第3夜 ここを見てほしい!町と住宅の関係 全体ディスカッション
今回は「ここを見てほしい!町と住宅の関係」です(2020年4月25日開催。よなよなzoom第3夜)。
僕はちょっと、アメトークに憧れている節がありまして。笑。好きな建築について、思う存分語りあえたら楽しいかな、なんて思い、本日の企画を思いつきました。1~3軒ぐらいの住宅の他作と自作を交えて町との関係やそれをどう考えて設計しているのかを話す回です。以下の方々にお話しいただきます。
名古屋の米澤 隆さん https://www.takashiyonezawa.com/
大阪の白須 寛規さん https://design-su.net/
東京の伊藤 州平さん https://www.81a.co.jp/
住居の捉え方が変わる転換点に僕らはいるんじゃないかな、と思うんです。お三方がどういう住宅を評価していて、自分の実作に影響を受けているのか、を話したいと思っています。それでは、まずは私から始めますね。
TOPIC1|居場所の連鎖や閾の連鎖、地域・産業の系の編集、仕事場と住まいと街との関係(廣岡周平/PERSHIMON HILLS architects)
TOPIC2|時間軸を伴い部分並列的なアップデート、異種共存性・過渡期性、多重人格的、「つくる」と「うまれる」のあいだ(米澤隆さん/米澤隆建築設計事務所)
TOPIC3|間接的な外への意識と連続(白須寛規さん/design SU)
TOPIC4|街のリビングスペースとなる建築を目指して(伊藤州平さん/81A)
(以下、個別のレクチャーを受けての全体ディスカッション)
廣岡|皆さん、作品を通して街の関係性を見たときに、建ち方とかで街をアップデートしているような印象を覚えました。その作法は、図式的でありつつも、周辺で起きているディテールや関係性を汲み取って表現しているようなところが非常に面白かったです。
米澤|図式的なものを如何に壊していくのか。建築家として強度のある建築を作りたいとか、今までにない形式や様式を発見として行きたいという欲望は、どこかにあると思います。でも、その図式をあまりにも誇示すると色々なことと衝突が生まれてしまう。図式から発見するも、そこからこぼれ落ちていくものから新たな図式を見出していく、というようなところに現代性があると思います。
白須|モダニズム的な表現というか、面積を区切って機能を与えるという建築の作られ方に対して、境界を如何に壊すか、自分以外の所有物と如何に距離を取るのか、ということは、とてもよくわかる部分もあります。ある種、区切りを繋げようという考え方で建築は進んできたと思います。
一方で、最近コロナで色々と考えさせられています。電車に乗ると人との距離が気持ち悪い部分もありますし、「街に開く」ということを再考する機会が訪れると思うんです。ある種の認識の変化を経て、今後の建築がどこに向かうのかは、これからの課題かもしれません。
米澤|確かにそうですね。もう一つ、何を建築設計で信じるのか、というのも考えています。社会は移りゆくものなので、社会に即して考えるのにも危険性があると思います。僕は京都出身なのですが、京都はあらゆる時代の建築物が存在していますし、何が正しいのかを判断するのは難しい。現代を振り返ると、2011年以降、「繋がり」はある種の象徴的な言葉だったように思いますが、今はそれが難しい。
白須|ソーシャルディスタンスの影響はとても大きい。距離感の感覚自体が変わったとき、開く、閉じる、という言葉自体が変わりそうですよね。
廣岡|ダスハウスのカーテンや伊藤さんの壁の認識にも繋がるんですが、モノと人の距離、ひいては環境と人との距離については、その居場所に対してある個人が「気持ち良い」とリアクションした結果だと思います。みんなが集まるスペースを作るというよりも、その場にどんな居心地の質を作れるのか、ということだと思っています。実はモノと人との関係は変わっていなくて、そこは変わらない部分なのかもしれません。
伊藤|僕が図式を通して、一つの距離感で成り立っているのではなく、複数の距離感を持てる場がある、という空間の実現を目指しています。一つの解決策となる事象や場があって、それをたくさん作ってあげることで、多様な選択性や距離感を実現することが重要な気がしています。
米澤|ある種の選択可能性がある、というのはいいですね。話を聞いていて、多義性、というキーワードを思い出しました。実は、物事の意味は変わっていく、ということを博士論文を通して考えていました。新建築の解説文から60年分の「白」「透明性」「間」の意味を見たのですが、そこには実に多義の解釈がありました。同じものに対して時代時代で捉え方が変わっていくわけです。現代では、古い建物が色々なものにリノベーションされていますが、それはある種の空間形式の誤読であり、それは、建築の生存戦略な気もしています。
白須|米澤さんの「虚像」というような表現は、伊藤さんの話と繋がる部分がありました。「位相的な反転」です。一方で、伊藤さんの表現には、あるものに対して色々な意味がある、という米澤さんの話とちょっと違う印象も持ちました。伊藤さんの話はのなかには、見えないものにある図式というか、そんな印象を持ちました。
廣岡|確かに壁を隔てて空間が連続する風景が想起されました。
白須|一つの絵の中に色々なシーンがおさまっている感じですよね。
廣岡|生物建築舎の「鹿手袋の長屋」では、隣の家のテラス越しにそれが見えるものがあります。自分がいる場所が他の人の空間を感じたり、いることを想像できるというような表現が、伊藤さんの表現と繋がる部分がありました。さっきの距離感の話に戻りますが、距離感を保ったとしても共通の心地よさを見いだすことができれば、とても楽しい街ができる気がします。
伊藤|今やっているzoomやSNSに対するストレスが、実は、僕の中にはあります。建築には場があって、視覚領域じゃないもので建築を感じる、そういう欲求があると思っています。その時に表現のレベルで終わるのではなく、建築として、どういう現実を作れるのか、認識のところが大切になっているのではないでしょうか。ちょっと話は変わってしまいますが、特徴的な携帯が生み出す、白須さんの半外のような空間のお話が聞きたいです。
白須|内部外部はありますが、外を含めた一つの空間、という認識を持てるように設計しています。どん、と開けるのではないですが、連続して繋がっちゃう、というような感覚です。その際重要になるのは、部屋の幅です。3600よりも幅のある空間になると部屋として完結してしまう印象があるので、それよりも小さくするように心がけています。
廣岡|これ、永遠に続きますね。笑。
全員|そうですね。笑。
廣岡|12時も回っていますので、今日はこの辺でおひらきにしましょう。今日上がっていた住宅のプランを見直したいです。とても良い勉強の機会になりました。ありがとうございました。
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編集:服部琴音(名城大学3年)、佐藤布武