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しくじり著者~こうなったらダメだぞ!

時々リクエストをもらってるので、私の失敗人生について語ろうと思います。みんなはこうなったらダメだぞ、ってことで。テレビの「しくじり先生」スタイルでいきます。ワタクシ、今更のテレビっ子なので。すまぬ。


しくじりのはじまり 1973年

ワタクシ、秋田県秋田市の夏に生まれ、その後、幹部自衛官の父の転勤にしたがって千葉、神奈川、青森をうろうろする子供時代を過ごしました。

電車に乗るのが好きだけど電車で遠くに行くと寂しさでギャン泣きしてしまうという非常にメーワクな子供でした。

電車を見たい、と言うと親や親戚は上野駅に連れて行ってくれました。当時の上野は頻繁に列車が発着する大ターミナルでした。今は新幹線ができて静かになってしまいましたが、当時は全盛期だったかな。

そして私は列車に乗りたいといい、親戚はそれならと秋田行きの特急「つばさ」や寝台特急「あけぼの」に乗せてくれました。当時のそれらの列車はほとんどは今は山形新幹線になって通れない奥羽線周りで、風景がとても印象的でした。

特に寝台列車で行くと冬は雪の奥羽山脈を走ります。雪の降る世界は独特に静かな世界です。その静寂の闇の中、カーブで先頭の機関車のライトの光芒が少し見えて鋭い汽笛が聞こえます。暖房で汗をかいた窓越しにそれを見つめます。雪深い通過駅の分岐器には融雪カンテラがともされてて、それがまるで妖精の灯りのように幻想的です。そして夜明けを迎えるとダム湖や渓流が車窓にどんと広がります。雪と黒い木々、黒い水はまるで水墨画のように美しかった。多分その川は雄物川だったのだと思います。途中にダムもあって素晴らしい変化と起伏のある、素晴らしいまったく飽きない風景でした。

そして秋田に着くと、私は突然戸惑います。そこで言い出すのです。「もう帰りたい!」と。私は秋田に行きたかったのではなく、列車に乗りたいだけだったのだ、と。そして秋田の祖母祖父の家は作りが古くて暗くて怖かった。それでギャン泣きしました。帰りたい、と。なんと実にメーワクな子供でしょう!

それでも祖父が取りなして近所の農業倉庫の専用線に連れて行ってくれます。そして羽越線の新屋駅近くで通過する列車を見せてくれました。運転士さんがサービスで汽笛を鳴らしてくれました。
今その農業倉庫はなくなって大学のキャンパスになっているとのことです。

ちなみに今からちょっと前にその新屋駅を通過する特急「いなほ」に乗りました。あのころからずいぶん経って新屋駅は改装されて新しそうな跨線橋ができてましたが、その近くの列車を祖父と見たススキの草原はそのままでした。あのころの祖父に肩車されて列車に歓声を上げる自分を見るような気になりました。

また自由研究大好き工作大好きっ子だったので、いろんなものを作りました。エナメル線を自分で巻いたコイルで簡単な電流計を自作したり、それを応用してリニアモーターカーのおもちゃを作ったり、小3でカム軸使って船頭さんや客が動きながら揺れる屋形船作ったり。

あとやり込みが好きで、学校のトイレ掃除当番とか、みんな嫌がるけど私はやりこんでタイルの目地が真っ白になるまで磨いて校長先生に褒められたりしました。

仲間と江ノ島鎌倉の観光ガイドブックを作ったり、青森に住んでいた時は図書館に通い詰めて一人で八戸市の通史をレポートに作ったり。本当に楽しかったけど周りはとても変な子と思っていたようです。そりゃそうだ。

そして神奈川に引っ越して通った中学ではパソコンとファミコンざんまいして、ゲームで遊びまくった最後にゲームデザイナーを目指してスキル上げをしました。でも当時は貧相なパソコンしかなくBASICしか使えずCとかのコンパイラは高くて買えず、それで自分はシナリオとイラストをやろう! プログラムとかはすまないけど誰かに頼もう! と方針転換して、シナリオと企画を考えることになります。

いつかワタクシの作ったゲームで遊びたい、と一緒にゲームで遊んだ弟は言っていました。近所のスーパーのゲームコーナーでワタクシは『ライフフォース』(沙羅曼蛇の海外版)を一周して見せると、弟はめちゃ喜んでいました。

でも結局それは永遠に果たすことができなかった。

当時やってたのは初代大戦略とかゼビウスとかグラディウスとか沙羅曼蛇とか。ほんと面白くて強い印象を与える名作が多かった。私がその後商業出版にデビューする小説『プリンセスプラスティック』の主人公、女性型女性サイズ宇宙戦艦シファとミスフィはグラディウスや沙羅曼蛇の自機・宇宙戦闘機ビッグバイパーとロードブリティッシュからモチーフをもらっています。だから青と赤なのです。そして弾切れを起こさないように量子実装の巨大別時空武装とか設定しました。1人で戦闘質量11万トン、建造費用12兆円。だからオプションやフォースフィールドを装備もしますし、これまでの小説シリーズの中ではなんとシファが『コナミコマンド』でパワーアップするシーンもあります。われながらひどい……。


シファ。2024年作図

いつかこのシファとミスフィを主役にしたゲームを作りたい……最近Unityで3Dモデリングしたシファを飛ばして当たり判定を取るところまで行ったけどそこから進まぬ。ぐぬぬ。


高校受験 1992年

そうしているうちに私が中学2年の時、弟が突然、急性ウイルス性髄膜炎でこの世を去ります。当時まだ症例が少なかった病気で、当初は病名もわかりませんでした。ただの風邪のはずが、入院してその次の日には生命維持につながったチューブだらけになり、その次の日には息を引き取ってしまったのです。あまりのことに医療事故も疑われるほどでした。私よりずっと元気で風邪もほとんどひかず純真な弟は、そうしてあっけなく8歳7ヶ月で私より先に旅立ちました。

そのショックでワタクシの実家はワタクシを含め、色々とおかしくなりました。

それなのに高校受験が始まります。ワタクシは当時遊びすぎていて偏差値は40台でした。まともに勉強なんてする気はなかったので。でも当時私はいじめを受けていたし、実家は高校受験のストレスを私以上に受けてて父はストレスで酒乱、母もひどいヒステリー。どうかんがえても最悪でした。

そこで私は逃げるために近所の塾に通うことにしました。個人経営塾で、なぜかマンガ本がどっさりある塾。本を読まない子が多いからマンガでもいいから読め、ということで置いてありました。

