すること自体が楽しいと思った。
何かを貰うために、僕たちは発信し続けているのではなかったんじゃないかと思うんです。
むしろ、誰かに何かをあげたかった。
送りたかった。
贈りたかった。
という気持ちが主観的に沸いたから、発信し始めたんではなかったでしょうか。
SNSは、ハートやいいね、フォローやチャンネル登録、リツイートやシェアなどの数が目に見えるようにはっきりと出てきます。
発信ツールのSNSでは、なんなら、それが多ければ多いほど「良質な信用できる発信」とされている節があるんです。
で、さっきみたいな
見てもらいたい。
褒めてもらいたい。
批判してほしい。
叩かれたい。
という感情が湧くようになっている。
いつのまにか、いいねやハートが欲しくなっていて、
「もっともっとポチっとしてくれ!」
と、フォローやチャンネル登録を願うようになっている気がしませんか?
いつのまにか、受け身です。
あんなに主体的で、主観的な理由から始めたはずなのに。
与えられることを望む人間へ。
多数決の答えをくれる場を探して回る人間へ。なっちゃっていく自分に気がついていますか。
僕なら、発信疲れを起こすまで気がついていません。インターネットやSNSの使い方は、個人がツールとして使うものであるといつも、思い直さないと苦しくなってくる。
発信したものが、誰にも見てもらえないことなど、当然。
多数派による賛同や、同情を得たいと思うようになるあまり、
それが無ければ、「わたしはひとりぼっちの不幸だ」と勘違いしてしまう。
だから、疲れる。
僕らには、初心に帰るためのツールが必要。だから、いつも忘れないように、手元に大好きなモノを置いたりする。
例えば、キッカケになったものでもいい。
他にも、SNSを登録した日のことを思い出してみよう。
初めて主体的に自分の人生のため、誰かに何かを届けたいがための発信をした日のことを。
僕らって、案外単純に操作されてしまう生き物なんだから、多数派や、多数決で決まっていく世界にのめり込みすぎて、自分の心をすり減らさないでおきましょう。
そう、僕が、最近ツイートを減らした理由はそこです。ツイートしてフォロワーを増やすことが僕の初心ではないし、原点でもない。
だから、自分の原点の方針「気になったものや学んだものを誰かに共有したい」「絵で誰かと誰かがつながるような発信をしたい」そういう発信疲れを起こさないスタートを思い返しています。
あなたが、最後、この記事を読んで、
「いいね」という他人の指数に騙された生き方をしていないかを再確認できていたら嬉しいです。