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記憶の巡礼

タイ、スワンナプーム国際空港に着いたのは早朝。
福岡行きの出発は日を跨いで夜中の2時。
トランジット18時間。
出発までを空港の中で過ごすという選択肢は初めから無かった。ガイドブック、ネットでトランジットでの観光おすすめスポットも見ることも無い。
早朝と言えど、空港は到着した人々、これから出発する人々で混んでる。
私は案内板のimmigrationに
向かう。行列の出来た入国審査を横目に、一時入国のカウンターへ並び、手続きをすんなりと済ませてサワディカッ。
タクシー乗り場へ行くと、
タッチパネルで自動化された配車予約に驚きつつも、
普通小型サイズのタクシーーを選ぶ。配車レシートに記されたタクシーレーンへ行く。ドバイとはうってかわり、じめっとしたアジアの湿度が迎えてくれ、レシートに記された番号のタクシーを探す。
「あった、あそこだ」
近寄って行くと、ドライバーが居ない。向こうから手を上げて近づいて来るおじさんがいたので、この人にレシートをヒラヒラと振って見せると、うんうんと頷き、私を見て荷物がバックパックひとつだと知ると、バックシートのドアを開けてくれた。thank you!
レシートを渡すと
「where you go to」
「カオサン」
「了解」

天気は曇り雨。
初めてバンコクの地を踏んだのは20年近く前。
その時もカオサンだった。
当時、私は長らく居た関東、最後は埼玉県川越にある施設を出て、博多に越し、音楽を通じて知り合った友人らと、熱心に活動に励んでいた。同い年で毎日ほぼ一緒に居たバンパクが、バンコクに仕事の商材を取引する為に行くので、「一緒に行かない?ついてきてよ」と持ちかけられ、微塵の迷いもなく、行くと答えた。
初めてのタイ、バンコクは
まさに微笑みの国だった。
まずは商材の交渉で、
今や、うる覚えだが確か
スクンビットに行ったはず。都心部のようなビルディング、日本の有名デパートも並んでるようなエリア。
そこにあるビルの高層階のオフィスにて、プエラリアと言う女性用の美容クリームの交渉をしてた。
私は高層階の窓から見るバンコクを眺めてた。
交渉が終わると、タクシーでカオサンへ。夕方のカオサンにタクシーから降りた時は、行き交う多様な人々のエネルギッシュなバイブ。通りのお店はオープンエアのカフェ、レストランバー。どこも通りに音楽が溢れて出てる。ビール片手にタンクトップ、短パン、ビーサン、バカンスを楽しむ欧米人、さすがバックパッカーの聖地。フルーツ屋台、チリシュガー、路肩に座り込んで煙草か草かわからん様なのを吸ってるドレッドタイダイの人。エキサイティング!カオサンカオス。
先ず緑を探してから
「荷物を置きに、ゲストハウスへ行こっか」
メインストリートをスッと横に入った。向こうから人が来たらどちらかが避け無ければならないような狭い路地を奥に行く。
1分もせずにゲストハウスがあった。
看板を見ると「VS」と書いてある。
誰かの人の家に来たような雰囲気。40代くらいか、おばちゃんが出てきて、バンパクが何やら話してる。
「部屋は上、2階ね」
年季の入った木の階段を上がる。田舎のじじばばちゃんちのような。部屋のドアは決して頑丈とは言えない。鍵は100均に売ってるような叩けば壊れそうな錠前。部屋は4畳くらいで、簡素なパイプベッドが二つとサイドテーブルひとつ。小さな窓からは、手が届きそうなら向かいの建物の壁。
扇風機がひとつ。
ベッドの上に腰を下ろし、
荷物を横に置く。
一息休憩、一服。
ミネラルウォーターを開ける。
落ちつくと
「マッサージ行ってみようか」
「うん、いいね」
部屋を出て、鍵をかける。
2階の階段とは反対側行くと
屋根のあるテラスは14畳くらい。大きめの石造り四角いテーブルを囲むように
石造りのベンチがある。
そこには利用者がゆっくり共有するリビングの様な雰囲気。4人くらいの旅人がくつろぎ談話してた。
階段を下りてマッサージ店へ。さっきのメインストリートに出て、数分歩くと賑わう横丁のアーケードみたいなとこを入って行く。
massageと書いた看板がちょいちょい目につき出す。
「ここ行ってみよ」
散髪屋さんの様な感じの
ガラス張り、ドアを開けて、整体の先生みたいなユニフォームの女性が
迎えてくれた。
一階で受付を済ませて、
サンダルを脱いで小上がりを上がり、奥にある広めのシャワールームみたいなとこで、椅子に座ると
