ぼくらは、「音」と「躾」を結べるのか。【音のミニマリズムについて】
2020.3.28.土 #252日目
ギターが目の前に置いてあるだけで、好きなギタリストの顔を思い出してやる気がボンボン上がる米田です。
今日は、音のミニマリズムについて久しぶりに考えていきたいと思います。
*理由はあとで説明します。
読んでくださるあなたには、今日から少しだけでも素敵な音を耳にしてもらえるようになれば嬉しいです。
さてさて、本題へ。
数年前のこと。
とあるハッとさせられた言葉がありました。
大学の卒業制作で最小限住宅を自分の思考実験として研究していた僕は、禅などを代表によく挙げられるミニマリズムやミニマリスト、最小限主義という考え方をすごく好んでいました。
むしろ、今でも好きです。
大学生の頃には、自宅でミニマリズムを実践して、服も家電も必要最低限、食費も生活費もどれくらいに必要最低限にできるかの虜になっていました。
その中で出会ったのが、
「音のミニマリズム」という言葉であり、発想です。
ぼくが学んだところでは、「躾(しつけ)」という言葉に結んで説明されていました。
食事の際の音だとか、
ドアの開け閉めの音、
配慮のない大声、
など、ぼくたちの生活にはミニマムにできる音がある。
声を荒げるのも、
バタバタするのも、
物に当たるのも、
当然「躾」が成っていないという考え方に至るわけです。
失敗の意味で、ハッとしました。
幼少からイライラすると物に当たる癖のあったなぁと。
大学の時に改めて自分の過去や今を省みて「躾と音」について思考が結びつきました。
まとめます。
自分なりに最小限の音で生活したり、言動を行うことは、「音のミニマリズム」であり「最低限の躾」だった。
それは、これからもずっと探求できるところで、注意を払うことができる行為であると。
ただ「音を小さくすれば良い」わけではない。
最小限の音を知る機会を持つ。
それは、心地よくて、落ち着いた、ゆったりした空間にも等しい重要な精神であると。
モノを削り捨てることがミニマリズムだと思いがちですが、今一度考えてほしいです。
「音のミニマリズム」を。
読んだあなたが、心地よい日々を送れますように。
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