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人形峠からのC11(小説)

 1945年、太平洋戦争末期。私はそのころ、仁科博士の理化学研究所の研究員として、弐号計画と呼ばれる極秘計画に参加していた。
 そのために私が訪れたのは人形峠。日本でほぼ唯一のウランが取れるところである。

 弐号計画、それは人形峠で採れたウラン鉱石を一次濃縮して相模原海軍補給廠に作られた濃縮工場に運び、完全に濃縮して新型爆弾を作る計画である。

 新型爆弾の可能性は私はすでにドイツやアメリカの論文で知っていた。しかし、アメリカの物理学者は戦争が始まる以前から論文を発表しなくなった。ドイツの学者たちもである。新型爆弾、後に原子爆弾と呼ばれるものの開発競争は戦争が始まる以前からすでに進められていたのだ。

 ドイツからはケープタウン周りの潜水艦で資料が送られてきたが、彼らは中性子の減速材に重水素を使おうとしていた。しかし、私は冶金の技術を使ってウラン238とボロンを使い、中性子をチェンバー内で乱反射させ、密度を高めて核連鎖反応を起こそうと考えた。そのほうが爆弾としては効率がよい。爆縮型と呼ばれるアイディアである。
 もちろん、核技術を軍事に使うことには抵抗があった。しかし、戦争はすでに始まり、私の大学の同窓生も南方で次々と戦死していた。
 もう止まることは出来ないのだ。

 人形峠の最寄り駅には支線用として見慣れた小型蒸気機関車のC11、それに木造の2軸無蓋車に無理矢理石炭を増載するために車体中央にもう1軸車輪を追加した3軸貨車が3両、そして食料等を貨物室に積んだ木造緩急車ワムフの編成で列車が仕立てられていた。私は道中、1時間ごとにガイガー計数管を使って放射能が異常上昇しないように監視するのだ。1次濃縮状態のウランは直接手で触れなければ害はほとんどない、と信じていた。そのころは放射能の害よりも空襲で死ぬ確率の方がずっと高かったので、怖くなかった。放射能どころの話じゃないほどにあのころは人命が安かったのである。

 機関車には機関士・副機関士・機関助士の3名に応急措置用に機関庫から1人の4人である。機関士たちは鉄道省が選んだエースで、日本全国の鉄路の詳細に通じている。ただでさえ狭くボイラーの熱のこもる機関車の運転室は4人も入っていてまさに灼熱地獄である。しかも石炭の質が非常に悪く、くべてもくべてもたいして燃えず、出るのは滓ばかり。結果、給炭は2人掛かりという有様だった。しかも機関車のデフレクターは木製、石炭庫も木で上に延長して石炭を無理矢理多く積もうとしているというシロモノである。何もかもが無理やりなのが戦争なのだ。
 そして緩急車の私たちも大変だった。緩急車には計数管担当の私とともに海軍造兵廠の技術士官の大尉、そして車掌歴が私の生涯よりも長いという古参車掌の3名である。ワムフと言っても2軸、しかも半分が貨物室なので、車掌室は狭いことこの上なかった。しかもデッキをつける余裕もなかったせいで車内には汗と木の日に焼ける臭いがねっとりと充満する。

 とにかく出発である。7月20日早朝の事であった。ウランの積み込みは木炭エンジンのトラック3台を使って3往復した。これだけあれば1発の爆弾が作れる。技術大尉と私の意見は、出来上がった爆弾は直接人に対して使うよりも海上、それもB-29の基地があるサイパンの近くの海上に2式大艇で運び、そこで時限装置で爆発させて停戦交渉のきっかけにしようと言うのだ。第一こんな爆弾を戦場で使っては友軍もただでは済まない。それにサイパンに落とそうとすると優秀な迎撃網をしいた米軍の迎撃機に迎撃されてしまう。

 やはりこの爆弾は威嚇用に使うべきだ。上陸を受けた沖縄の惨状はすでに耳にしていたので、米軍の本土上陸以前にうまく終戦のきっかけをつかめれば、と思ったのである。どうせ1発しか作れないのだから。

 C11以下4両の短い私の貨物列車は出発した。大都市のほとんどが焦土になっていたが、それでも日本の鉄道員は輸送の使命を果たそうと尽力した。空襲によって各所で線路が破壊されたが、その度に修復して何とか輸送網を維持したのだ。勿論犠牲者も多かったのだが、みんな勇敢でよく尽力してくれた。山陰本線の直撃弾を受けてグニャグニャになった線路の脇の細い仮設15kgレールの上をそろそろと走る。