足元では、タライにためたお湯に足をつけて洗ってくれる。洗い終わると2階に案内され10畳くらいの薄暗いマットを敷き詰めた部屋に入り、ひとりにひとりのマッサージのお姉さんがつき、マットに寝るように促される。エアコンが効いてて、マットもひんやりし、気持ちいい。
足の裏からじわじわと
マッサージが始まる。
ふくらはぎ、太腿、腰、背中と身体全体を2時間かけてほぐしてくれる。心地よさにいつのまにか寝てた。
起こされた時、よだれを垂れてたんじゃなかろうか。
それくらい気持ちよく、あっという間に終わった。
1時間.250バーツ(1バーツ3円)ほど。
毎日でも来たいと思った。
さて、ほぐれた後は腹が減る。
通りに戻り、路面屋台の匂いに釣られてパッタイ、串焼き、葉っぱ炒め、シンハービール。プラの椅子に座り、行き交う人達わっしょいわっしょい。夜になるほど賑わいは増し、メイン通り沿にあるレストランバーでは、あちらこちらでパーティ。
2時頃ゲストハウスに戻ると、2階のテラスで緩んでる旅人が2人。hi!と声を掛けて空いてるベンチに座り、手に持ってた飲みかけのビールをテーブルに置く。どこから来たのから始まり、インド、ネパール、チベット、チェンマイに行ってきた、もひとりはパンガン、マナリ、ゴアと旅の話しを聞きながら、あそこはここが良かったとか、インドに行った時はナマステ病にかかっちまって、何日か下痢と熱で寝込んでたとか。時折、回ってくるジョイントは、話しのストーリーに体温をまとわせ、さっきまでそこに居て、一緒に旅してるかのような気分にさえする。眠くなってきたので礼を言い部屋に戻ってベッドで体を伸ばした。翌日は、シーロム、市場、寺院巡り、古式マッサージ、雛壇で品定め、レストラン、タイカレー、パッポンのバーでは裸の女の子達が踊り、ナイトマーケット、パーミーヘン、ゴーゴーバーで気の合った子と一緒に過ごした。数日居たカオサンからシーロムに近いビジネスホテルに移った。昼間はいろんなバンコクの顔を見ようとねり歩き、疲れたらマッサージ。あっという間にショートステイinバンコクもタイムアップ。フライトチェックし、ドンムアン空港へタクシーで行きチェックイン、搭乗、フライト福岡。
しばらく頭の中はバンコクに染まってた。
それから立て続け、
バンパクと
「微笑みの国」に行くようになった。
その度に印象深い時間が編み込まれた。

ある時は、
定番になってる
カオサン経由からの
今回は飛行機で南のクラビへ。
タイでも有名なビーチリゾート。その港からフェリーに乗りしばらく行くと、沖合で船は停船。バックパッカー達は荷物を背負い出し、どうやらここは、乗り換えバスターミナルならぬ乗り換え船のターミナルのようだ。船の周りに10人乗り程の細長いスピードボートが8隻ほど集まってる。
そこから各々が向かう離島行きの船に乗り移る。
私達もボートの案内人が持つ行き先を書いたボードを見渡し「コ ランタ(ランタ島)」を見つけて、フェリーから水上タラップでボートに乗る。我々入れたら6人。日本人は私とバンパクだけ。ボートから手を伸ばすと海面を触れる。20分程行くと島に近づき、木で出来た小さな桟橋に着いた。
船着場の周りはヤシの葉の屋根の売店、行き交うバックパッカー達はひと味、ふた味もありそうなユニークな雰囲気を見て取れる。そこそこの賑わいもあるが空気は柔らかい。資本主義の波はまだ、ここまで押し寄せてない。素朴な島民たち。下は土。早速、トゥクトゥクに乗り、1週間前からこの島に来てるはずの友人を探しに出発。
まず、手がかりである、1週間前から滞在してると言う事、それはビーチ沿いのBARに滞在してる事、日本人で4〜5人。
それだけの手がかりでこの島を探す我々も我々だ。
まるで指名手配犯を探すインターポールのようだ。
ドライバーも、その手がかりを聞き「あそこに居た」と言う。椰子の木の並ぶデコボコ道を抜けて10分ほど行くBARに行く。降りて見回し、店のスタッフに訊ねてみると「NO」
トゥクトゥクに乗り、また次へ行ってみるも「NO」
諦める訳には行かないが、もし見つからなければ
我々でこの島を楽しんで行こうと話してた矢先、バンパクの顔をまじまじとドライバーが見て「あなたに似たような人を見た気がする」
更に先に向かう。
同じようなビーチの景色。
お店がポツンと見えたので
降りて行き、ヤシの葉や木で出来たネイティブなお店のスタッフに「日本人の滞在者は居ますか?」
すると
おもむろにスタッフが指差す先に、砂浜で何か拾ってるような人がいる。
「ん?」
あーー!
