ボツになったPTA新聞原稿〜この記事を渡辺航平プロ(こうちゃん)に捧げる
今年の10大ニュース
あと2か月で2024年も幕を閉じる。今年は例年と違って、様々なことがあった1年であった。僕のような一般人の個人的な今年の10大ニュースを書いたところで、読んでいる方に何の興味も共感も、得られないことは明白である。そこで、皆さんにほんの少しは興味を持って頂ける可能性のある、自分の嬉しかったこと2024 第8位を冒頭に置いて、記事を書き始めることにする。
2024年私的10大ニュース第8位
【こうちゃん (渡辺航平さん) 、日本プロ麻雀連盟の麻雀プロになる】
こうちゃん(元QuizKnock)
こうちゃんの存在を初めて知ったのは、2023年の夏のことだった。この年、こうちゃんは竹書房主催の麻雀最強戦2023「超頭脳バトル(著名人)」に出場した。夏休みの長期休暇で帰省していた息子と一緒この最強戦を観戦していた。
『こうちゃんって誰?知ってる?』と息子に尋ねると、息子は事も無げに応えた。「知ってるよ。高校のひとつ上の先輩。クイズのTV番組にも沢山出ている芸能タレントだよ」
僕は驚愕と歓喜と共に、微小な嫉妬心も同時に抱いた。何故なら、麻雀最強戦に出場することは、自分にとっての長年の夢だったからである。
ともかく、 県立太田高校卒業生初の麻雀最強戦出場は、僕にとって快挙以外の何物でもなかった。飾らない言葉で言えば、凄く嬉しかった。僕は息子の年ほど離れた高校の後輩を、画面越しではあるが全力で応援した。Xもこの時フォローした。
結果を述べると、予選の1回戦は見事に通過したものの、決勝で同じQuizKnockの先輩である須貝某に敗れた。残念な結末ではあったが、その1年後 彼が連盟のプロになるとは、この時は夢にも思わなかった。
麻雀最強戦への想い
初めて麻雀最強戦に挑戦したのは、今から30年以上前のことである。当時は「読者大会」といって、アマチュアの読者1名に出場枠が与えられる。当時のシステムは、所謂ワンデー大会で、数十名の出場者が半荘4回戦を闘い、上位4名が決勝に駒を進める。そして、決勝戦は半荘1回勝負で優勝者が決まる。これが第5回の読者大会のシステムだった。
僕は運良く出場権を得ることが出来たが、結果は3-3-1-1で11位だった。一歩も二歩も及ばなかった。
その後、最強戦とは長いブランクがあり、その間システムが変わっていた。アマチュアは応募さえすれば、誰でもしかも、複数回エントリーすることが出来るようになり、出場そのもののハードルは低くなっていた。
現在のシステムで店舗予選を通過したのは、僅か1回だけである。2018年東東京地区予選のガラパゴスでエントリーした予選である。東東京地区大会本戦では、2回戦で明らかなミスを犯し、後悔の残る敗退をした。
群馬県立太田高等学校
トップ画像は、母校である群馬県立太田高校の校章である。県内では前橋高校、高崎高校に次ぐ3番目の公立の進学校であるが、群馬県東部では最も偏差値の高い進学校である。少数ではあるが、毎年 東大・京大の合格者を輩出している。その一人が、東大卒の こうちゃんなのである。
太田高校は間もなく創立130年を迎える伝統校であり、頑なに男子校という体制を貫いている。金山同窓会という、卒業生全体の同窓会が、毎年1月の第3土曜日に開催される。参加資格は全卒業生にあるため、数百人もの卒業生が一堂に会する。だが、実際に出席するのは、現役をリタイアしたシルバー世代が大多数を占めている。中には90歳近いOBもいる。若い人は皆無である。
幹事を務めるのは、50歳に達した学年というルールがあり、僕はその幹事の一人に選出されたので、50歳に達した当年とその前年、2回だけ金山同窓会に出席したことがある。
金山同窓会の会長挨拶に含まれる定番のフレーズがある。「花園出場」「甲子園出場」「ノーベル賞受賞」である。前2項目は、在校生に対する目標であり、残る1項は、全卒業生の目標というか困難極める悲願である。別の表現をすると、無理ゲーとも言う。