 神戸も大阪も見渡す限りの焼け野原。日差しは異常に強く、暑い。しかしやはり菊の力である。技術大尉は私たちのために貴重なラムネを用意してくれていた。
 機関室のみんなと『甘露甘露』と喜びながら飲もうとした途端、急制動。何事かと機関車を呼ぶと、この先東海道本線が爆撃を受けて不通との情報。
 急遽草津線経由に変更。目指すは名古屋である。
 しかし、草津を過ぎて2駅目でまた急制動。草津線も名古屋以遠の豊橋も駄目だという。
 そこで北陸・金沢を経由することになったものの、草津線は随所で爆撃を受けていたために単線しか使えない。そこで老車掌が手旗で指示しながら推進運転で戻ることになった。草津の前の駅で機関車を私たちの緩急車の前に付け替えるものの、機関車は逆進運転のままである。

 なんとか米原着。この交通の要衝も度重なる爆撃によってボロボロであったが、それでもまだ鉄路は繋がっていた。そのころの日本はトラックが僅かで、陸路が全然あてにならなかったのだ。
 しかし、戻ってみると今度は米の受け取りに行く空の有蓋貨車6両が機関車を空襲で失って立ち往生しているという。再び計画変更、ワムフと3軸の前に増結して北陸本線を走ることになった。
「なんでも、D51が尾久で1両『無くなった』らしい」
「えっ、無くなった?」
「ああ。下関で見つかったんだそうだ。でも、誰が運転したんだろう。信号係も運用係もなんで気づかなかったのか」
「わからんなあ」
 C11には若干重い荷だが、しかし貨車は空である。何とか走れそうだ。

 その日、ラジオで広島に新型爆弾が投下されたという放送を聞く。私たちは強く憤った。しかし、老車掌がなだめてくれる。憎んじゃいけない。本当に悪いのは人間じゃない、戦争なんだ、と。

 長浜、木ノ本と本線を走る。機関車は壮絶な振動と熱の坩堝だが、牽引される緩急車は狭いながらもジョイント音だけの妙に静かなものである。
 ところがそこに爆音。
「グラマン!」
 叫ぶ大尉。急制動をかける。機関車は全弁を込め、緩急車も手回しハンドルも使って精一杯の制動。老車掌のハンドルさばきに感心する時間もなく、止まりきらない内に飛び降りて逃げる。
 隠れるために列車の下に潜ろうとすると、
「馬鹿ッ、機銃で蜂の巣にされるぞ! 列車から離れて伏せろ!」
 と言われ、必死に逃げて草むらに這う。夏草のむせ返るような匂いの中、ひたすら敵機が過ぎ去るのを待つ。腹の底に響く爆発音。
「ありゃあ1トン爆弾だ、艦載機だナ」
 と老車掌。
「アベンジャーだろう。あれに戦艦〈大和〉もやられたんだ」
 と技術大尉。
 空襲は終わり、列車に戻る。列車を点検する老車掌に同行する。幸い私たちの列車は敵機に見つからなかったようだ。だが、鉄道電話で機関士が聞いたところによると、この先の駅が爆撃を受けたとのこと。修復には2日かかるという。だが、米原に戻ろうにも鉄道の要衝米原はここ数日激しく爆撃されている。

 完全に立ち往生になった。

 仕方なく、列車はそのままで近所の農家に泊めて貰うことになった。機関士たちは交代でC11の種火を守り、他のものは農家の方のご厚意に甘えて休む。
「この戦争、やっぱり勝てねえなあ」
「そうだなあ」
 夜空がきれいだった。戦争を忘れてしまいそうな美しくのどかな風景だった。

 次の日。線路修復の報を受けて再び列車は東を目指す。途中、爆撃を受けた駅を通る。
 ホームも跨線橋も跡形もない。
「アメさんもひでえコトするナァ」
 と、ゴトゴト揺れる緩急車から覗きながら言い合う。

 金沢を過ぎ、直江津着。そこで聞いたのは長崎にも原爆が落とされたという話であった。もう後戻りは出来ない、とすら思った。憎悪に憎悪で応酬する。人はなぜこんなにして争わねばならぬのか。

 空の貨車に米を満載し、東京へ向かって走り出す。のどかな田圃の中の線路を快走。
 しかし再び爆音。急制動、退避。敵機を見る余裕はない。
 ブパッと言う妙な音に続いて爆発音。何だか分からない。
 とにかく爆音は過ぎ去り、列車を見ると、12両の有蓋貨車が完全に吹き飛ばされていた。
「ロケット弾だったんだ」
 と言う技術大尉。調べるとワムフと3軸、そしてC11は無事だった。3時間後に保線区のみんなも来て、まずは吹き飛ばされた有蓋貨車の残骸を脇に寄せ、緩んだレールを直す。しかしレールのゆるみはロケット弾のせいだけではなく、以前からのものだったらしい。もう枕木もレールもなく、ボロボロでグズグズの枕木に接ぎ木をして騙し騙し使っているという。悲惨!

