【133】土日、なにそれおいしいの? 曜日感覚に流されない週7日労働のススメ

目下授業も学会も何もなく、日用品の買い物もほぼ全て通販にしたので、曜日感覚というものは消滅しています。今ほどではないとはいえ、昔から(大学院に入ってから)割と曜日感覚は薄くなっています。

人文科学は、建前としては「共同作業」が必要ですし、もちろん研究は歴史的なものであるからには、広義の人的交流は必要です。しかし、実験をやるために複数人で集まったり、コンスタントに集まって議論をしたり、といったプロセスをとらないことが多いので、授業も持っていないからには、曜日を合わせて人と会うということも多くなく、放置されると院生の曜日感覚はなくなります。

私の場合は、フランスに住んでいるということもあってか、日本国内の連休などというものについてはとうぜん認識がついてゆきませんし、たまに友人と話して気づく、ということばかりです。

いや、それどころか、私はフランスの祝日というものさえ忘れがちです。去年もおととしも、何度も(ときにカトリックの祝日に由来する)国民の祝日に図書館に足を向けたり、あるいは外食しようと思い立って足を向けた先で、全て閉まっているのを見て、休日だったと気付くということがよくありました。 

日本では、休日だろうが日曜だろうが店は開いていることが多いかもしれませんが、フランスで日曜日に開いている店は、極めて限定的です。町のケバブ屋や、ごく一部の個人商店が(午前中のみ)開いているばかりで、一般的な商店やレストランは日曜日にはほぼ全て閉まります。コンスタントに開いているのは美術館くらいのものでしょう。国民の休日(最近あったものだと革命記念日)になると、空いている施設はほぼゼロだと言っても過言ではありません。都市によっては路面電車や地下鉄も運休です。

ともかく、休日であることを全く忘却して、外に出てしばらく歩き回ってからやっと気づくということがしばしばあります。休日どころか土日もわからなくなっており、何か急に買いたくなってスーパーに足を向けてから、日曜であったことに気づくこともしばしばです。


私は曜日感覚もなければ、いつが休日かということもよく分からない生活をおくっていますが、これには明確な原因があります。

毎日同じことばかりやっている、というのがその原因です。具体的には、本を読んで、文章を書いて、そのほか、精神的な財物を積んでいます。この作業には土曜も日曜もありません。特に私は独居ですし、大学が休みで、図書館にも事実上いくことができない以上、いっそう曜日感覚はなくなります。

これはもちろん、(幸福にも)現代社会から一歩外れたような地位を持っていることに無関係ではありませんが、こうした生活のありかたが存在するということを知っておくことで、考えようによっては、正しく社会に自らを組み込んで、曜日感覚に基づいて仕事や自分の生活をされている方にも、少しは資する部分があるのではないかと思われます。


先程、私の曜日感覚が希薄であることの原因に言及しましたが、一度発想を変えてみるということが必要かもしれません。つまり、「なぜあなたは曜日に基づいて動いているのですか」と問うてみるのが重要だということです。疑問は多くの場合に批判を含みますが、この場で振り出したいのは純粋な疑問です。

答えはだいたい決まっています。大雑把に言えば「周りの多くの人がそうしているから」ですし、人との関わりにおいて生きるほかない以上、そうしておくことは全く正当なことですし、合理的です。人は規則や法がなければ健全に動けないところ、既に広まっているものを受け入れて行動するのは当然のことでしょう。毎週○曜日×時から、というかたちで予定を立てておけば、その都度予定を調整する必要もなくなり、ぐっとラクになるという面もあるはずです。

そうして働いていたり、週の決まった曜日に授業を受けていたりする人は、概ね土日ないしは決められた曜日には働かない(授業を受けない)、というシステムを受け入れていると思われます。

ごく簡単に言えば、週5日活動して、土日は休むというシステムを採用しているということです。


別にこれはよい。全く問題ありません。週5日働いて週2日休む。よいと思います。しかし、これをどこまで・どのような意味で受け入れる必要があるのか、ということは問うてみてもよいでしょう。

勘違いしないでほしいのは、さしあたって「休みを増やしてフリーダム♡」という方向に議論を進めたいわけではない、ということです。

個人的な気持ちとしては、週休7日にしたいというわけではなく、寧ろ週7日労働にしたい、ということです。勤め先に7日間奉仕せよというわけでも、ブラック企業を応援したいわけでもありません。個人にとって有益と思われることに、できれば7日ぶちこみたいし、休んだり無為なものにぶちこむのであっても、戦略的にそうしたいということです。

私個人としては、土日に休むという選択肢はあまりないのですね。毎日だって読んでいたい、というのは不正確な言い方ですが、読まざるをえない。読んでいないと気持ち悪い。

週5日やっていることがよほど嫌いだと言うのであれば、そもそもその週5日を「よほど嫌い」なことに当てるほうが間違っていると思いますし、せめて残り2日はよりマシなことに割り当てるか、「週5日」のほうを自分で納得のいくものに変更していくべきでしょう。

週5日やっていることが好きか、あるいは好きではなくても価値があると思ってやれているのであれば、残りの週2日もその価値のあることに当てられるとよい、と思われるのです。