私は当初そのマンガを読んでるだけでしたが、それだけではさすがに格好がつかない。

だからマンガを読みに塾に行ってたはずなのに、大義というか格好つけというか建前を作るために勉強の格好だけでもしてみることにしました。

やったことはじつに簡単。コピー機でドリルや過去問をコピーして記入して解き、ひたすら満点が取れるまで繰り返す。そして満点が取れたら次のドリルを解く。それだけでした。

すごく安易なやり方でしたが、当時の神奈川県の高校受験の勉強なんてそれで良かったのです。よくあるリングでとめた単語カードもマーカーも一切使いませんでした。

気づけば模試での偏差値は60をあっさり超えてました。試験なんてそんなもんなのか、と思いました。傾向と対策、習慣化した反復練習の強さをその時知ったのです。

また現代国語なんかは「書き手は何を意図しましたか?」という設問が、実は書き手の意図ではなく、出題の先生がそれを通じて何を子供に答えさせたいのか、までを読みとるべきだと気づきました。テストの点数は正しいことを答えるものではなく、出題者の意図にいかに忖度するかだ、と。それで国語の偏差値はしばしば80を超えることもありました。

そして受験で偏差値40のまま高校に行ってまたいじめっ子と同席するのを避け、偏差値62の高校に逃げることに成功します。

それで行ったのが海老名高校。内申点が悪かったりする子が試験一本の一回勝負で入るような高校でした。内申点のいい子は厚木高校に行くので、それに行けない子が海老名高校に行きました。私も弟亡くして荒れちゃって学校を無駄に休んだので内申悪くて海老名を選択し、入学しました。


最初のしくじり

これが最初のしくじりでした。この高校受験の成功で、ワタクシは自分が少し頭がいいのかなと誤解してしまったのです。実のところ傾向と対策と反復練習で高校受験に特化しただけで、私の地頭の悪さ、スペックの低さ、注意力の不足などはまったくそのままだったのです。そもそも小学の頃は忘れ物があまりにも多くて先生にも怒られるのを通り越してあきれられていました。部屋の掃除も苦手なのです。どう考えても決して頭がいい方ではない。

でもその誤解で大学受験を目指します。予備校通いも始めました。駿台予備校の国公立受験コースに入ったものの、そこでハマったのは小論文教室と世界史や現代国語の授業で、高校の英語の先生がやたら左がかった変な先生だったために英作文は苦手、英文解釈は力業で類推で解こうとして罠にはまって失点も多く、また物理も得意だった時期もあっても高校にそのあとの物理の先生がいないために勉強は独学でする羽目になり、数学も先生は面白くてだいすきだったけど問題を解くのはどへたくそ。というわけで国公立受験に必要な5教科のうち3教科が悲惨ということになりました。

そこでせめて2教科が強かったのでそれで英語の失点をカバーする作戦に出ます。それでよりによって、とあるめちゃ難しい国公立大学の後期試験を受けることにします。それだと3教科+小論文で戦える、と。

戦えるわけないのです。めちゃ難しい国公立なめんなと。5教科でも満点に近くとっちゃう人がぞろぞろいる大学の後期日程が楽なわけがないのです。

案の定現役受験は失敗。続いて1浪でも失敗。父の仕事に近い大学校もうけますが、現役の時は受験日を間違え、1浪の時は普通に成績悪くて落ちました。

その間に小論文教室の居心地がよくて作文を続けます。小説めいたものも書きます。大学に入って学歴持てば本が書けると思ってました。あの頃はインターネットもない、ウェブ小説も当然ない、投稿サイトなんて言葉すらない。だから学歴をもって持ち込みで本を出そうと思ってました。ハイ、バカですねー。そんなのできるわけない。


そんな小論文教室は駿台予備校の御茶ノ水と横浜で開かれてて、指導してくれたのは内海信彦先生でした。とても多くを学びました。感謝しかない。その教室で私は助教授と呼ばれてました。恐縮なり…。先生は現代画家なので個展やイベントもやってて、それを拝見することもありました。すごく興味深かった。当時の予備校の先生は質も高く、受験目的を超えるほどの学びをくれました。今どうなんだろう。分からんけど当時はめちゃ楽しかった。

でもそういう学びが楽しくても、成績は良くなかった私です。ぜんぜん役に立ててない! すまないことでした。


2浪目の失敗 1994年

そこで2浪に突入。そこで体をこわしました。というかメンタルが限界にきて体に症状が出ました。そりゃ神奈川県厚木の田舎から毎日大混雑の当時の小田急と中央快速線乗り継いでお茶の水の予備校に通ってたのです。当然体にも心にも無理でした。

当時乗った電車は201系。うるさいわクーラー寒いわ揺れるわ混むわでいい思い出がない…。ついでに言うなら小田急9000形もあまり好きじゃなかった。外から見るとカッコいいかもですが中から外が見にくくて乗ると圧迫感を感じてた。それだけ私はすでに病んでたんです。多分。

頭はそれなのに小論文教室で書きたいことがどんどん増えていって完全過積載状態に。

それでそのうえ無謀にも受験費用をけちって専願してたそのめっちゃ難しい国公立にようやく加えて滑り止めにとある地方の小さな大学の受験もすることにしました。これに落ちたらもう人生どうにもならん、とテンパりながら、それでも実際まともな勉強もできず、精神科に通い始めながら無駄に時間だけが過ぎました。

そしてその地方大学の受験日前夜、ひどい不眠でさらにパニクった私は、部屋にぶら下がり棒として作っていた手すりにベルトをかけて首を吊ります。

気づいたらワタクシは失禁してブリキのゴミ箱の上に倒れていました。ベルトのバックルが切れて絶命する前に落下したのです。それで落ちて下にあったブリキのゴミ箱が壊れ、その裂け目が私の首を切り、出血しました。

それで病院に行くことになりました。病院ではこれは入院必要、ってなったのですが、サインせよと渡された入院の承諾書には『神奈川県知事の同意がなければ退院できない』という恐ろしい記述がありました。なんでこれで措置入院なんだよ……。某医大病院精神科はそういう変な病院でした。せっかく創立者がお札になったのにね。変な病院。

入学ではなく入院 1994年

というわけで隣の国立病院に行くと、たしかにこれで措置入院はおかしいけど入院した方がいい、でもその某医大病院に知られると困るので、などといわれ、それでちょっとはなれたとある大学病院精神科に入院します。大学に入学ではなく入院になってしまいました。だめじゃん……。