 しかし、東京行きの米はなくなったもののまた5両に戻って峠越えは楽になった。とは言ってもC11がこんな長区間を走ることなど考えられもしなかった。各給水所ごとに給炭・給水を繰り返す。私も車掌も技術大尉も出来るだけ手伝う。

 人形峠を出て2週間。まだ道半ばにして食料も底を尽きた。しかし駅側の人々がなけなしの食料を分けてくれた。その暖かさにはただ涙するしかなかった。こういう人々を守るためにも、と思う。今になってみると戦争に負けたところで皆殺しにされはしなかったのだが、そのころは真面目に男はみんな銃殺、女はみんな犯されると信じていたのだ。アメリカの空襲やサイパンでの玉砕を聞くとそう信じても不思議ではなかった。ただソ連による占領と抑留はその通り以上にひどかったと後で聞いて悲しくなったのだが。

 八月十二日、ついに私たちの列車は二度の空襲にも耐えて峠を越え、関東平野への下り坂、軽井沢・横川の峠を下った。軽量編成であるが、シェルパ、補助機関車がつく。

 高崎着。そこで米軍の次なる目標は相模湾への上陸だという噂が聞こえてきた。技術大尉によると、建設中の補給廠のプラントにウランを投入して濃縮を開始したら爆弾としての完成品を作るよりも、プラントを暴走させて上陸する米軍もろとも吹き飛ばすしかない、という作戦もあるらしい。
 でも、それでは相模湾沿岸のみんなはどうなってしまうのか、と問う。大尉は、プラントの疎開は間に合わないだろう、と言うだけだった。
 もう絶望的になるしかなかった。私は、もしそうなるのだったら最後の操作は私が行い、プラントと共に死のうと思った。
 私の苦心して設計した濃縮プラントと共に。

 沿線に家が多くなりはじめた。八高線を経由して八王子、そこから横浜線、橋本から相模線、そして西寒川支線を通って終着の濃縮工場だ。
 ところが群馬藤岡を過ぎたあたりで再び空襲を受けた。敵機は硫黄島からやってきたP-51ムスタング。また急制動、退避。しかし、列車は土手盛りの上で止まってしまった。周りに逃げ場がない。土手の影にはいつくばる。爆音とともに、発射された12.7ミリ機銃弾が易々と列車を貫く音が聞こえる。
 過ぎたか、と思い顔を上げると、ムスタングは旋回して今度は我々を狙ってくる。必死になって土手を駆け上り、反対側の斜面に飛び込む。
 生きたかった。
 プラントと共に死ぬつもりだったのだが、この時は生きたかった。
 死んでたまるかと思った。
 爆音は過ぎた。ムスタングの航続距離でもそう長くは戦闘できなかったのだろう。
 顔を上げると、C11は白い蒸気をもうもうと吹き上げていた。銃撃で蒸気系をやられたらしい。
 もう駄目だ、と思ったが、機関士は救援の保線区のみんなと「ああでもない、こうでもない」と言いながら木栓で穴を塞いで、8時間後には何とか運転可能にしてしまった。すさまじい根性である。戦後彼ら日本の鉄道員はこういった工夫と忍耐と努力で世界的にも評価されることになる。

 蒸気圧に注意しながら、そろそろと列車はまた走り出した。
 砂漠のようになった東京が遥か遠くに見えた。東京が平地ではないことを始めて知った。双眼鏡を大尉から借りる。あれほどあった建物は皆焼かれ、後には丘が、そしてその間から東京湾がかすんで見えた。

