いい奴でいたいけど、難しい(24/08/15)
わたしはこれまで、あの人にあんなに酷いことを言われたとか、学生時代いじめられた経験があるとか、いろんなところで言ってきたし、こういう場で発信してきた。
けれどわたしも、加害者になってしまったこともある。人に嫌がられるようなことをしたり、冷笑したり、相手が大事にしている素敵なものを踏みにじるような発言をしたり…。
今日はそういう過去の罪を思い出して、具合が悪くなった。『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』という書籍が有名になるくらい、やられた側は覚えているけどやった方はもう忘れている、というのはよくあることのようだけれど、わたしはやられたことも、やってしまったことも両方覚えているので生きるのがしんどい。やられたことを思い出すと「なぜそんな酷いことをされなければならなかったのか」と思うし、やってしまったことを思い出すと「自分はこんなに悪い人間だから、生きていてはいけない」と思う。
自分が加害者になるとこんなに嫌な気持ちになるのに、なぜ、酷いことをしてしまうのか。わたしの場合は、「子どもはみんな無邪気で無知で狂気的だから、ときに人を傷付ける」というのとは違う気がしている。無知なのではなく、間違ったコミュニケーションを学んでしまったのだ。
自分が酷いことをされたときに「社会はこういうものなんだ」「これがコミュニケーションなんだ」と納得することで自分が本当は傷付いているのを無かったことにしてきた。その度に間違ったコミュニケーションをインストールしてしまっていた。そういう"間違ったコミュニケーション"を"良いコミュニケーションの在り方"だと勘違いしているから、元々コミュニケーション能力が無いのも相まって、人と関わるときに変に気張ってしまって、それが結果として誰かを傷付ける行動に繋がっている。
わたしが誰かを傷付けてしまうのは、わたしがいつかの場面で被害者だったことが理由だけれど、かと言って正当化するつもりはないし、そんなことしてはいけない。もしかしてわたしを傷付けてきた失礼な人達も、いつかは被害者だったかもしれないという広い視野で物事を捉えたい。許すとか同情するとかでなく、本当の敵は個人なのか、風潮なのか、社会なのか、見極めるために。
弟に「あなたは口では、どんな人種、性別、年齢、ありとあらゆるコミュニティに属する人のことを差別してはいけないし、偏見の目で見てはいけないと言うけれど、実際ものすごく人々のことを分類したがるし、差別的な偏見の目で見ている。」と言われた。その通りだと思った。わたしは長年、なにかと分類したがる社会で生き過ぎたせいで、自らが他者へそういった目線を向けてしまっている。そんな自分を変えるために、日々考えて努力しているけれど、努力は外からは見えず、結果でしか語れない。わたしは完璧ではないし、まだ成長過程だから、弟にそんな風に言われてしまったのだ。
"間違ったコミュニケーション"を"良いコミュニケーションの在り方"だと勘違いしてしまっているという問題は、身近な友人から真の"良いコミュニケーション"を学ぶことで治そうと思っている。親切なふりをして攻撃してくる人が多かった人生だけれど、今は良い人たちに囲まれているから。
もう加害者にならないために、過去に傷付けてしまった人達のことを、わたしは忘れない。自分のことを良い人間だなんて思えない。気をつけていないと、すぐに誰かを傷付ける。だからわたしは、すごく言葉に気を遣う。
「あんたのブログなんて誰も読んでないんだから気にしなくていいでしょ」と言われたことがあるが、わたしの言葉でこれ以上誰かを傷付けるわけにはいかないし、自分の言葉に責任を持てないなら、話さないほうが良い。それでもわたしの私的経験を綴ることで、理解してもらえたり共感してもらえたり、もしかしたら誰かの意識に少しでも影響を与えられるかもしれない。だからわたしは文章を書くし、発信することにした。その代わり、充分に気を付けて。
文章を書くときに言葉に気を遣うのにはもうだいぶ慣れたけれど、やはり対面だと会話のテンポが早いから、上手く出来ないことも多い。
生きていると、やり返すことで相手を傷付けることだってある。やり返しても"相手を傷付けてしまった"という事実があるから結局いい気持ちはしないし、自分が傷付けられたときに、やり返さずに相手の攻撃対象から外れるにはどうしたらいいのだろう。
被害者にもならず、加害者にもならないことってとても難しい。