それで入院したときに486ノートという当時全盛のNEC98ノートの互換品としてEPSONが出してたノートパソコンを買ってもらい、入院の記録を書きました。そのついでに頭に過積載していたストーリーも書いていきます。

私が人生で初めて書いたストーリーは小学3年のペンギンの氷屋さンの話で未完に終わり、その次は高校の時に文芸部で短漢字変換のワープロで書いた架空戦記。これも未完。そしてこの入院の時にアクション小説とか科学理論の分厚い本とかめちゃ本を集中的に読んで書いたのが、中学の頃に書き始めた女性型女性サイズ宇宙戦艦の小説で、これは人生で初めてエンドマークまで書けました。これがプリンセスプラスティックだった。のちにこの話を少しだけ加筆して早川JAから商業で刊行します。

私はこんな苦しい私がなぜなのか知りたかった。でも医者はなかなか言ってくれない。それでも聴くと、統合失調症だろうね、といわれました。覚悟はしてましたがショックでした。当時は今より偏見も大きく、私自身もその中に居たのです。ショックでいろいろ本を読みました。やっぱり私は一生を鍵のかけられた病棟の中で終わるのか。まさにどん底でした。


退院後の日々鬱々

それでもなんとか退院しました。しかし体に出た症状は相変わらずひどく、一日シーツのしわを見てぼーっと過ごすような生活を続けました。幼馴染の同級生の男が、就職してるのに私にたまに会いに来てくれるほかはほかの誰とも何の交流もない暗黒時代に突入します。

そこですくってくれたのがエビリファイという薬。当時は新薬でした。ドーパミンがでないとだしてくれて、ですぎると抑えてくれるドーパミンスタビライザーという便利な薬。私はそれを処方してもらってから症状が良くなっていきました。今はエビリファイ、多くの人が使ってジェネリックも出てますが、当時は新薬で医者も知らなかった……まじか。


投稿生活

その後ワタクシは小説を書くことにしました。親も許してくれたので、ジャンジャンバリバリと書きました。へたくそでしたが数は書けました。そして当時は投稿サイトもないどころかインターネットそのものが大学に少し端末あるぐらいの時代。接続費もめちゃくちゃ高かった。パソコン通信はあったけどめちゃ非力で使いにくいものでした。

そこで出版社の懸賞小説にむけて原稿を印刷して宅急便で送る投稿生活を始めました。

ワタクシは字が汚いので、PCで自分の書いたものがフォントになるだけですでにうれしかったので、書くのは何も苦痛も面倒も感じませんでした。それでジャンジャン送りましたが、技術も何もないのでジャンジャン落ちました。ほんとへたくそだったんだから仕方がないのですが、それでもほかにできることもないので夢中でやってました。書けることに喜びもありました。それだけ書いたものがフォントになるのは私にはとても楽しかった。


不思議

そしてとある日、新潮社に送ったはずの原稿が戻ってきました。でもあれ? なんでこの原稿、講談社からもどってきたんだ? 不思議に思いました。新潮社だよね、送った相手。はて。

その理由はあとで判明しました。新潮社に送るために書いた原稿、インクジェットだと水濡れに弱い!ということでコピーしたのを送ったのですが、父に頼んだコピーは父が2セットつくり、1セットは新潮社に送り、のこりを父は職場の当直室に置いたのです。暇な人、読んでいいよ、って。

それで読んだのが父の仕事場で広報官やってた人で、その人がおもしろい!と思って、その人の広報時代の知り合いの編集者に送ったのです。

そしてその編集者が、唐木厚氏。当時講談社文芸第三出版部の編集者。京極夏彦先生を発掘して脚光を浴びつつ当時の流行作家や重鎮作家とやりとりする最先端のスター編集者でした。当時田中芳樹先生も担当してたはず。

その唐木氏から「デビューは無理だねこれ。あきらめたほうがいいよ」という手紙付きで原稿が戻ってきたのです。

なんというミラクル。なんという強運!


唐木氏との出会い

ワタクシはそれを糸口に唐木さん宛にばんばん原稿を書いて送ります。

そしてプリンセスプラスティックの一つのエピソードを送りました。A4で500ページ。1つで18万字ぐらいありました。もうクリップでとじれずリングファイルで綴じて送りました。

それでも唐木さんはそれを半分読んでくれました。今思えば私はめちゃメーワクな男でした。で、読んだ唐木さんは、ちょっと一緒に会って話をしようよ、という返事をくれました。

そこで新宿で会うことにしました。私が待ち合わせに使えた知ってる喫茶店は「コバドール」だけ。今は存在しませんが、小田急新宿駅の中にあったドトールコーヒーそのまんまのコーヒースタンド。よりによって小田急線改札内ですよ……ほんとバカです。それぐらい当時ワタクシはもの知らずだった。

そこにすこしして、唐木氏は大汗かいて入場券片手にやってきてくれました。「改札内とは思わなかった」うっ、ほんとすみません……! そしてそのまま当時の新宿東口「談話室滝沢」に場所を移して、お話ししました。この滝沢、当時は出版関係の人間が打ち合わせによく使う喫茶店でした。でも客がいるところで給仕さんが掃除機かけてたり、小さな虫が店内を飛んでて飲み物に入ったこともありました。すいません、とお願いして交換してもらうと、唐木さん「お代わりできましたね」とおっしゃって。さすがにえええっ、と思いましたが、今はそれもいい思い出。今その店は跡形もありませんから。

唐木さん、当時生まれたばかりのPDA、ってこの言葉死語だな……今でいうiPadみたいなものの先祖みたいな当時最新の機械「ザウルス」をもってました。それをメモやスケジュール管理に使おうとしてましたが当時すごい癖字だったのであのころの非力な機械で手書き認識できるのかな、なんて見てて内心思ってました。でもそれだけとても好奇心旺盛な人です。さすが。

その時はそれだけだったのですが、私はさらにエスカレートして原稿を送り続け、そして唐木さんがついに「本、出しちゃおうか」というに至るのです。

本当に私は運が強かった。今ではそれをすっかり台無しにして今に至るのが本当に多くの人々にすまない話です。


処女作の頃 1997年

本が出ることになって、めちゃ嬉しかったのは当たり前ですけど、ほんと嬉しかった。措置入院で一生を病棟で終えるのかと思ったこともあったし、退院しても何の見込みもなかった。そこから脱出できる。それが嬉しくないわけがない。えばんげりおんのユニゾンのとこの曲を何度も聞いて喜びました。