 八王子を過ぎ、横浜線に入る。
 給水所で機関室のそばに集まって話し合う。
「ここで弾丸列車の実験をやっとったんじゃがのオ。こんなにやられちまって、日本ももうおしまいじゃナア。東京の私鉄の車庫もずいぶん焼かれたそうじゃ」と老車掌。
「まだまだやれますよ。アメさんも同じ人間です。人間性を解ってくれます。いつか、アメさんも僕ら日本人も、みんなが夢を持てる良い世の中が来ますよ」
 私はそう言った技術大尉の顔を思わず見てしまった。
「僕は祖母がアメリカ人なんだ。アメリカに渡っていた兄は、収容所に入れられるよりは、と米軍に入った。僕は日本人だ。だから軍に入った」
 私はそう言う彼の胸中を察し、辛かった。彼が快活で澄んだ目をしているのがかえって痛々しかった。
 戦争を心から憎んだ。
 早く終わらせたい。
 でも、どういう形で?
 新進気鋭と呼ばれる物理学者である私の頭の中には、物理数式も知識もいっぱい詰まっていた。
 しかし、その中には人々が憎しみあったり、その後で握手して仲直りするという、複雑な『心』を表した数式はまだ一つもなかった。
 だから、『戦争の後』というものが私には全く想像も付かなかった。
「君たちを巻き込んですまない。本当は僕ら軍人が死ぬだけなら良かったんだ。
 軍人は死んで当たり前だ。覚悟は出来ている。
 でも、みんなには未来がある。
 プラントを爆破するとき、僕がそのスイッチを押す。代わりに君は逃げるんだ。
 アメリカの人間を許してくれ。戦争をするこの愚かな人間を許してくれ。
 許す心だけがこんな無茶な戦争をこれから防ぐ方法なんだ。
 みんな何とかしようとしたんだ。でも、何ともならなかった。
 君だけでも許してやってくれ。人間そのものには絶望しないでくれ」
 大尉はそう言って僕の手を握った。
「きっかけは怠惰だ。間違ったことをする人間、さまざまに狂った人間をすぐに罰しなかった。罪を罪として罰しない怠惰。なあなあで先送りする怠惰。それがボタンの掛け違いを作り、こうなってしまった。人を許し、罪を罰する。本当にあたりまえだけど、人間はそれがなかなか出来ない」
「自分の心の中さえ穏やかなら、と、現実の戦争に無関心な人間が多すぎたんや。戦争を防ぐには自分の心の中を戦場にする厳しさがないとあかん」
「人間は弱い。あまりにも」
 機関士たちはそう言いながら、技術大尉がどこからかガメてきたタバコを吸っていた。

 八月十五日早朝、大きく遠回りした列車は、ついに終着駅、相模川の朝霧に包まれた西寒川に着いた。
 穴だらけの機関車、半分焼けた3軸貨車、空っぽになったワムフが、支線の終点で停車した。

 しかしそこに、濃縮プラントはなかった。
 聞くと、三日前、B-29が高高度から500キロ爆弾をばらまき、全部吹き飛ばしてしまったという。跡にはがれきがぺったりと散らばっているだけだった。

 私の旅は終わった。

 その日正午、ラジオが終戦を告げた。


 それから後の事について、手短に書いておこう。

 戦争は終わった。

 老車掌はそれからあと山陰に帰り、車掌区の区長になった。
 技術大尉は所属する海軍が無くなってしまったが、小さなラジオの会社に入ってラジオの研究を続け、今、世界でもっとも小さなラジオを開発してアメリカに売り込んでいるという。戦争では勝てなかったが、経済や技術で仇をとろうということらしい。それもまた彼なりの結論だろう。彼は兄弟がアメリカにいるのだが、それでもやはり日本が好きらしい。
 2人の機関士は今、『新幹線』とかいう夢の超特急の研究のために働いているという。時速210キロ、遠い将来は300キロ以上のスピードが出るという。片方は弾丸列車の系譜をふんだ『新幹線』を、もう片方は線路上を浮かんで走るという『磁気浮上式鉄道』の開発をしている。二人とも単なる機関士ではなかった。鉄道省のホープだったのだ。だからこうなるのは当然だったのだろう。
 機関助士は電車運転士になり、東海道線の花形特急『こだま』のマスコンを握っている。まだ若いのでさらなる未来があるだろう。
 機関庫から来た整備の人間は、北海道で大型蒸気機関車C62の整備をやっている。やはり蒸気機関車から離れられないらしい。私も力強くメカニカルでそれなのに動物のような生きた感じを持つ蒸気機関車が好きなので、その心情は良く分かる。

 そして、私は今、ストックホルムにいる。
 満員の観衆の中、そうそうたる学者たちの列に加わって私は今、この式典に参加している。
 ついに私の名が呼ばれた。
「受賞者、ヒデキ・ユカワ。ノーベル物理学賞」
<人形峠からのC11・了>

※本稿は2000年ごろにワタクシが書いた短編を改訂したものです。初出については調査中です。自分でもどこに書いたのかもすっかり忘れてる…。そういうところですよね。すまん。

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