トゥクトゥクに戻り
「居た!居た!」
ドライバーは、ほらねと。
チップを多めに渡して
バックパックを背負い
BARに行く。
荷物を下ろし、砂浜のその人に近づくと、気がついた。「あ、来たの!」
来たのじゃないよ。
けんせい君、
彼は東京のミュージシャンでDJ。昔からの友人でもある。
しかし、バンパクの顔と見合わせてみると、なるほどね、似てると言えば似てる。これが決め手となるとは笑いが出て来た。
なんにせよ良かった。
BARに戻りビールで乾杯、
寝床を確保しようと近くのコテージを借りた。
ついでに原付きのカブも借りた。
けんせい君は、このバーでのパーティーに呼ばれてた流れで、フィールドレコーディングを行ってた。メンバーはパーティーの主軸である向井"taiyo"さん(同い年で音楽レーベル sound channel主宰)、ディジュリドゥのゴローさん、大阪が誇るVJのbetaland(平野くんとコロちゃん)
東京の龍馬(ミュージックラバーのパーティーオーガナイザー)の5人。
次の作品での素材集めといったところ。
実は後から聞いたんだけど
フィールドレコーディングは後から編み出したアイデアで、来た時当初は曲作りをこの素晴らしい環境でやるはずだった。それが機材のセッティングミスで一部機材がBOMBして、そこにたどり着いたって訳。
結果的に、のちに発表されたアルバム作品
OUTERLIMITS presents DJ KeNsEi in OM-LETTE DUB
は、彼らしいセンスでまとめられた作品となり、巷でも高評価のものとなった。

滞在中、朝から皆んなでカブにノーヘルで、森のジャングル、水溜りを通ってキャノンボールのようなレース。ランタ島のサイハテにある灯台に行ったり。
そこでは、ドイツ人で本国にてクラブを経営してると男と話して友達になった。
灯台からの帰りもレースで結構みんな本気。一位は私。ほっこりして、
近くの屋台でご飯食べて
波の音、水平線に沈む夕陽、チルアウトサウンド。
翌日も砂浜でシーグラスや珍しい貝殻拾ったり、泳いだり、飲んでチルして、夕陽に染まり、自然のリズムに委ねた。スケジュールを満喫し、コランタからバンコクに戻る為、戻りは陸路、ワゴンバスでクラビの空港へ行った。
搭乗待合室から飛行機へ歩いて行き、5〜60人乗りの小型飛行機。
私と向井さんが真ん中の列で席が隣り。周りは欧米人旅行者。まだ出発前で、私は荷物を両端の上にある棚に上げてる時「excuse me sorry」と言いながら、入れ終わると席に着く。横に居る向井さんを、ふと見て「Hi! nice to see you」
向井さんも
「nice to see you too!」
「what are you doing here? travel or business?」
「travel! vacation!」
「wow!really? same too!」
「where did you go?」
「ko LANTA」
「WAO! very nice place! me too!Iwent to! amazing
anyway where you from countrie?」
「I came japan!」
「OH!GOD! me too!me too! I came japan!」

このコントみたいなやりとりをシートベルトをして動き出すまでやってると、周りの外国人観光客達に、もちろん聞こえてて、と言うか、それを意識してたら「こいつら日本人はチグハグな英語で喋らずに、何故日本語で話さないんだ、おかしな奴らだ」といった表情と含み笑いが見てて、とても面白かった。
バンコクに着いたらシーロム辺りのビジネスホテルに部屋を取った。夕方、向井さんの友人のヨンちゃん(コリアン)がみんながいる部屋に来て、その時ニヤニヤしながらパッと手のひらを開くとラムネのようなのがピンク、水色、白など5粒。みんなでジャンケンして勝った人から好きなのを一粒取り、みんなが手にすると口の中に放り込んで水を飲んだ。
そのまま、街にあるクラブに行こうとなりタクシーに乗って行った。