そしてゲラの作業をします。人生初のゲラ作業。唐木さんの指摘がすごく良くて、私もどんどん加筆して深掘りができていけました。でもそれが増えすぎて脚注に移動することにもなりました。私、ほんと過積載でした。

少しの間の投稿生活でスキル上げのために東中野の文芸教室に通い始めました。それがなぜか当時の社会党系の団体「新日本文学」の教室で。そこで出会ったのが山田正弘先生。中学生日記やウルトラQの脚本、カネゴンの生みの親でも知られる先生です。でもワタクシ、最初はそれを存じ上げなかった……本当にすまない限り。


ちなみに先生は右でも左でもない。それでいて硬骨のポリシーの人でした。昔からの人なので、中途半端なことを言うとほんと容赦なかったです。私の他の半端なこと言ってる生徒に「北鮮の味方する気か!」どかーんと怒鳴ったこともありました。でも他は優しく、また独特の視点がさすがだなと思わされました。

うかつなプリントTシャツ着てると「それフランス語で**って意味だぞ、恥ずかしいのわかってんのか」なんて笑われました。先生たしか中卒って言ってなかったっけ……。でも先生は早く詩人でデビューして、その後の仕事で零戦の設計者堀越さんにもインタビューしたことあるとか。なぞであった……。

それと同時に、こう言う人たちと普通に付き合う人生になるのかな、と心細くもなりました。私にはそのためのスキルもセンスもはなはだ不十分だった。

でもその頃、あの入院直後に会ってくれた幼馴染の男が言ってくれました。「相撲取りは横綱も褌担ぎも同じ土俵なんだぜ」と。確かにそうです。作品を世に問うと言うことはそう言うこと。頑張るしかなかった。

山田正弘先生に初めて話をした後、先生に誘われて映画学校にも少しいきました。面白かった。世の中にこんなに話書くのに苦労してるのに書きたいと思ってる人がいるんだ! と気づきました。書きたいけど書けない人がどっさり。

シリーズの話のタイトルだけ考えて満足したのか力尽きたのか、その先進まない人もいました。私はそこで止めると言う発想そのものがなかったので、新鮮でした。またそのとき、ライバルが欲しいんだ、と言ってきた人の一人目がいました。今どうしてるか知らないけど……。

先生の講座のテキストはA4の紙1枚のみ。それには一言、「モチーフ!」とだけ書かれていました。その意味を私はそのあと何度もかみしめます。モチーフの大事さを学びました。それがぐらつくと必ず迷走します。逆に良いモチーフでそれを作業中もしっかり守れれば、ストーリーはどんどん引き締まって機能して楽しい話になります。それを思い知りました。

ゲラ作業しながら月一ぐらいで東中野に通う日々でした。合評もあったので作品を提出しました。その頃描くのが本当に楽しかったので楽しんで書きました。「梅雨のしのぎや」もその頃の習作。書いても読んでも楽しかった。

ゲラ作業も進んでいく中、表紙のラフが届きました。正直、当時うっ、と思ってしまったけど、仕方なかったのです。その絵の人は後で調べると「サクラ大戦」の光武を描いた人なんです。なんでまたその人にシファ描かせちゃったのか…どうもならないのですが、ワタクシはその頃まだよく分かってなかったので失礼もしてしまい唐木さんにメーワクかけもしました。同じ「サクラ大戦」の絵の人ならキャラの人にしてくれれば、と思うけどそりゃ無理でした。と言うわけでやたら重量感のあるシファとミスフィの表紙になりました。ぐぬぬ。まあ仕方ないけど。

処女作の作業

あとワタクシがゲラ作業してるときに唐木さんは「途中のものを田中芳樹先生に見てもらいましたよ」なんて言ってくれました。田中芳樹先生なんて幼い頃からのめちゃ憧れですよ。「『これアイディアを一つの話にしなければ10本ぐらいの話になるね』って言ってましたよ!」なんて話してくれて。すごくうれしかった……一層頑張れました。編集さんとしての策だったのかな。

そしてついに刊行直前。講談社に行って最後のゲラ調整。折数を暗算で計算してる唐木さん見てプロっぽくてめちゃかっこよかった。発売日も決まりました。

そして発売日。また講談社に行きます。社屋の前のショーケースに私の本があります。『夢のよう』とはこういうことを言うのだなと思いました。あと処女作「プリンセスプラスティック 母なる無へ」は腰巻と呼ばれる同時刊行書籍の紹介リボンがまためちゃめちゃびっくりでした。内田康夫先生に菊地秀行先生に東野圭吾先生もいる。こんな大物たちと並べてもらえるのか……。読者として存じ上げてるビッグネームの本と並ぶことはもちろんものすごくうれしかった。

帯文句を書いてくれたのが大森望さん。かなり飛ばした帯文句で周りに叩かれてしまったようです。それでいったん引っ込めるみたいなことしたので当時浅慮だった私はかちーんときてしまいましたが、それはそれでそのあと一緒に秋葉原パセラでカラオケに同席したりすることもありました。というわけで今は特に関係はありませんが、悪い感情も持っていません。ただ当時はお世話になったし、メーワクもかけてしまったな、と思っています。

でも本屋に行くと……ない。並んでない。そりゃそうだ、文芸書の流通は当時そこまで厳密に日付に合わせてない。数日後、あちこちの書店に平積みで並んでいるのを確認しました。そしてうちの近くの町の書店では本を手に取ってる人も目撃。でもその人、取ったあと、ちらっと見て本棚に戻しちゃった……。軽くへこみましたがそういうものなんですよね。

家の近所の本屋さんではデビュー記念イベントもしてくれました。でもその本屋さん、その数年後本屋さんやめてハモニカ専門店になりました。そのころは個人経営の書店が生き残ってた最後の時代でした。今はチェーンの書店も次々閉鎖されて書店のない自治体も出始めてますもんね。なんとも悲しいことです。

私もそりゃうれしくて結構いろんなミスもしました。正直、今の自分からみるとスゴク勘違いした嫌な奴だったと思います。でも多くの人々に支えられて何とかやってました。ありがたかったなあ。


本は出たけれど

出たけれど残念ながら売れ行きはいまいちだったのかもしれません。話題性はあったようですが一部に留まったような。

でも2冊目の話はできました。「リサイクルビン」推理を目指したけど推理というのはいまいちだったかもしれない。でも推理にこだわらない人には面白がってもらえた。いいのか? よかあないよね。最近これに出てたキャラのその後書いたりしてるけど、これで講談社からほかの会社探すことにしました。

