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最高位戦プロテスト受験記(ただし90年代)⑥

【最終審査 後編】

井手洋介プロ登場!

  6回戦が長引いている卓が2卓あった。6回戦の対局が、既に終わっていた僕は、最後の2半荘向けて、英気を養うべく、上着を脱ぎ軽く目を閉じて、シートバックに身体を預けて瞑想していた。
    すると、そこへ長髪の眼鏡をかけた痩身の男性が、会場に現れた。当時の最高位戦の代表、井手洋介プロだった。テレビのCMで、その顔と姿を何度も観た本物の井手洋介プロだ。終盤に差し掛かったプロテストの趨勢を、確認しに来たに違いない。
    井手プロは福島治プロと二言三言交わした後、対局中の一卓に歩み寄り、受験者の闘牌を背後から観戦し始めた。
   ・・と、別卓からリーチの発声があった。その発声を聞いた井手プロは、その卓に向かって脱兎の如く飛んで行き、リーチ者の手牌を覗き込んだ。そして、他の三家の手牌を確認すべく、ゆっくりと卓の外周を一回りした。眼鏡の奥に見える2つの目は、少年のようにキラキラと輝いていた。「ああ、この人は本当に麻雀が好きなんだなぁ」と、僕はしみじみと実感した。

最後の攻防〜奇跡は起こせるか?

  6回戦を終わった時点で、1−2−1−2でトータルポイントは▲5.5、24人中13位だった。合格するには2連勝、最低でも2連対、そして大きな素点が必要だった。
     7・8回戦の対局相手は、シード選手2名と二次審査勝ち上がりの受験者1名だった。戦略として、誰をマークするとか、最早そういう状況ではなかった。ただ、毎巡、毎局  最善の一打を打つ。それを繰り返すのみである。7回戦は配牌と展開に恵まれてトップ。第一目標はクリアしたものの、素点が小さかった。最終半荘を残しての、成績は24人中10位、+16.1ポイント。6位のボーダーまでその差 約85ポイント。ほぼ絶望的な状況である。
    Мリーグルールなら、トップラスで順位点とオカを足して80ポイントは変わる。それに素点を加えれば、100ポイント差の逆転も現実的な話である。しかし、当時の最高位戦の競技麻雀ルールでは、かなり過酷な条件なのだ。
    例えば自分が6万点のトップを取った場合、獲得できるポイントは、順位点を入れて+42ポイント。ライバルが、箱割れ丁度のマイナス3万点のラスを引いても、順位点を減算し▲42ポイント。85ポイント差を詰めるということは、そういう事である。そもそも親が和了連荘のルールで、原点から3万点を積み上げる事自体が難しい。更には、直接対決をしていないライバルに、マイナス3万点の箱割れラスを引かせるのも、至極困難である。
    短いようで長かった、3日間に渡る最高位戦のプロテストもこれで最後。最終審査の最後の半荘が始まった。

そして伝説へ。。

  北家でスタート。昨今の競技麻雀では、聴牌連荘というルールが主流なので、北家でラス親を迎えられることは、追う立場としては、それなりに有利なのだが、このプロテストのルールでは、そこまでのアドバンテージは無い。だが、手が入った。配牌ツモとも好調だった。中打点、高打点の聴牌が高い頻度で入り、そのうちの半分が和了に結びついた。
    麻雀あるあるで、勝ちへの目が無くなると、手が入る。この半荘は正にその状態であった。極めつけの大物手は、下図の手牌だった。オーラスの親番 、最初の局だった。

オーラス東家  0本場  10巡目の手牌

    聴牌から3巡後、上家のベテラン シード 選手から、和了牌の9筒が打たれた。『ロン。18,000』 ツモれば倍満の手だった。「高い手 打っちゃったなぁー」ベテラン シード選手は、苦笑しながら点棒を卓の僕の手元に置いた。素人のバカヅキに、手が付けられないといった感じだった。
    オーラス1本場、平和のみの1500は1800を和了った。オーラス2本場、断么九ドラドラの7700点のテンパイを入れ、闇聴に構えた。僕の聴牌気配を察したのか、和了牌が出ない。現物か  もしくは、安全そうな牌ばかり他家は切っている。
     14巡目のことだった。僕が四萬を切ったところで、下家の手が止まった。そして、何事も無かったかのように、ツモ山に手を伸ばした。鳴こうとして、腰を使った訳では無い。おそらく、和了牌を見逃したのだと、直感的に悟った。
     ここで中途半端にを和了って終局させても、合格ボーダーに届かない。そこで僕に連荘させて、次局に自身が役満クラスの大物手を和了り、合格に近づけるという意図で、限りなくゼロに近い僅かな可能性に賭けたのだろう。この局、この最後の局は、和了ることが出来ず、僕の最終審査はここで終わった。

合格発表

  結論から述べよう。僕の8半荘のトータルスコアは、+60.2ポイント。24名中8位だった。合格者のほとんどが、+100ポイント超えだった。上位者が最終戦でスコアを伸ばし、合格ボーダーが上がっていた。合格ラインまで、着順こそ2つだが、点数的には大きく水をあけられていた。
     対局が全て終了してから、審査結果発表に時間がかかったのは、Windowsパソコンなどまだ無い時代、電卓による入念な検算と、スコアを記す模造紙への転記作業があったからに違いない。
     トップ合格者は藤川孝治 君。3・4回戦で対局した、スポーツ狩りで眼鏡をかけた例の若者であった。8半荘全連対という、完璧で断トツの成績であった。今春高校卒業予定の若干18歳。最高位戦で史上最年少合格だという。
   何故、僕がこのような個人情報を知っているか。当時の近代麻雀は、最高位戦のプロテストの結果(合格者の氏名を含む)を、記事として紙面に掲載していたからである。
     藤川孝治プロはその後、最高位戦を退会し、フリープロとなった。モンドのNew Wave Cupで、大三元を和了る等、多くの視聴者の前で、優勝した萩原聖人さんと熱戦を繰り広げた。
   
    こうして、僕の最高位戦プロテストへの挑戦は、不合格という結果で幕を閉じた。

                                            ( 最終回、エピローグ  に続く)


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