クラブに着き、入り口でボディチェックされてる時は、もうフワフワしてた。
フロアのスピーカーの前に行くと雲の上に行ったようにはしゃいでた。
すると、いつのまにか
フロアで我々のハッピーなノリとは相対的な空気に遠巻きに囲まれてた事に気づいた。
そう、我々の度が過ぎて目立ったのか、地元の不良達の気に障ったのだ。そこから一気に気分が下り坂を転がり始め「とりあえず店を出よう」と出口に向かう時も執拗に付いて来る。タクシーに乗る時も我々を指差しながら、仲間達がバイクのエンジンを駆け出した。ホテルに向かう時も2人乗りしたバイクが3台ほど付き纏う。タクシーの運転手さえもその仲間の様に思えてくる。ホテルに着いて部屋に戻り、何気に窓の外を見るとバイクの連中がうろうろしてる。
これにはみんな、調子に乗り過ぎた反動にかなり痺れた。
それから翌日、チェックアウトしてそれぞれ帰国する人、滞在する人で別れてバイバイした。

また、ある時。
イケイケなAが、今時、類を見ない古びた皮の手提げバッグを片手にバンコクから戻って来た。それはチョコを敷き詰めたバッグだった。それを聞いた時は、よくもまあと呆れつつも、一か八かの賭けに出る度胸と彼の運の引きに笑えた。それを3週間ほどでお金に換えて、それを仲介したバンコク在住のSさんに、まずは渡さなければならなかった。それが予定通りにはいかずに6週間はかかった。予定をオーバーしてる事に苛立つ、バンコクの卸元との板挟みだったSさんはAに急ぐようにツテを使い信号を送った。随分遅れたが、ようやくバンコクに持って行けるようになった。この流れを察知したAの親御さん家族が気を揉み、付き合いのあった私に一緒に行って、連れて帰って来てほしいと頼まれた。
どうしたものかと思案したが、結局、チケットを取り一緒の飛行機で行った。
ドンムアン空港からタクシーで、まずはSさんのところへ。着くとSさんは、痺れをきらして、えらく怒っており、それは、卸元からの催促とネコババするつもりじゃないかと疑われた事が原因のようだった。あっちサイドのルールは世界共通。とにかく厳しい。よくある映画などで見るルール違反への処遇は、まんざら嘘ではない。Aは予定通りに出来なかったこと諸々含めて、返す言葉もなくしょげ込んでた。Sさんの部屋に行き、持って来たお金を数えると、Sさんは開き直ったように笑みを見せて「ここの部屋をチェックアウトして他の部屋に移るぞ」
移動したのはスクンビット辺りの高層ホテル。
Sさんはつかつかとフロントに行き話してる。話しが終わると、フロントのソファーで待つ私達に「行くぞ」と合図をするのでついていきエレベーターに乗ると、最上階のボタンを押した。
エレベーターのドアが開き、部屋のドアを開けると2階造りのメゾネットで外のテラスにはジャグジーもあるペントハウスだった。Sさんは長く住むバンコクでのテクニックを熟知してるようだった。ルームサービスでフルーツやシャンパンを頼んだりと「オイは金の使い方ば、知っとるけん」
さっきまでの怒ってたのも嘘のように、何か頼もしささえ感じながら、パーティが始まった。夜になるとパーティガールもやって来た。
2〜3日居てチェックアウトすると、その足でツーリストに行きエアチケットを買って空港へ。チェックインし、いざ向かうさきは、南のプーケット。
プーケットに着くと大きなリゾートホテルのオーシャンビュー。スパに南国リゾート満載の開放的なレストラン、屋外プールもスケールがでかい。
荷物を部屋に置いて、身軽になると、まずはシーフードレストランへ行き、ロブスターを始めとするシーフード祭り。美味いのなんのってもう。夜はパーティに出掛けて、午前中はプールサイドやビーチで寝る。昼はレストランへと、繰り返し4日ほど滞在したのちバンコクへ戻った。
