第14夜 建築・都市が老いることをどう調理するか?| 全体ディスカッション
この記事は、よなよなzoom#14:建築・都市が老いることをどう調理するか?(2020年12月12日)でディスカッションされたものを編集しています。
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廣岡:ここからは、みなさんのお話しを聞いた上でのディスカッションに入っていきたいと思います。まずは佐藤さん、口火を切ってもらえますか?
TOPIC1 設計するときの時間の扱い方(廣岡周平さん/PERSHIMON HILLS architects)
TOPIC2 「慣習」から建築をつくる(石川翔一さん/1-1 Architects)
TOPIC3 都市が老いるとは生き物のようである (魚谷剛紀さん/Uo.A 一級建築士事務所)
TOPIC4 活用されていない既存の建物をどう受け入れられる器にするか(嶋田光太郎さん/スキーマ建築計画)
佐藤:まずは今回のテーマの「老いる」から話せればと考えています。僕は今日のテーマを聞いた時に、「老いる」という言葉にポジティブな印象を持ちました。作った後に経年変化してどう街に馴染むのかというか。設計するということにおける「老いる」と、街の中での面白い場所の中での「老いる」と、この言葉には多義性があると思っています。魚谷さんはどう捉えているのでしょうか?
魚谷:馴染むことを「老いる」と捉えるのなら、建った後に何が残るのか、影響するか、ということが老いることにおいて大事なのではないかと思います。自分たちが設計したものが馴染んでいくというよりは、どういう派生をするのか、その可能性が「老いる」に繋がるのかなと考えています。
石川:何が残るのか、か。僕自身はネガティブに考えていた部分は確かにあったかもしれません。前進性のない状態を「老いる」とした際、自分たちの考え方としっくりした部分がありました。
廣岡:「老いる」はポジティブであり、ネガティブである。何が正解かわかりません。捉え方や射程距離が違う中で、みなさんがどう考えているのかを議論したかったんです。経年変化して馴染むという文脈は佐藤さんのバックボーン的にはそうですし、みなさんに色々な理解がありますよね。今回面白かったのは、個別で捉えていないことでした。種として捉えるというか、生態的に捉える、となった時に、個がどう老いようと、何か別の方向にまちが動くきっかけとしての設計活動がある、というのがとても面白かったです。黄金湯の話も、錦糸町という昔の労働者が多い街だったところとの関係もあると思います。街の生態が変わった中で、部分を変えるだけでなく、都市の中に新しい要素を入れていく姿も面白かったです。
佐藤:「次の時代への銭湯」という言葉がありました。
嶋田:自分の家に風呂がある現代社会の中で何が大切かは考えました。その中で全員が今の銭湯のあり方を求めるか、というと、疑問があります。街に1個ある銭湯がどういうものだと通いたくなるのか。みんなが通うと後世に残る訳ですよね。今生きている人が銭湯をどう楽しむのか、ということは大切にしました。
佐藤:老いるの先に何があるのか。銭湯というのは面白くも時代に合わない部分があると思います。その解決としてのサウナは、同時に、現代性も強いというか。資本の産物としても捉えられるサウナが出てくることに対する違和感がありました。一方で、竣工写真は、地域のおじいいちゃんたちが使い倒している感があって、ものすごく面白い。そういう側面にこそ面白みがある気もしました。
嶋田:確かに、サウナやビアバーというコンテンツに対する違和感は、僕の中にもあります。でも、行ってみるとめちゃくちゃ楽しいんですよね。笑。それを体験している人がいます。必ずしも次の時代を見据えている訳でもなくて、現状への解決を繰り返していくのは、商業施設ではある意味、致し方ない部分もあると思います。
佐藤:その点でいうと廣岡さんのホステルの話も、葛藤はあるかと。
廣岡:過去には設計者つきで物件ごと売られる、という経験もありました。消費社会の中で建築行為が面白いものとして残るためには、というのも、同時に大切にしています。
今日聞いていて面白かったのが、改修の場合は平面をかえない、ということでした。それでいて、課題解決は立面で検討していますよね。それはめっちゃ面白い。実際に見ていけば細かいプランニングは変えているのでしょうか、大きい骨格自体は変えていません。魚谷さん、立面で変えつつ、骨格が一緒だから残る部分はある。そういったことに関して、何かありますか?