何故 花園か?それには理由がある。当校は慶応大学に次ぎ、日本で2番目にラグビー部が創設された学校だからである。この「花園出場」という目標は、10数年前に達成されている。
余談だが、弟(㈱OKAYAMA社長)も太田高校に在校中はラグビー部に所属しており、県大会でベスト4までは必ず勝ち上がっていた。昔からそこそこは強かったのである。
「甲子園出場」については、極めて困難な目標である。2年前に春の選抜の「21世紀枠」の候補に選出されたことがあるが、惜しくも落選した。同じ県内の公立の進学校である前橋高校、高崎高校、桐生高校は過去に甲子園出場実績があるので、当校にも十分可能性はあった。しかし、時代が大きく変わってしまった。今の群馬県は他県から優秀な選手を引っ張って来る私立高校が、甲子園出場の常連校なのである。この様な理由で、公立の進学校の甲子園出場は、かなり困難な状況にある。
ただ、過去に期待を持てた年があった。今から20年前のことである。斎藤佑樹(ハンカチ王子)投手は、太田市内の中学生3年生であり、学業も優秀だった。当校への進学も、受験さえすれば可能であった。しかし、彼は早稲田実業高校へ進学し、エースとして甲子園で優勝という栄光を、自らの選択と力で掴み取った。麻雀と同じく、全ての事象において「たら・れば」は無いのである。
最後の「ノーベル賞」はどう考えても無理なので、代わりに「Mリーガー」に変更してくれないかと思っている。その第一候補者が、渡辺航平プロ(こうちゃん)であることは言うまでもない。僕が金山同窓会の役員になることがあったら、提案してみようと思う。確率的には、ノーベル賞の受賞より遥かに困難な目標ではあるが。
母校のPTA副会長になった
こうちゃんが県立太田高校を卒業する1か月前、僕は翌年度のPTAの副会長に就任することが内定した。しかも自ら手を挙げた。理由は会長になるのを回避するためである。PTA会長になること自体は嫌という訳ではない。現に幼稚園と小学校のPTA会長を通算で4年務めていた。ただ、仕事上の都合で、高校のPTA会長を受けられる状況ではなかったのだ。
目論見通りPTA副会長の仕事は ほとんどなく、12月を向えた。このタイミングで、PTA副会長として初めて仕事らしい仕事が依頼された。内容は3月に発行するPTA新聞の原稿の執筆であった。僕はさほど時間を掛けず、PTA広報担当のO先生に原稿をメールで送信した。
結論から言うと、書き直しを命じられた。
以下がその原稿である。
【ボツ原稿】我が青春の太田高校~さらば懐かしき日々よ~
息子の入学により、再び縁が繋がった我が母校は、30年という歳月の経過の分だけ様相を異にしていた。
そこには、リーゼント頭の生徒も、中ランを着る生徒も、紙麻雀に興じる生徒も、マラソン大会中に自販機でジュースを買って飲む生徒も、部室で隠れて煙草を吸う生徒も、ましてや大麻を吸って退学になる生徒もいなかった。ただ、稲荷山古墳によって迂曲された校舎だけは、当時のままだった。
太高生はスマートに進化した分だけ、全体的にスケールダウンした感は否めない。これを時代の変化の一言で容認してはいけない。日本の少子化における弊害は、労働人口の減、社会保障制度の危機といった社会問題よりも、家庭内教育の劣化を憂慮すべきだと思う。家庭内で少数であるが故に、享受できる過剰なまでの物質的な豊かさ、あるいは親の庇護。これらを単純な悪とする図式にするつもりはない。だが、・・・残念ながら紙面が尽きてきたようだ。
最後に278名の生徒諸君、卒業おめでとう!未来は君達の掌中にある。そして、高瀬校長先生、永い間本当にお疲れ様でした。ついでに、さらば、ル・クレールのケーキよ。