落ち着いたところで、私は帰りのチケットのスケジュール、リコンファームせねばならんし、Aを連れて帰らなくては行けない事を話すと了解してくれて、帰国当日、Sさんにお礼をして、Aと一緒にタクシーで空港へ。そのタクシーの中で、Aは帰らないような事を口にしだしたので、私は当時いつも持ち歩いてた録音出来るウォークマンの赤いボタンをとっさに押した。Aは気づいて無い。私は何故帰らないのかを問い、空港に着くまで話し合った。危ない橋を渡り、一応ミッションを遂行した自分が、届けてすぐ帰ってたまるか、または、味をしめてネクストステージにチャレンジするか。なんにせよ、自分の人生、この男はスリルに疼くのだろう。空港に着くとAは帰らないと断言した。どうしようもない。言って聞くような奴であれば、そもそも親御さんは私に頼むはずもない。フライトの時間もせまってたので「わかった」と言うと私はチェックインし、定刻通りのフライトで戻った。戻ると、親御さんに連絡し、力添え出来なかった事を謝罪し、録音したカセットテープを渡して帰った。

ある時のバンコクでは、
夜な夜なネオンの煌くゴーゴーバー辺りをふらふらしてた。その中の店で仲良くなった子が「部屋を引き払ってウチにおいでよ」と名刺を渡され、裏には住所を書いてくれた。さっぱり読めない。帰国前日になり、バンパクに「もうしばらくこっちに居る、あの子の所に行ってみようと思う」と言うと
笑いながら
「わかったよ、じゃ先に帰ってるね、楽しんで!」
あっそうそうと、付け加え「もしなんかあったらいかんけん、これ持っとき」と
クレジットカードを渡された。
「使うこと無いと思うけど、無くさんごとする、ありがとう!」
「気をつけてね!」
「了解」

タクシーに乗り名刺の裏に書いた住所を見せた。しばらく行くと大きな川の近くにある高層マンションに着いた。入り口にはガードマンがいる。ドライバーにチップを渡してバックパックを持ち、入り口玄関ホールへ行くと遮るように「ちょっと待て」
名刺を見せるとインターホンで話してた。話し終わると「どうぞ」と素振りをし、エレベーターに案内され、その子が居ると思われる8階フロアのボタンを押してくれた。
彼女の名前はニット。
エレベーターのドアが開くと、ショートパンツ、Tシャツのニットが居た「来たわね、いらっしゃい、どうぞ」と手を引いて部屋に連れてってくれた。部屋は大理石の床で、キッチン、バストイレ、クローク、ダブルベッド、壁に大きな鏡、長テーブル。
「荷物はここに」とクロークの空いた所に置いた。
バルコニーに出ると、ハイウェイ、川、街の景色、下を見ると、マンション専用の大きなプールがある。
「すごいねここ」
「そんな事ないよ」
飲み物は冷蔵庫にあると言うので、キッチンに行くと料理道具がほぼ無いことに、気がついた。
「ご飯作らないの?」
「こっちの人は、ほとんど外食、だから、ここのマンションは一階にマンション専用の配達してくれる食堂があるの」
みんなはそこに頼んでると言う。
「プールで泳いで来ても良いよ、後で私の友達が遊びに来るから紹介するね」
「わかった、泳いでくる」

25mプール
のんびりした感じで
子供たちも遊んでいる。
潜った底から上を見る。
水面で揺れる太陽。
プールサイドのチェアベッドで肌が乾いてきたところでプールを出た。
入り口のガードマンに
さっきの部屋にコールしてくれと頼む。
エレベーターまでついて来てフロアのボタンを押してくれた。
「コップンカー」

部屋のドアをノックすると
中から声がしたので
待ってたら、開く気配が無い。ドアノブをまわして開けると「早く入っておいでよ」と言うジェスチャーだった。
バルコニーが気持ちいいので椅子に座ってソーダを飲んでると、インターホンが鳴り、ニットと同世代ぽい男女が入ってきた。
笑顔で手を合わせてお辞儀されたので私も同じ様に「サワディカ」
みんな床に座るので私も座る。何を話してるのかほぼわからないけど、タイ語独特のトーンと優しい響きは心地良かった。
笑い声と同時に私の方を見られた時は私の事を話してるなくらいはわかった。
その時は私も笑顔を返した。
夕方になると、みんなでご飯を食べに行こうと言うので一緒に行く。
マンションでて歩いて5分くらいの所に屋台があり
そこに行くと、お店のおじさんも顔馴染みのようで、
笑顔で迎えてくれた。
食べたいものを聞かれたが
なんでも食べたいと答えると「good!」と店のおじさん。ビールでみんなで乾杯し、徐々にほぐれてきだす。いろいろな料理が小さなこの屋台から作られては出てくる。それがどれもアローイ。ほろ酔いになってきたのか、みんなの会話も盛り上がってくる。