魚谷:立面的、というのは確かにそうですね。どう平面と立面の往来をハンドリングしているか、というと、実はそこまで注力して考えていない、というのが実態です。立面性を特に気にせずに進めましたが、結果としてそこが表現として注視される形になりました。
先ほどの老いる先に見えるもの、という話。リノベーションっていうのはどちらかという若返りの作業だと思います。その中で、老いに抗うことを選んでいるのか、違うことを意図するのかという違いだと思います。抗いたいと思いつつも、180度変えるまでには行きたくないな、と。そうすると、流れみたいなものは受け継ぎたい。そういった視点が、みなさんの更新性の考え方に現れるのかと。
石川:コンテンツの話に関しては、廣岡さんに近しい部分もあります。そこに人が集まってめちゃめちゃ楽しい、という状況が大切な気もします。そこに入った新しいコンテンツが馴染んで、そしてその街の顔になっていく、という。
あと、魚谷さんの話では、投入堂の穴の話がとっても興味深かったです。リノベーションにおいて、その「穴」に当たる部分をどう設定するのか。どこまで残して、どこを壊すのか。そのへんのお話は、どこか投入堂の穴に近かったです。
僕らは梁や柱を残し、今まで見えて来なかったものを残すという手法をとっています。嶋田さんも同様、コンクリートの壁を見せた訳ですよね。自分が今まで見ていない、隠れていたものが現れた時、それは懐かしさでも、新しく物質が据付けられるのとも、何か違う、なんとも言えない感情になると思います。それがリノベの回答の仕方の一つになっている部分もあるかと。それは何かと、悶々と考えていました。
廣岡:隠れていたものが現れた時、新しくも、古いとも言い切れない。見えていない原理が発見された時、しっくりくるというか、そうなんだな、とは思うけど、目の前に見える不思議さも感じますよね。それは老いるでもなく、なんなんでしょうね。悶々とします。確かに、それにパワーがあるというのは、みなさん感じているのではないでしょうか。
石川:瓦の屋根とか骨組み、コンクリートの現しが残ったりというのは、当たり前のように残す対象になっていると思います。ただ、壊された廃材などはそうではありません。価値がないと判断されたところ、に、意味があると思いますし、何をそういう対象と捉えるのか、というのを嶋田さんにも聞きたいと思いました。
嶋田:使われなくなったりとか、今考えたら必要ないよね、という、ものです。改修においては、価値・無価値というより、要不要の判断で、削ぎ落としていくことが多いですね。
魚谷:石川さんの言われる、残す、残さないの判断はもちろんその通りだと思います。同時に、時間軸じゃないものに対するリノベーション的視点がおありでしょうか?時間ではないものが新しさにつながっているのかも、とも思っています。
佐藤:正しく老いるということを目指したいな、と思っています。例えば、重伝建地区というものは、観光地化することが目的ではない訳です。一律的な解決先ではないのが大切です。
廣岡:時間軸じゃないことに対して設計しているかでいうと、リノベーションで時間軸を捉えていないこともあります。可逆的という魚谷さんの話は面白かったのですが、歌舞伎町ではかなり可逆的でした。躯体だけ残すことで、どれだけの多くの気づきを都市の中に埋め込めるのかを考えています。
ただただ古いのがいいという訳でもないし、時間の繋がりが切れてもいいとも思っています。先ほど、「正しく老いる」ということがありました。そこで、僕が気になっているのが、技術を残して見せる、ということです。宮大工の大棟梁・西岡常一さんは、飛鳥時代の技術はいいけど鎌倉時代は最悪。みたいなことを言っています。ある時代を評価できるのは面白い反面、鎌倉時代を排除する訳ではありません。正しさの指標が揺れ動いて多様であること、それが都市の奥行きにもなりうるかと。どの時代が一番いいか、ではなく、もしかしたら間違っていたことですら、都市の未来に面白い視座を与えるのかと。何を持って正しいのか、が、技術だけになっていくのも怖いですよね。