そこで推理作家協会に入って、そこで知った編集さんと架空戦記をいくつか出します。当時私も不勉強でしたし、調べものも簡単にはできなかった。国会図書館のオンラインサービスなんかまだなかったし。それどころかインターネットも当時は時間課金制だった。接続のたびに3分で課金額が増える。今はケータイでも接続をほぼ気にせずにウェブ使えたり動画サイト見れるけど、当時はウェブ使うだけでハードルが高かった。ウェブブラウザのインストールですら時間がかかったり設定修正必要だったり。それでやり取りできるデータも小さいものしかだめで、動画どころか静止画でも時々難しかった。

そんな時代にVRだのARだのXRだのスマホみたいな情報端末だのをプリンセスプラスティックで書いてたんです。当時はそんなの無理、って叩かれてました。でも今その通りに、もっと簡単になって実現してる。どういうことだ。当時周りはできたばかりのAmazonも赤字多いからいずれすぐつぶれるなんていってた奴ばっかりだった。電子書籍もものになるわけないとか言って、そういうものが未来主流になるという私は批判されたり笑われたりでした。でも全部そうなりましたよね。おいなんか言ってみろやふざけんな。

でも当時の私はそういうところでひどく孤独でした。それで自暴自棄にもなった。それで人生最大の失敗をすることになるのですが、それはもうちょっとあとの話。

そのころ宝塚歌劇団に宙組ができてて、それに実家関係がみんなハマって今でいう推し活をしていました。そこで山田正弘先生にその話をすると、じゃあいい席取ってあげるよ、と言ってくれました。それでもチケット入手は難しいものだったようですが、おかげで当時の1000days劇場で親戚一同と宙組公演「エリザベート」を最前列近くで観られました。それがおわって劇場を出ようとすると、「おお、君が米田君か!」と声。それはエリザベートの劇の作者、小池修一郎先生でした(!)。すごくうれしかった。親戚も驚いてくれました。素晴らしい体験でした。感謝。

嫁との出会い

そんななか、山田正弘先生の教室に通い、夏は千葉内房・鋸南の海に遊びにいったりしてました。海遊びする先生の振る舞いを見て学ぶことが今思えば多かったけど、当時の私はそれをあまりよく理解してなかったと思う。すまない限り。でもほんと楽しい生活でした。まだ私はこのころ20代でした。

その中で私は3冊目をどうするか苦闘します。そこで集英社に原稿を持ち込みます。応対してくれた編集さんが「うーむ」と。ダメかなと思ったら、「これどっか別のとこに持って行きなよ。早川とか。それでダメだったらウチで出そう」と言ってくれたのです。感謝しかない…。

そこで早川に持っていったんです。その原稿はエスコートエンジェル。なんとあの入院中に書いた最初のプリンセスプラスティックです。でもこれが認められて、ようやく3冊目に目処がつきました。

そんな時、山田正弘先生の教室の同期が女の子の話をするのです。私はその出会いがない、というと、ネットやってるから有利なのになんでやらないのかわからん、と言われてしまいます。なるほどなあと思ってしまいました。

私、そのころ小説などの情報収集でネットやってたんです。当時は従量課金って言ってネットに繋いだ分電話代がかかるのでできるだけ3分以内で接続を切るという使い方でした。潜航する電池式潜水艦かよ…でもそんな感じでした。

そんな中、メールチェックすると、妙なメールが届きます。HP作ったので見てください! という。でもURLがない……ナンダコレは。普通だったら不審メールあるいは迷惑メール、詐欺メールの疑いでスルー一択ですが、このときなんと私は「URLないよ」とそれに返事を出したのです。

そしたら返事にメールでURLとともにプリンセスプラスティックのキャラ、悪役のクドルチュデスが可愛く描かれたイラストが届きました。マジかー。

それでメールでの交流が始まった相手が私の後の結婚相手でした。すごく非常識ですけど奇跡的でドラマティックでした。その時は知らなかったけど彼女は九州小倉に住んでいました。

それを知ったとき、挫けそうだったのですが「そんななら会いに行きなよ」と叔母に言われて、そうだよなあ、いけるよなあ、と思い、航空券を手配して会いに行くことにしました。航空券をたのんだ旅行店の保留音がまたラブソングでした。なるほど、世の人はこうやって恋愛をして結婚し子供を産んで世代を継いで行くのだな、とようやく理解しました。私は一度は入院で絶望していたので、こうして人並みの恋愛が出来ることがすごく嬉しかった。

嫁との初デート

それが2001年の秋でした。そのきっぷを手配し九州に行くことにした数日後、9.11同時多発テロがアメリカで発生しました。そこまで、当時の自衛隊のHPのトップニュースが『自衛隊カレーのレシピを更新しました!』みたいな平和ぶりだったのですが、あのテロはそれを引き裂きました。

その頃父は市ヶ谷の統幕会議事務局に勤務してました。あの日、私は最初の突入のあとの様子をニュースで知りました。なんだろうこれ、と実家の一階に降りたとき、父が市ヶ谷から帰ってきました。「なんだろうね」と私が父に行ったとき、2機目が突入しました。父はその瞬間、その機体が中型旅客機であることに気付きました。その直後、祖母から父に電話がかかってきました。大丈夫か、と。その時米国防総省も攻撃されていたので心配したのだと思います。何ともないのですが、気持ちには影が落ちました。

彼女も心配しました。また旅客機が狙われるのではないか、と。私の乗る機体がそうならないとは限らない、と。でも私はなんとしても生き残るから心配しないで、と答えました。

一度自殺して失敗して一生入院を覚悟させられてから、絶対死なないよ、と言えるとこまで私は快復していました。恋愛の力、遺伝子の力ってすごいんだな、と自分でその後気づいて驚きました。

そして私は羽田から飛行機で福岡に向かいました。福岡空港から博多天神へ。早めに宿について夜の人生初のデートに備えていると、早川編集さんから本の折数が合わないので広告を入れたいけど、もしなにか書くことがあればそっちにしたい、と連絡。

書くことはいくらでもあります。過積載でしたから。と言うわけでデートの待ち合わせまでの時間調整で原稿に加筆。すごくポジティブでした。もしかすると今よりポジティブかもしれない。多分一生で一番幸せな時期でした。


そして私は嫁と本当の恋仲になりました。ファーストキスもこのときです。

その九州博多デートの後、クリスマスは鎌倉で迎えました。江ノ電で当時走っていた「モモ電」を見るデート。幸せそのものでした。当時はまだ鎌倉高校前駅も静かで楽しめました。あそこの道を行く車にはサンタの帽子をかぶった犬が乗ってたり。

