【122】磨穿鉄硯:硯を穿つ穴から世界を眺める

「磨穿鉄硯(ませんてっけん)」という言葉があります。読んで字のごとく、鉄の硯(すずり)を磨いて穴を穿つ、ということです。

習字や書道にあっては、最近でこそ最初からパックに入った墨汁を用いることもしばしばですが、学校でもおそらく、一度くらいは固形の墨を磨ることがあるのではないでしょうか。昔は液状の墨を保管する術がなかったので、その都度硯で磨っていたわけです。

つまり「磨穿鉄硯」とは、よく勉強する、よく学問に打ち込むことのたとえです。石の硯で墨を磨ることができるのは、石のほうが硬いからですが、さらに硬い(と想定されているのであろう)鉄の硯に穴を開けるほど、よく墨を磨るということです。本当に鉄の硯が存在するかどうかはともかく(多分実用レヴェルでは存在しません)、硬い鉄の硯を穿つほどに墨を磨る作業を繰り返す、それくらいによく勉強するということです。

さきほど調べたところでは、10世紀の中国の文献で用いられた言葉らしいのですが、実に格好いいなと思われるわけです。もちろん、皆さんがそう思われるかどうかは別ですが。


自分がめちゃくちゃに頑張ってきたとか、これ以上ないくらい無心でやれたとか言い張るつもりはありませんし、大学にいて時間が遭ったからこそできたことですが、こと西洋語に関してはそれなりの研鑽を積んできたという自負がありますし、鉄の硯とは言わぬまでも、おそらくは一般的な石の硯には穴を穿つことができたような気持ちはあります。

もちろん、磨穿鉄硯とは言っても、鉄の硯を穿つことに成功したなら、あるいは成功することが見通せたのであれば、さらに別の、もっと硬い金剛石の硯を用意してきて新たに墨を磨りはじめることは必要になると思いますし、そうしたプロセスを反復して、自分のレヴェルを上げてゆけるのでしょう。

それはともかく、私は私で一定のレベルの硯にはすでに穴を開けているという自負がありますし、次にどのレヴェルの硯を穿とうかという見通しも、或る程度は持っています。


ここまで勉強してきた経験から語るのはポジショントーク以外の何ものでもないのですが、実に、硯に穿たれた穴からしか、あるいは硯に穴を穿ったけいけんを通さなければ見ることのできない世界もある、ということは強く感じられます。

こと語学について言えば、機械翻訳の技術はどんどん向上していますし、私も(それほど得意でない言語については)機械翻訳に全く頼ることがないというわけではありませんが、やはり手ずから外国語を読むという作業は、機械翻訳を通して読むこととは完全に異なる作業ですし、得られる経験はまったく異質です。

このことは、語学に精神的・時間的リソースを割いていない人からしてみれば、全く理解できないことなのかもしれません。笑う人さえいるでしょう。

しかし私には見えている。硯を自らの手で穿ってきた経験から、ある特殊な世界が見えるようになっている。これは間違いのないことですし、一定程度の水準で語学を勉強してきた人にはお分かりいただけることでしょう。実に言語を一定以上の水準で習得することは、世界を眺めるためのもうひとつの覗き穴を手に入れることです。硯に穿たれた穴を通して見える独特の世界があるということです。

別に語学でなくても良いのです。皆さんは皆さんで、意識的にやってきたかどうかは別にして、専門というものがあるはずです(お勉強っぽくないものでも、「マーケティング」とか「デザイン」とか、そうした専門があるはずです)。その専門を通して世界を見ている。専門に関する知識や経験が一定のレベルを超えていれば、他の人とは異なる仕方で世界を見ている、あるいはそうした視界のオプションを持っている、ということは確実でしょう。

広い意味での勉強にじっくり取り組む中では、自分の物の見方が変わる(増える)ものですし、雑学としてやっているのでなければ確実にそうなるでしょう。 


そうして視点を増やす、あるいはものの見方を変えてゆくためには、楽をしていてはいけないな、と思われるのです。

楽をしていては見えない世界がある。液状の墨を使っていては到達することのできない世界が、固形の墨を磨らねば硯に穴が開くまで勉強しなくては見えない世界があるということです。

もちろん、勉強や仕事の効率は、あくまでも追求しつづけるべきでしょう。

しかし、効率化、効率化と言うと、ラクをすることに即座に結びつける風潮があることは否めないと思われ、この点は致命的な陥穽になりうるのではないかと思われます。

なるほど効率化は、ある意味ではラクをするためのものですが、効率化する過程、効率化を推し進める過程そのものは、極めて知的に負荷のかかる、大変な作業だからです。硯を穿つまでが大切だということです。