佐藤:一番怖いのは、塗り替えることだと思っています。なき物にするという住宅地開発というか、技術でもいいし、時代性でもいいし、塗り替えないで継承していくことが大事なのではないかと思っています。塗り替えることが資本主義経済が生み出した概念だとすると、そうではない建築のあり方そ模索したいです。
廣岡:近代化そのものが塗り替える、ということをしてきた時代です。絵画でも伝統とは一線を画すという世界だったし、モダニズムもそうですよね。
魚谷:石川さんたちは、敷地境界線をきれいになぞらえた表現をしていますよね。あれは意識的な残しかたなのでしょうか?例えば緑化の庭が境界を跨いだり。
石川:そこは設計段階でも色々悩んだ点なんです。実際、機能が相互に貫入していたり、3棟が同じくらいのバランスであった方が風景としてよかったのかな、と思う部分もありました。ただ、実施設計を進める中での色々な調整の結果、線の可視化を強めることにフォーカスしていきました。市街化調整区域って、宅地と農地セットで売りに出されることがあります。4筆合わせて買った時に似たような発想で展開するし、何か汎用性のあるものを提案することで、大きな開発に抗っているという部分もあります。
廣岡:市街化調整区域っていう塗り方がすでにあるけど、おっしゃられていたように、鳥はその境界線も見えません。あの作品の批評性はすごく強かったです。アイロニカルで、レムぐらいの批評性も内在していました。
魚谷:知らない誰かが昔引いた線を残し続けたら、こんなことにになりました。っていうのが生まれるととても面白いですよね。
佐藤:最初に廣岡さんが話した建築の時間の扱い方の悩みについて、もう少し深ぼりできればと。スタジオムンバイは、建築は、過去から現在、未来の間の調整ができるだけだ、ということを言っています。我々は、何が正しいのかを判断した上で調整することしかできないのかもしれません。時間軸がなく塗り替えると、全てが自分の世界になるという都合の良さがあって、現代はそうしてきた側面があります。何が正しいのかはわからないけど、それでもどこかにアクセスするというのが重要かと。石川さんたちの作品で扱っていた、築50年くらいの建築をどう扱うのか、というのも、とても重要だと思います。
廣岡:とある時代に急速に建物が簡略化したというのはまさにその通りだと思いますが、一括りに50年というのは違うかと。都市部だと掘立小屋のような適当に作ったものも多いです。いずれにせよ、何に魅力を感じるのか、というのが重要な気がしています。嶋田さんは杉の型枠を見た時、「おー、かっこいいテクスチャ出てきたな。」っていうのが本音ですよね。今、杉の型枠は高くて使えませんが、合板が出回っていなかった当時には、それが当たり前だった。手間がかかってしょうがないモノが突如現れることのパワーはすごいですし、適当に作ったものは全く違います。今、「吉阪隆正:環境と造形」という本を読んでいます。この本では、ものを作るというのは本来は命をうつすことだ。と言われています。元来のものづくりでは、ものづくりの中でエネルギーをかけ、命をうつし、自分のコピーのようなものができるというのが重要とされていました。それが量産され、誰でも作れるようになった時に、ものへの愛着ではななく役割が重視されてきました。先ほどの正しさとは、過去と未来の調停の中で、正しいものをどう評価していくのかということだと思います。。信頼できるものにどうやって調整するのか。それが新築であろうと改築であろうと考えないといけないですね。
佐藤:老いるということをどう捉えるのか、というと、ニュートラルに捉えるくらいがいいのかな、と。あとは土地の意味の強さもありました。
廣岡:みなさん土地をとにかくすごい見ていますよね。それでいて、一つの言語だけでなくいろんな言語を使った上で、バックグランドもすごく読み込んでいました。
さて、24:30と、遅くなってしまいましたね。気づきの多い時間をありがとうございました。
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編集:佐藤布武