男の友達が何やら、竹で作った民族楽器のような笛を取り出して吹いてくれた。みんな、奏でる曲を聞き入った。
吹き終わると彼は
「これは私達の故郷
イサーン(タイの東北地方)の音楽」と
教えてくれた。
ニットもみんなイサーン出身だと話してくれた。
バンコクへ出稼ぎに来てる同郷の仲間たち。
見ず知らずの外人の私を家族の様にもてなしてくれ、
充分すぎるほど、
充分すぎるほど、
温かさの伝わる贈り物は
胸の奥を満たしていった。
そのあと友人達は帰り、
私達は部屋に戻ると9時位だった。ニットは仕事に行く為の用意を済ませると「一緒に行く?」
「行く!」
タクシーでパッポンへ。
店の近くのBARのスタッフに「この人をお願い」と。
スタッフは「ok」
ニットは「仕事に行くから、あなたはこの辺りで楽しんでて。ここのBARでは飲めるように言ってる。遅くなるから、先に帰っててと鍵を渡された」
「わかった」
店に向かうニットを見送ると、BARのスタッフにビールを頼む。お金を出すと「大丈夫、いらない」
だしたお金を仕舞うのもアレだし「君も飲まない?奢るよ」スタッフはニコッとしビールを開け乾杯した。
ふらふらと界隈を歩き回る。呼びこみが、エサを求めるひな鳥のように、せっついてくる。一周しBARに戻っては飲んで眺めて、また周回へ。ル・マンならぬパッポン耐久レースのように、何周かしてるうち、その辺の呼びこみ達も私を見ると笑い「またお前か」
日本人のおじさんツアーも多い。BARに座ってる時、キョロキョロする日本人おじさんに声をかけて「飲んでますか?呑んでないなら景気付けに一杯飲めば」と勧めると、私の流暢な母国語、異国での同胞、気も緩み一杯呑んでは繰り出していく。BARのスタッフがgoodと親指を立てる。
そうしてるうちにニットの店に行きたくなり、店に行き座っていると、接客するニットを見つけた。複雑な気持ちが湧いてきた、いわゆるジェラシー。面白くなくて店を出て帰ろうとしてると、後ろからニットが駆けてきた。
「私は仕事、大丈夫、あなた問題無い」
そのままタクシーに乗せられ行き先をドライバーに告げると「あとで」と言い残しドアを閉めた。
私もさっきの接客されてたおじさんと同じだったじゃないか。それがニットの仕事。わかってるのに割り切れないジェラシー。同郷の出稼ぎに来てる仲間たちとの時間も相成り、右から左にサッと片付けるという様な軽い判断の出来ない何かが私の中で芽生えてた。
今、呑んだ頭で考えるべきではない、答えを求めてはならない、私はいち旅行者。
マンションについてドライバーにチップを渡す。
ガードマンがどうぞと、
エレベーターにはついてこなかった。
部屋に入ってベッドに横になった。
朝、目が覚めるとニットは横で寝てた。私の起きた気配を感じたのか、目を開けニコッとし、また目を閉じた。
私もまた目を閉じた。
次に目が覚めた時はニットはベッドにはいなくて、
時計は11時近くだった。
ドアが開き、話し声と共に誰かと一緒だった。男、優しそうな笑顔で挨拶され私も「サワディカ」
ニットが男を
「my big brother!」
お兄さん?そういえば目元が似てるような。
ニットが片言の英語で
「兄が出稼ぎに来た、少しここに一緒に居る、大丈夫」
すんなり理解できたので、
お兄さんに
手を伸ばして握手をした。
続けてニットは
「イサーンには私のファミリーが12人居る。私が仕事してみんなを養ってるの。あなたがひとり増えても問題ない。あなたは居て大丈夫。兄の仕事はすぐに見つかるから、わかった?」
「わかったよ、ありがとう」
お兄さんが来てから
ニットが仕事に行った後
しばらくすると
ドアのインターホンがなる。開けると、下の食堂から料理が配達される。
これがまた美味い。
そのあとは、
お兄さんと語学。
英語からタイ語への勉強をバルコニーで。
ニットにタイ語の手紙を書いたり。
「君はイサーンの花」みたいな内容だった。
お兄さんが私に気遣いしてるのがわかる。
寝るのも床で寝てる。
申し訳ない気持ちになった。
ニットはいつも普通の事だから気にしないでと。