そうしたほうが、物質的・精神的には確実に豊かになってゆくでしょう(誰の目にも明らかではないでしょうか)。


なるほど、毎日毎日集中しつづけるのは大変で非効率的だから週2日休む、というのだとしても、つまりごく健全に曜日感覚を持って生きるのも悪くはないでしょう。

しかしそうした場合も含めて、「休み」というものに対してはある種意識を持って支配していくことが必要になる(そうしたほうがよい)、というのもまた一面の真実であるように思われるのです。休みというものに対しても、ある種の計画性を持っておいたほうがよいということです。


いずれにしても、休みにはだらだら休まずに広義の予定を詰めたほうがよいということで、予定を入れるということは半ば労働になるわけですから、極端に言えば週休0日になるわけですし、以って週7日労働がいいと言っているわけです。


なんでこんなことを言うかと言えば、休みの日にダラダラ休むと、大いに精神が毀損されるからです。

皆さんに覚えがあるかどうかはわかりませんが、次のような光景は、きっと珍しくないでしょう。

——仕事・学校終わりの金曜に夜遅くまで飲んで、土曜は昼頃に起きだしてダラダラと過ごす。てきとうに食事を済ませる。YouTubeやゲームやまとめサイト閲覧など、はっきり申し上げて無駄なことに時間を大量に投下する。夜ふかしをする。夜が明ける。昼に起きる。また同じように1日を過ごす。起きるともう月曜である。無為に過ごしてしまったという打ちのめされたような憂鬱とともに、月曜にまた出勤(登校)する。……

多分、副業に邁進するとか勉強に勤しむとかまで行かなくても、無為に休むよりは、土日に友人と待ち合わせて出かけるとか、ひとりでいるにしても決まった趣味に勤しむとかするほうが、よほどよいように思われるのですね。

「曜日感覚」にだらだらしたがって、休み=何もしない、ということだと構えてだらだら休みの日を過ごすと、単なる後悔が待っているというわけです。もともと好きか嫌いかどうかわからない仕事や学業に対しても、気持ちが盛り下がっていくということです。

曲りなりにも予定をいれていれば、被害は最小限に食い止められるでしょう。少しは元気になってくるかもしれません。元気になってくれば、入れることもできる予定の質もずいぶん変わってくるでしょう。


もちろん、こんな発想、休日にまで精神的統御を行き渡らせようとする発想に、抵抗を示される方もあるでしょう。

なるほど、仕事が嫌で嫌でたまらないなりに、手を抜きながら生きていける社会というもののほうが良いのかもしれませんし、どんな怠け者でも最低限生きていけるほうがよい、と考える人もいるでしょう。もちろんそうした考えには一理も二理もありますし、正面から反対したいわけでありません。何より、どうなってしまっても尊厳を持って生きてはいける、ということはとても大切なことです。人間がみな自分なりの目標を持ってより(特に経済的に)高いところへと成長していく野望を持って頑張っていくべきだ、とは全く思いません。

それは性格の問題ですし、そうした人たちにまで、前向きに進歩していくために有意義なことをしろ、と言う気はありません。それは選択の問題・性格の問題であって、何も人生前向きに頑張ろうという人ばかりの世界はかえって気持ち悪いので、別によいわけです。

しかし、現実として、日本に限らず世界中はどんどんあらゆる意味で不安定になっています。疫病など抜きにしても、あらゆる意味で不安定になっています。最低限仕事をして、最低限与えられた仕事をして、休みの日にはだらけきる、「曜日感覚」を持ってだらけきる、という態度をとっていると、おそらく落ちていくことはあっても、徐々に上がっていくということはないように思われるのです。

であれば、即座に休日にも有意義なことをする、という方向に舵を切るところまではいかずとも、さしあたって、休日に対する自分の精神の支配を取り戻す、ということは、必要であるように思われるのです。


曜日感覚を持つ、というよりは、曜日感覚に流されて生きていては、暗い未来しかないというのが冷静な推測の帰結であるように思われる、ということです。

曜日感覚を捨てろ、と言いたいわけではありませんし、そんなことは全く現実的ではありませんが、少なくとも曜日感覚を受け入れるのであれば、受け入れたうえで休みの日というものに対して、端的に言えば土日というものに対して、何らかの支配を及ぼす必要があるのではないでしょうか。

もちろんそれは、「計画的に休む」という意味での支配であるかもしれませんし、「家族との時間を大切にする」という精神的な戦略かもしれませんし、あるいは「将来にわたって使えそうな能力を涵養する時間にする」という経済的な戦略かもしれませんし、端的に「副業をする」という方策かもしれません。

いずれにせよ、曜日感覚を保ちつつジリ貧を避けて生きたいのであれば、少なくとも休みの日を完全な空白・だらけるに任せる時間にしておいてはいけない、と思われるのです。そうした意味で、「週7日労働」で行こう、ということです。

こうした点を少しは省みるということが、世界中が、とは言わずとも少なくとも日本中が落ち目である今にあって、これ以上落ちたくないと思う人にとっては、必要なことではないでしょうか。

生活水準という意味でも、精神的な豊かさという意味でも、平均値がどんどん落ちている世にあって、こうした「週7日労働」を志向する、現実に逆行するような暑苦しい方針は、「ずば抜けて上を目指したい」人たちがオプションとして積極的に採用すべき方針というよりは、「これ以上下がりたくない」人たちもまた防御的に採用すべきものであるように思われるのです。

暑苦しく生きたいわけではない人であっても、漠然とした危機感を持っている限りは、「曜日感覚に流されず、無為に休まず、『週7日労働』を仮想する」のも悪くないように思われる、ということです。