ル・クレールとは、PTAの会議の都度、学校側から供されたケーキを製造販売している、太田市内にある洋菓子屋の名称である。毎回 ル・クレールのケーキが楽しみで つまらない会議に出ていたので、この一文は外せなかった(笑)。
O先生から電話があったのは、1月のセンター試験の翌々日だった。
O先生「あのぉ・・大変申し上げにくいのですが、原稿を書き換えて頂けませんでしょうか?」
『何故ですか?まずは、理由をお聞かせ頂けませんか?』
O先生「内容的にちょっと問題がごさいまして・・・」
『煙草や大麻というくだりですか?事実しか書いてありませんよ?太高生の大麻パーティー事件については、当時の新聞でも大きく報道されていますから、同世代の人だったら皆知ってますよ。それに僕が本当に伝えたいことは、そんな黒歴史のことではなく、別にあることは、読めば解るようになっていると思いますが』
O先生「それは十分に理解しております。ただ、このPTA新聞は、他校や県の教育委員会にも配布されますし、当校のイメージが・・」
O先生は長男が高校2年生の時の担任で、お世話になっている。学校側の意思を翻すエネルギーを持つほど、この原稿にこだわっているわけではないので、全面的に原稿を書き直す旨を伝えた。O先生は安堵したようだった。
以下がその差替原稿である。
【差替原稿】母校と郷土、そしてその愛
昨今年の箱根駅伝での連覇に、然(さ)したる感慨を抱くこともなかったが、5年前のラグビー部の花園出場という壮挙に心躍らせたことを思い起こせば、自身の母校愛は県立太田高校へのそれが最上位であるに違いない。
『たこう』と呼ばれていた本校の呼び名が、『たたか』に変わったのは、後に開校した太田工業高校との識別のためであったことは周知の通りである。ところが、2年前に誕生した市立太田高校の存在は、近隣校との識別問題を密かに再燃させている。
かつて太田市は、新田郡太田町であった。戦後まもなく新田郡から独立して太田市となり、強戸村、休泊村、宝泉村等を吸収し拡張していった。そして平成に入り、新田町、尾島町、藪塚本町との合併を果たし、新田郡を消滅せしめた。まさに下刻上である。対等合併であったがため、新市としての名称が検討された。候補として「新田市」が挙がったが、この名称は順当に採択されなかった。
もし、新田市となっていたなら、件(くだん)の中高一貫校は市立新田高校と命名され、この識別問題は発生しなかったであろう。ではあるが、しかし、我等が『太高』は太田市に在ってこそ相応しい。
合併後の新市の名称は、歴史的に価値のある地名である「新田市」にすべきだと個人的には思っていた。南北朝時代の武将「新田義貞」が統治していた領土である。上毛かるた(群馬県の郷土かるた)の【れ】の読み札が「歴史に名高い新田義貞」であることは、ネイティブ群馬県人なら誰でも知っている。
こうちゃんが来年3月に群馬で麻雀を打つ
話が大幅に逸れたので、そろそろ締めようと思う。こうちゃんは、太田市ではなく、館林市の出身である。館林も歴史がある都市で、徳川家第5代将軍である綱吉は、将軍に就く前は館林藩の藩主であったが、歴史の教科書に記載されていないので、地元の人でも知る人は少ない。館林城跡は現在 館林市役所になっているが、このことを知っている館林市民も決して多くはない。こうちゃんは歴史系のクイズが得意なこともあり、これらのことは普通に知っている。
ついでながら、館林市は、美智子上皇后とも深い関係がある。美智子上皇后の御父上は、館林市出身の実業家・正田英三郎氏である。美智子上皇后は、群馬県を訪問される時は、必ず館林市においでになる。
館林市には「美智子様資料展示館」があり、上皇后様の生涯や館林市との関わりを紹介する展示が、常時行われている。
渡辺航平プロ(こうちゃん)を、僕が主催する「太田高校雀友会結成20周年記念麻雀大会」のゲストの一人として招待したことは、別の記事で書いた。多くの仲間たちが、こうちゃんと地元群馬で会える時を今から楽しみにしている。
(了)