モモ電。江ノ電特別塗装車。


九州小倉へ転居 2002年

そうしているうちに私は実家との折り合いが決定的に悪くなりました。もともとワタクシは実母とは周期的に折り合いが悪くなるのを繰り返しています。愛情は本当にいっぱい貰えましたが、それで窒息しかかることがよくありました。私もそうなのかも知れないけど母は共感能力が足りないところがあります。毒親とまでは言ワないし言えないけれど、愛情を与えてもそれがどう受け止められるかには関心を失うことがあったと思います。そのたびに私は愛情を貰ってるのに窒息する自分を詰りました。私はなんて親不孝なんだ、と。

特に実家同居だったのでそれはかなりシンドかった。

それでそれから逃げるように元嫁の実家、九州小倉に転がり込みます。はじめて乗った東海道山陽新幹線「のぞみ」は小倉までの片道切符でした。

そこから嫁さんとの嫁実家での同棲生活が始まります。私はしばらく無収入でしたが、義母が工夫してくれてなんとか生活できました。そうしているウチに早川から「エスコートエンジェル」が出せたりしてすこし還元できました。早川のシリーズは5冊続いてくれて、本当に助かりました。そこからすこし嫁の実家にも還元出来ました。感謝の気持ちでした。

そしてそれは同棲生活から結婚生活になりました。

結婚指輪を買い、小倉城の神社にお参りし、小倉の港の岸壁で自分たちの未来を話しました。穏やかな風のなか、未来を本当に信じました。彼女の実家に帰るとすごく新鮮な刺身が待っていました。あんなおいしい刺身はその後ありません。それは本場のすばらしいものでした。


そのときのお刺身。んまかった…。

幸せな日でした。今からあの頃に戻ることは出来ないけれど、あんな幸せはもう二度と無いでしょう。嫁には感謝しかないです。

結婚式はしませんでしたが結婚宴会は東京と小倉の友人との宴会、そして嫁の実家関係との宴会と3回して、結婚写真も撮影しました。義祖父が亡くなる前に孫、嫁の花嫁姿を見せることもできました。


結婚写真撮るときに遊んでるワタクシ。
二人で行った門司港駅

神奈川への転居 2004年

しばらく小倉での作家生活をしましたが、東京に編集者さんとの打ち合わせに出る必要が多く、だんだん隔靴掻痒を感じて、神奈川に二人で引っ越すことにしました。


転居先を探すために小倉から神奈川の不動産屋さんに一時移動。そのとき九州筋のブルートレインに乗りました。当時まだロビーカーを連結していて、夜に寝入りのために缶ビールをそこで飲みました。今その列車はすべて廃止されているので、貴重な思い出になりました。

神奈川の不動産屋さんとアパートを見せてもらいました。候補は私の実家近くにしました。片方は古くて部屋でGの死骸が落ちていたりと悲惨で、もう一つは当時あった音大近くの狭いけれどかわいい軽量鉄骨のアパートでした。結局ほかに回るのも大変なので、二人でそこにしました。


九州ブルートレインの車内。

決めてまた九州ブルートレインに横浜から乗って小倉に帰りました。いよいよこれから2人だけの生活になります。嫁の飼っていたネコもつれて引っ越すことになりました。このネコ、『みんた』という名前で、当時嫁の実家の前がバス通りでそこではねられたネコで顎がないのです。でも元気な子でした。その子を連れていきます。

引っ越し当日。荷物を発送して印税で買った軽自動車のマイカーで出発。大阪まではフェリーで行くのですが、私、バカなことにフェリー乗り場で足を骨折しました(!)。バカだなあ…。かといって引っ越しを中止できないのでフェリーで骨の折れたまま過ごし、大阪の病院でギプスを作ってもらいそのまま大阪から神奈川までマイカー移動。しかし私は運転できないのでずっと嫁が運転しました。すまない…。そして焼津あたりで二人ともふらふらになりましたがなんとか厚木着。

ところが厚木で泊まれる宿がない……まして猫連れでは泊まれない……。結局ラブホに泊まり、ネコは駐車場の車におきました。寒い冬でネコも大変だったと思う。

でも無事朝を迎え、新居に移動して荷物を開梱して生活を始めました。

慣れない引っ越しの常、案の定エアコンのリモコンが見つからなくなって寒さに震えましたが何とか出てきました。


新居で骨折してる当時のワタクシ。

そして翌日、厚木の病院でギプスを作り直しました。そんなことがあっても二人の間に笑いは絶えませんでした。


幸せな季節

嫁との神奈川での生活は幸せそのものでした。二人で誕生日やクリスマス、他の世の中の人並みにする家庭行事を堪能しました。またコミティアに出たりと言った活動もし、新婚旅行も箱根でしました。嫁は私の趣味にも随分付き合ってくれました。ありがとう。感謝しかない。そんななか私は30代になりました。


二人の食卓。

電子書籍元年より前ですが、自分で書いた小説データの手売りもこのころ始めました。サーバ立ち上げてカートシステムくんで。手数料が高くてなかなか大変でしたが、それでも買ってくれる人がいて大いに励みになりました。そのあとEPUB規格が出来たりiOSでEPUB対応が始まったりして、それにも対応して手売りしました。それはのちに「パブー」や「kdp」「BCCKS」に引き継ぎました。いまでもそれらのサイトで本を売ってます。

そんななか飼い猫の「みんた」が亡くなりました。でも幸せそうな穏やかな亡くなり方でした。一度車にはねられてアゴを失ったけど、それでもちゃんと生きてくれました。そのあと我が家はしばらくネコ不在でしたが、動物愛護センターで処分寸前だった三毛猫を貰いました。それが「珠子」。飼っているウチに顔が穏やかになりました。続いてもう一匹もセンターから貰いました。トラ猫の雄の「千秋」。あおむけで寝たがるデブなネコになりましたが幸せそうに暮らしてました。2人と2匹の生活は本当にシアワセそのものでした。


また、アパートから中古マンションの一室を買って転居しました。今もそこに住んでいます。鉄筋鉄骨の頑丈なマンションで、姉歯事件の時はどきっとしましたが、耐震診断では最高級の耐震性を持ち、さらにあとで災害時用自家発電機やオートロックを備えた良物件になりました。ありがたい……それであの管理費修繕費はほんとありがたい。

