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イチローの幼なじみは、群馬の小学校PTAの万年副会長
Facebookからの通知
「今日はS愛作さんの誕生日です。誕生日のメッセージを送信しよう!」という通知が、Facebookから届いた。2024年11月13日のことだった。
僕は彼のFacebookのタイムラインに、以下のメッセージを書き込んだ。
「 今でも時々思い出します。今日が誕生日だったのですね。あと10年〜20年経ったら再会出来ます。その日まで。。」
彼が突然死により他界してから、10年以上が経過している。アカウントを削除しない限り、Facebookからは毎年このメッセージが届くのである。
イチローの幼なじみは、愛知から群馬へ
Sさんがメジャーリーガー(当時)のイチロー氏と幼なじみであることは、僕が小学校のPTA会長だった時の副会長であるHから聞いた。
Sさんの職業は牧師だった。愛知県出身だが、牧師が不在となった群馬県大泉町のM教会に、本部から赴任命令が出て、見知らぬ土地に家族を伴って転居してきた。
彼を知った契機は、彼の奥さんであるTさんがPTAの本部役員を務めていたことにある。彼女は音大の声楽科卒という経歴の持ち主であった。PTAの飲み会の2次会は、カラオケ店が定番だった。カラオケ店で彼女が歌うオペラチックな松田聖子は絶品だった。特に好きだったのは「野ばらのエチュード」だ。彼女には、毎回アンコールリクエストをしたものだ。
勧誘したのは日曜礼拝の後
PTA会長を退任する時は、男性の本部役員の後任者を探すという不文律があった。僕が後任として、狙いを定めたのがこのSさんである。
或る1月の日曜日の朝、僕は息子を伴ってM教会へ赴いた。息子はSさんの長女であるMちゃんと同じクラスだった。息子は1年生の時に「バレンタインのチョコをあげるね」と、Mちゃんから予告されたが、お母さんであるTさんが、チョコを買って家まで一緒に届けるのが面倒だからという理由で、この予告は現実のものとならなかった。こういった出来事もあり、息子もMちゃんのことを憎からず想っているようであった。
M教会の日曜礼拝は、通常の倍近い時間を要する。何故なら、日本語とポルトガル語の二か国語で行われるからである。当時の大泉町のブラジル人の人口比率は、町全体の20%を超えており、M教会へ訪れるキリスト教徒の90%以上が、ブラジル人だった。
9時から始まった日曜礼拝が終わったのは、12時ちょっと前だった。教会にはMちゃんとその妹さんもいた。息子はMちゃんの側に近づいたものの、照れくさかったのか、あまり会話をしなかったようだ。
子供たちがお菓子を食べているのを横目に、Sさんに新年度からのPTAの副会長への就任を前提として、本部役員になることをお願いをした。Sさんは快く引き受けてくれた。
奥様のTさんと入れ替わる形で、Sさんが小学校PTAの本部役員になることが、この時決定した。
付き合いは不自然に長引いた
新年度が始まり、僕はPTAの顧問、会長がH、Sさんが副会長という体制となった。本来ならHが1年で会長を退任し顧問となり、Sさんにバトンを渡し、僕は晴れてPTAから卒業という予定だった。
ところが何を血迷ったか、Hは4年の長きに渡り会長の座を降りなかった。それはすなわち、僕がPTAの顧問を4年続けるということでもあった。
そのお陰で、4年も副会長を務めることになったSさんとの縁も続いたのだが・・。
僕がSさんに、最も訊きたかったことは、やはり彼が知る幼少期のイチローのことだった。しかし、彼はその話題に触れて欲しくないようで、小学校低学年の時、一緒によく遊んだ、お互いの家も行き来した、くらいの話しか聞くことができなかった。
もっとも小学生だった鈴木少年は、徐々に野球の練習に時間を費やす時間が増え、相対的に友達と遊ぶ時間が減ってしまったであろうことは、想像に難くない。
アストルティアでも友達
4年の長きに渡り副会長を務めたSさんは、5年目にしてようやくPTA会長に就任し、その責務を全うした。
PTA卒業後もSさんとは、縁がまだ残っていた。お互いがオンラインゲーム、ドラゴンクエスト10のプレーヤーで、ゲーム内でもフレンドだった。彼のアストルティアネーム(注:アストルティアとはドラクエ10の舞台)は、「イサク」だった。実名である愛作から、「ア」を取っただけかと思いきや、他にも深い意味があったらしい。今となっては、確かめようもないのだが。
今でもイサクは、僕のドラクエ10のフレンドリストから消えずに存在し続けている。
訃報
その数年後だった。Sさんの突然の訃報が、Hからもたらされたのは。急性心不全とのことだった。電話でHは「愛作のバカヤローが・・」と、言葉を詰まらせ、震える声で呟いていた。Hは粗暴そうに見えるが、実は情に厚い男である。彼の哀しみと優しさが、電話越しに伝わってきた。
町のセレモニーホールで葬儀が執り行われた。キリスト教式の葬儀だった。既に中学生になっていた息子を伴って参式した。進行に沿って賛美歌を5回ほど歌った。2時間を超える長いセレモニーだった。
キリスト教の教えによると、死とはイエス様に召される事なので、必ずしも悲しい出来事ではないらしい。イエス様に召される日が来るのは、むしろ喜ばしいことだそうだ。
ミッション系の幼稚園と大学を卒園、卒業しているが、僕は仏教徒である。イエス様の教えなど理解できず、友人の死を悼み、悲しみ、そして泣いた。同行した息子は、父が流す涙を見て、神妙な顔をして僕を見つめ、そして下を向いた。
終活
10月28日は群馬県民の日であり、僕の誕生日でもある。僕はまた一歳年を取り、確実に死に一歩近づいた。このnoteのプロフィール記事に、noteを書くことが終活の一環であることを明かした。
終活はまだまだ始まったばかりである。死を迎える前に、やりたいことをリスト化した。そのうちのひとつを、今度の日曜日に実行しようと思っている。
Sさん亡き後、M教会は奥様であるTさんが後を継いで運営していた。M教会の日曜礼拝に行けば、きっとTさんが歌う美しい賛美歌を聴くことが出来るであろう。願わくば松田聖子を聴いてみたいが、それはかなり無理な注文である。
(了)