1週間を過ぎて来ると、私の日本でのスケジュールもあり、フライトのリコンファームをしなくてはいけない。すっかり仲良くなったお兄さんのタイ語指導のもと、ニットへの手紙を書き(これも今考えると面白いシチュエーションだった)私が帰国した後に渡して下さいと頼んだ。お兄さんは大きな笑みで受けてくれた。
帰国当日、ニットはいっさに空港へ、見送りに来てくれた。
「電話してね」とニットはいい「もちろん」
お別れのハグをしてゲートへ。
その後、戻ってちょくちょく電話して元気な声を聞く。微笑みの国の魔法は効いている。
日本でのやる事が徐々に時の経過の中で占めていくと、overseas callも間が少しずつ長くなりだし、魔法はキャンディのようにとけていった。

数々の思い出が脳裏、曇り空の空港通りをカオサンへ行くタクシーの窓に重なって流れていく。
人との出会いによって
人生は味わい深く刻まれていく。
いつも思う事で
共通する事がある。
出逢った人、私の人生と言う一本の線と交差した人、その線が交差する角度はそれぞれで直角の人、似たような角度、平行するように交わる人も、全く同じ線をなぞるように行くなんてのは奇跡的、ミラクル。交差した角度が平行に近くても、時間の経過と共に少しずつ広がっていく。それはおかしい事ではない。それぞれがアイデンティティを持つ人だから。その広がりを縮め、絡める事も大いにできる。お互いが思いやる、愛と言う磁力で、引き寄せる事ができるから。これに異性同性問わない。私は間違いや失敗を多く経験した。それが今の私に大いなる肥やしとなったから、今がある。
まるで巡礼するかのように人生を歩んでる。穏やかで晴れやかな気持ちで。得た教訓を活かしながらね。
そう、いつも思う事は、出逢った人達には元気で幸せで居て貰いたいと願ってる、心より。

タクシーがカオサンに着いた。
バックパックを背負い
雨で濡れた、ひとけの少ない通りに降りて歩き出す。
ついさっき眠りについたように、朝のカオサンは静か。記憶を辿る巡礼。適りを横の路地に曲がる。全部シャッターが閉まっている。そのシャッターには、どれも見事なグラフティが描かれている。この光景は寝静まった今しか見れない貴重な光景。そう思うと、なんだかカオサンが「久しぶりだなお帰り」と迎えてくれたような気がして、嬉しくてこみあげて来るものがあった。
更に路地を進むと、道路の向こうにある市場の方へ出た。市場は少しずつ人が動きだしてる。その先の寺院を曲がると欧米人御用達のカオサンにしてはハイソなRAMBUTTRI village Plaza Hotel
テラスで朝食をとってる人を見るとお腹が空いてきた。ひとまず、荷物を置きに行こう。メインストリートに戻り、また別のソイ、横の路地に入る。変わってない。着いたのは、そう「VS」
Hello!と声をかけると
奥から出てきたおばちゃん!
元気そうな顔色でこれまた嬉しくなった。
おばちゃんに「私の予定は今日の深夜、空港に行くので1日、部屋を借りれるかい?」
「オッケー」
二階の部屋を用意してくれた。階段を上がって、ドアの鍵、開けた時の部屋の年季、扇風機、これこれこれ、変わらない。荷物を置く。時計は8時前。鍵をかけて市場の方へ行くとさっきよりも、人が増え、道には野菜やフルーツなどをテーブルに広げて、始まっていってる。カチャカチャと鍋とトングがぶつかる音とともに匂いを嗅ぎつけた。その匂いにつられて行くと、四角いアルミのバットの上に湯気の立つ鶏のカレー炒め。野菜の炒め物、魚料理、どれも美味しそう。のり弁のように、あらかじめ幾つか作った弁当はあるが、それはメインのオカズとチョイ副菜。私はおばちゃんに、目の前にある、おそらくおばちゃんの休憩用の椅子を指差して「今からここで食べる」と告げ、ご飯をよそおう皿を奥から持ってきて貰い、タイ米をついでもらう「もっともっともっと、で、このカレー、野菜炒め、魚料理も、これもあれも、ヨシ!オッケー」60バーツ。
椅子に座り、通りを見ながら食べる。また一口、またひと口食べる。目が覚めてきた。食べ終わった時の満腹感ときたら。