あとNHKスペシャル「日本のこれから」シリーズの「テレビのこれから」に出ました。NHK総合での全国放送でした。肩書は作家という事になっていましたが、テレビとはそういうものなのでしょう。視聴者枠の中にすごい有名人がこっそり入っていました。なるほどなーと。残念ながらその放送は今見る手段はないのですが、すてきで楽しかった。いい思い出になりました。


人生最大のしくじり

私のあとから早川から冲方丁さんがデビューしました。私は要らなくなるんだなという気がしました。その後円城塔さんが出て、私は絶望しました。ああ、私は心底要らなくなったんだなと。私の作品みたいなコスパの悪い作品は求められてないんだな、と思いました。今でも円城塔さんの作品は本当に苦手です。個人的に悪い思いをしてるわけではないのですが、作品としてどうにも読んでて耐えられない。そういう作品は残念だけどあるのです。

本もなかなか出せない。まあ仕方ないんですけどね。そしてバイトを少し探しました。

私はそのころだれからもヘタクソヘタクソと扱われて私はどんどん自己肯定もできなくなっていました。それでも読者から見れば著者はいくら殴っても構わないゲームのNPCやサンドバッグなのでした。普通の作家は耐えられるのかも知れません。でも私は耐えられなかった。自己肯定もクソも、私は自分を作品を含めて良いと思ったこともない。当時は書き上げて楽しいのも3日すれば、一体どうすればもうすこし良かったのか、と自己批判の嵐になります。未熟さに私はいつも苛まれ、いつも自信もへったくれも無かった。

でも読者からは全くそうは見えてなかった。

その結果、私は書くことに全く自信を失いました。そしてそれを改善する手段もなかった。ヒドい孤独と深刻なそのギャップの末、強烈に自暴自棄になりました。信じていた人からも下手といわれてもうなにもなくなり、その結果あんな馬鹿なことをしました。もうどうでも良くなってしまった。作家であることも含めて。

そもそも私なんか最初から最後まで作家でなかったのでしょう。幸運でそう見えるようになっただけのこと。だから運で得たものは返してしまおう。私はそれで最悪の判断をしましたが、あの時そうしなくてもほかの何かで同じように失敗するかそのまま死ぬかどっちかだったと思います。でも今思えばあの時あのまま死んでれば良かったですね。結果はどっちみち同じことだったんですから。

誰も理解してくれてない。今思えばいつだって理解者なんているわけないんです。人間なんて所詮そんなもんです。でも私はそれをどこかにいると思ってしまった。そして当時いた嫁さんにも過剰に気を遣った結果、理解者ではなくしてしまった。嫁さんに本当にすまない限り。勿論その時メーワクかけた方にも本当に申し訳ない。

そのころ、山田正弘先生も亡くなりました。がんと伺って、実家と相談し秋田産のがんに効くとされるキノコを送りました。先生はとても喜んでくれて、こまばエミナースで会いました。がんであることを私に電話した時はほんとうに消え入りそうな声でしたが、転院したのか元気な声でした。キノコありがとう、君を何とかしてあげたいんだけど、とおっしゃってくれてうれしかった。

1週間後、先生は亡くなりました。先生のこと、もっと聴いておけばよかったなと思ったけど、なにもかも遅すぎました。

離婚 2011年

そこからいろいろと何もかもダメになっていきます。嫁さんはそれでもがんばって支えてくれましたが、嫁さん、それで身体を壊しはじめていました。それに私は戸惑い、いろいろ間違ったことを重ねました。恥ずべきことに今思えばDVめいたこともしていました。本当にダメでした。

そのうえ私の実家も嫁さんと折り合いも悪くなり、結婚生活は破綻しはじめます。

そんなとき東日本大震災が起きました。私の家にはなにも実際の被害はなくとも、それは私たちに大きな影を落としました。

震災の後、街並みもどこかおかしかった。街を歩く人々はなにか幽鬼のように不自然でした。そんななか、海老名に鉄道模型店ができました。震災直後の開店になってしまって人も少なく暗闇の中でそこだけあかりがついてる寂しい船出でした。おもわず私はそこで機関車の模型を買いました。今でもそれは家にあって、走らせることがあります。





そこに行く途中の海老名の車両基地の電留線には普段海老名に入庫しないロマンスカーVSE車がいて、ドアを開けて何か点検しているようでした。ふだんは喜多見基地で整備をしているので、もしかすると喜多見基地でなにかあったんじゃないか、と思いました。


震災の後、東北新幹線が運転を再開したので、東北旅行をしました。本当に素晴らしい旅行でした。すごく楽しかった。
多くの列車に「がんばろう日本、がんばろう東北」のステッカーが貼られていました。
東北の観光地はほんと誰もいなかった。だから応援のために旅行に行ったのです。


まだその時は結婚生活は破綻寸前でも回避できると思っていました。まだ未来を信じていました。

でも旅行から帰ってきて数日後、生活が実は完全に破綻していることが発覚しました。

愕然としました。何も知らなかった私を私は強くなじりました。
かすかに予感はしていましたが、それを漫然と放置し解決しなかった点で私も同罪です。

私はそこで決意しました。嫁さんをこれ以上犠牲に出来ない、と。稼ぎもその他もさまざま悪い私から嫁さんを避難させるべきだと。特にそのころ、嫁さんが苦しさから嘘をついて実家に帰ったのを知って、そう確信しました。

そんな嘘つかないと一緒にいられないような私に嫁さんと一緒に居る資格はない。情けないけど私は本当に夫失格でした。

離婚の手続きは苦痛でした。でも嫁を私から離して自由にするにはそれしかなかった。私は裏切ったことになりますが、それだけ私の罪は重い。それに苛まされながら、寒いなか手続きのために弁護士に通い、最後に嫁に荷物を神奈川に取りに来てもらって離婚しました。すごくつらかった……。



 当時小田急ロマンスカーHiSEとRSE、そして5000形通勤車が一気になくなるので、駅にはたくさん惜別のポスターが貼られていました。それもまた気持ちを悲しくさせていました。

 これまでの素敵だった何もかも失うのだ、という感覚がさらに強まりました。つらかった。

でもそのあとはさらにつらい日々でした。何もかもがダメでした。でもすべては私の判断ミスだから仕方がないのです。これを選んだのはほかならぬ私ですから。自業自得です。嫁にはすまない限りです。

その時私は40歳を迎えたばかりでした。つらかった……。

離婚後

離婚の手続きがすべて終わったそのあと、日々、当時かろうじてまだつながっていた役所関係の臨時職員の仕事は続けていましたが、鉄道模型を作る他の時間はただただ寝込んでいました。それ以上の記憶はそのあとしばらく何もありません。