「ごちそうさま、コップンカ」と手を合わせると、おばちゃんも手を合わせた。市場周りを、つまみ歩きしながら、花屋さんで綺麗な花を見つけた。見繕って30バーツ。ゲストハウスに戻って、花をおばちゃんにあげたら花瓶に水を入れて飾ってくれた。
次はマッサージ、今朝のグラフティのシャッター通りに行くと開いてるマッサージ店(開けたばかりで今から準備する感じではあったが)に入ってゆっくり2時間頼んだ。足を洗って2階のエアコンばっちりの部屋。ゲストハウスは扇風機だけなので、ここで仮眠も兼ねた。心地よさにしっかりと沈んだ。起こされた時には11時をまわってた。マッサージを出ると、フルーツを買い、食べながら寺院へ。ワットプラケオ。金色のパゴダ。香の匂いがトリートメントする。帰っできましたよニャムニャム。外に出ると晴れ間が見えだした。通りにも旅行者が増えてる。気になる路面店に入って見たり、横丁で香草たっぷりの汁麺をズルズルと。また、うろちょろする。雨がパラついて来たので、一旦ゲストハウスで休憩。雨があがった3時過ぎ、うろちょろ再開。早朝から徘徊してる自分に笑いがでる。ここアジア、バンコクで時差をある程度調整して日本に寄せて行くのがベストなのも確か。その為にもこの流れで良いのだ。人通りも増え、カオサンの雰囲気が徐々に戻ってる。ビール LEOの瓶を開ける。飲みながら歩いてると、閉まってた店にも灯りがつきだし、ほろ酔いなってきたのでメインストリートのレストランバーに入って、通りを眺めながら飲んでると、サソリの串を売る行商が「どうだい、つまみに?」とこっちのリアクションを楽しんでるように勧めてくる。「じゃ、ひとつ」
「お、あなたわかってるね」みたいなこと言われ、食べると海老と同じ。陽がくれてネオン、電球が生き生きとしだすと、どこからでも、音楽が聞こえてきた。急にひと通りが多くなったような、そうそう今日は土曜日の夜だ。
2本、3本、4本目になると、かなり良い酔い調子。また徘徊する事に。横丁のアーティストショップに行って、絵や作品を見たり、本屋に行って立ち読みしたり。物珍しいものは無いかとあっち行きこっち行き。かっこいいショップもたくさんあって気がつくと11時を過ぎてた。ぼちぼち戻って出発準備だね。喧騒の中を通り、ゲストハウスに戻ると、ガー(おばちゃん)が居た。
またビールを1本冷蔵庫から取り出し、昔、ここに来てた事を話し、ガーと仲良しだった先輩の写真を見せると「わかる!わかる!」と覚えてたので嬉しかった。2階のテラスでビールを飲み干して見渡してると、ふと、鏡の横に貼ってあるステッカーに目が止まった。
バビロン食堂 。
先輩のだ。このバビロン食堂と言うネーミングは、以前勤めてた某メガバンクの社食の所長時代に、思いついたもので、銀行イコール、バビロン。そこの食堂だったので、バビロン食堂。それを、間借りでスパイスカレーを始めようとしてた先輩が気に入ってくれて「そのネーミング良かね、使って良かね?」とヒットしてくれたので、「もちろんどうぞ!光栄ですよ」と。
先輩は毎年、バンコクに来てはココに寄ると話されてた。バンコクの青春がここにあると話されてたのを忘れない。見つけましたよ。巡礼してるんだなと。御朱印を記したような気分です。
部屋に戻り荷物のチェックをして、忘れ物なし、アップデートした私のカオサンはここに。バックパックを持つと下に行き、ガーにお礼をして、ハグしてさVSをあとにした。通りは大いに賑わってる。時計は定刻通り、12時を過ぎたとこ。タクシーを拾って乗る「スワンナプームエアポート」
あくびが出て、順調順調。
なかなかのチカラ技ではあったが、体内時計も日本に寄っていってる。
空港に着いて、チェックインカウンター、窓側をお願いし搭乗口ロビーへ。少し待つと、搭乗時刻になり、ボーディングブリッジがオープン。後ろの方の窓側、ありがたい。シートベルトを締めて、ようやく寝れる。誰かの肩にもたれて涎を垂れる事なく。
夜中の滑走路を見ながら
「また来るよ、魔法よとけないで」と寝言のように。

コップンカ🙏✨✨✨✨

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