もし模型がなかったら、私の頭は暴走して何かの事故を起こしていたでしょう。でも模型づくりに逃げることだけで命がつながっていました。何度も夜中に裸足でマンションの外階段を上ることもありました。近所の公園に電気コード持って夜中に行ったこともあります。でも毎回そのまま帰ってきました。寸前で私は踏みとどまりました。


でもそれを私は良かったと今でも思えない。私の無価値さは今でも感じています。


自己出版との出会い

そんなとき、JAM国際鉄道模型コンベンションに参加するので手伝ってくれないか、とN氏(のちの追兎電鉄さん)に誘われました。昔模型を見に行ったイベントですが、自分が出展する側になるとは全く思えずすぐに帰宅してしまっていたイベントです。


せっかくだからその出展に挑戦してみようと思いました。そしてN氏(追兎電鉄)さんの名前でJAMコンベンションに参加出展します。そのために某通信系エンジニアのY氏と3人でおうとさんの家で模型工作合宿をしました。


出展は大好評、追兎さんの出展した自動運転鉄道模型ジオラマはのちに『Nゲージマガジン』という鉄道模型の世界では権威ある雑誌に掲載されました。

そしてその思い出とともに、追兎さんの発案で鉄道研究部の話をつくろう、と思い、執筆したのが『鉄研でいず!』シリーズです。架空の女子だけの高校鉄道研究部のメンバーの活躍を描いたそのシリーズは最初『小説家になろう』で連載し、その後カクヨムでも展開、セルフパブリッシングでの販売もしました。

鉄研総裁・鉄研でいず!

そのころセルフパブリッシング、自己出版にも注力していました。ずっと前から期待していた分野で、そのなかで草分け的な雑誌となる『群雛』にも参加しました。めちゃ楽しかった。そしてその縁でNovelJamという創作小説競技会にも出場しました。そこで第1回米光一成賞をいただきました。ありがたい。

それらの縁で派生イベントの阿賀北ノベルジャムにも参加し、そのロケで自主的に新潟新発田にも行きました。高速バスと新幹線で行きました。最初、高速バスで関越トンネル通過時に気絶したのか寝たのかよくわからなくなる強行軍でした。それで2度目は新幹線にしました。そのほうがずっと楽でした。気づけばそういう歳になってしまいました。

途中、作家生活20周年を自己出版の仲間が祝ってくれて、トリビュート誌を作ってくれました。幸せでした。元嫁からそれを渡されて、想定外でとてもうれしかった。読んだら私がそれと知らずに書いた作品が載っててびっくりしました。でもいい宝物になりました。

また1年間に電子書籍を100点刊行するという挑戦もしました。挑戦は成功しましたが、食べていくにはあまりにも収入になりませんでした。今は違うのでしょうけど、そのころは電子書籍、それも自己出版は貧困ビジネスそのもの、というよりビジネスですらありませんでした。

北急電鉄の2024年

JAM国際鉄道模型コンベンション参加はそののち、模型の大先輩のN先生のもとで「自由環状線」名義での出展となり、それが独立して現在に至ります。
その途中ですばらしい模型仲間も得ることが出来ました。つきあいのなかで少し行き違いがあってもそれで完全に関係を終わらせないですみました。本当に楽しい仲間に恵まれました。

JAMコン、はじめは一人で一般入場者として行って、ああ、ここに私の望む鉄道模型はないんだな、と強烈に寂しくなって帰りにKATOホビーセンターという鉄道模型会社の本社の直売店で悄然と鉄道模型ジオラマを見ていたりしました。

それがN氏と一緒に出店した後のとある回で、車両模型をただ持って行っただけなのに出展しているとある模型チームの人が「せっかく持ってきたんだからうちの出展ジオラマ走らせなよ」と言ってくれました。JAMコンでトップレベルの素晴らしいチームにそう誘われたのは本当にうれしかった。いまでもその感謝は忘れられません。

そして気がつけば自分がコンベンションへの出展チームを主宰してました。そこでも多くの若い人に手伝って貰えて感謝しかない。なかには幼い時から私を見てて憧れてチームに入った、という子もいます。とても立派な子になっていて驚きました。

人間の子供ってペットとちがって成長して次の世代になるので、やれなかったことを託すことも出来るんだなあと思います。そう考えると模型や小説よりも子供を持った方が確実で有益で大きな強い承認が得られるのだ、だから命のリレーが続いてきたんだと改めて気づきます。

でも私には子供は無理です。私には親になる資格はない。私のあとになにも残せない。模型も何も、最後は全て処分されて終わりです。でも仕方ない。辛いことから逃げ続けた結果で、自己責任なのです。


そして気づけば『群雛』創刊から10周年となっていました。ワタクシ、その記念号の編集役を買って出ました。非力でメーワクをかけましたが集まった有志の協力もあって無事刊行出来ました。『群雛』は休刊となっていますが、たくさんの思い出がある雑誌です。その10周年誌を編集できて楽しかった。

2024年にはJAMコンベンション出展中にTBS「Nスタ」で模型製作者としてインタビューもされ、それが全国放映されました。



今、模型チームを主宰していて、あのとき「走らせなよ」と言ってくれたトップチームへの恩返しで、今若くて居場所のない若い模型モデラーに「うちで走らせなよ」といえるようになりたいな、と思うことがあります。それは私もそういう歳になったという事なのかもしれません。

しかしこの年、睡眠時無呼吸症候群にかかり、そこで起こしたミスなどから仕事を外されてバイトでやっていたニュースサイト更新をやめることになりました。また臨時職員の仕事も見合わなくなり生活が維持できず辞職。

結果現在、完全に無職になりました。
現在求職中です。そのためITパスポートやMOS資格(ExcelExpert)とか受けて合格したんですが、さっぱりなーんも役に立たない感じです。仕方ないよね……。

おわりに

この人生はまだ終わっていませんが、ここでこうして書くことで一区切りさせました。思えば私の人生、努力なんてものはなく、ただ嫌でつらいことから逃げてきただけの人生でした。だから今、何もかも無価値なのでしょう。氷河期世代ではありますが、私の場合はそれとは別に自己責任の面が強く多いと思います。そして多くの幸運を台無しにしてきた人生です。申し訳ない限り。自業自得だと自覚してます。

だからいつ終わってもいいのです。迷惑かけず確実に終わらせられるのなら迷うことなくそれを選びます。でもその手段がたまたま今ないだけです。

どうなるんでしょうねワタクシ。

でも、みんな、こうなったらダメだぞ、と思います。やっぱり。

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