効率化をして結局のところラクしたいという人にとっては、まず効率化のプロセス自体が苦しいものなので、ラクしたいということがあまりにも先立ちすぎている人にとってはかなり苦しいことになるのではないかと思われます。

語学だって、自分の手で素早く正確に読めるようになりたいと思ったら、そのための修練にはかなりの負荷がかかるわけです。そうして負荷をかけてきたからこそ、私は今では、もちろん始めた時よりはずいぶん滑らかに、そこまで苦労することなく読めるようになる範囲が広がりましたし、そうしなければ見えない世界がありました。この修練には長い時間を要しましたし、他の人から見れば苦しいとしか思えないであろう作業も多くこなしてきたわけです。

語学をやっている人が皆やっているわけではないかもしれませんが、目についた表現をノートに書き留めてそれを日々暗唱したり、出てきた単語について辞書の項目を入念に読み込んで関連する語彙まで調べてみたり、仏和・仏仏辞典だけでは物足りず仏英辞典や仏独辞典も参照しながら語の使い方について思いをいたしてみたり、といった、ラクではない作業を通してこそ、効率化が進んでいったという事情があります。

ラクに読みたい気持ちの背後には、そもそも知的に負荷をかけるという前提があり、そうしなければ世界の相貌は変わらなかったということです。


では、効率化の努力さえ省いてラクをしたい、ということになると、どうなるのでしょうか。

これは何も思考実験ではなくて、実際にそういうラクをしたい層に訴求しようとする広告が世界に溢れていますよね、ということです。

X日で英語がペラペラになるとかいう謳い文句が流行っていることは否めませんし、スマホをちょっといじるだけで月50万とか、よく知りもしないのに「不労所得」だとか言っている広告は、皆さんも目にしたことがあるかもしれません。

広告があるということは、釣られる人も(儲けが出る程度には)存在するということで、本当に驚かされてしまいます。

そういうものに釣られる人がいてもいいとは思いますし、それで回っているのがある意味では現代的な資本主義だとは思いますが、実にもったいないなと思うのですね。

最初からラクをするという前提を持ち込んで、まあ小手先の技術は手に入るかもしれません。日常的な買い物に足りる英会話くらいなら、口をついて出るようになるかもしれません。実際に月50万、スマホ片手に儲けられるかもしれません。その可能性も私は極めて薄いと思っていますが、そういう表面的な成功はあるかもしれません。

けれども、ラクをして、あるいは何も努力をせず、対象に意識を傾けない場合、小手先の技術以上のものが身につくのかよ、と疑われるのです。


あくまでも私は、ということですが、そんな小手先の技術にはあまり意味を感じないのですね。

結局のところは、自分で自分(の現状)をどう認識しているかということが大事ですから、人による、ということは確認しておいたうえでの主張ですが、

適当に手を抜いて身につけた技術や、そうした技術で手繰り寄せた小金を見ても、なんらか嬉しい気持ちになるわけがないと思いますし、結局のところそうした小手先の技術というものは、トータルではあまり大きな価値をもたらさないだろう、と思われるのです。

もちろん、くどいようですが、これは信念の問題ですから、皆さんがどう思われても良い。しかし少なくとも最初からラクをする、手を抜く、という選択肢は、私にはないということです。

ラクをしていては世界が増えないからです。墨汁を使っていては見えないものがあるからです。墨を磨らなければ、硯に穴を穿つことができないからです。

語学であれば、なんとなくテキトーに読んでいては達することのできない境地というものがあります。翻訳に目を通して「だいたいこういう意味か」と簡単に納得していては見えない世界があります。「翻訳機でいいか」では辿り着けない世界があります。

もちろん、万人が語学に打ち込むべき、ということでは決してありません。各人が各人の精神的時間的リソースの割きどころというものを見つける必要がありますし、その対象が語学でなくてはならないとは全く思いません。

しかし、語学に取り組む機会を捨てるということは、語学を通さなければ見えるはずのなかった世界を見る機会をみすみす捨てるということです。もちろん、語学を選択するということは、他の機会に割くリソースを捨てるということですから、他の世界の味方を捨てているという意識は必要になるでしょうし、私はある段階でその覚悟はしました。

あるいは先ほどからチラチラと見ている、金儲けもそうです繰り返しているとおり結局のところ自己認識というのが大事ですから「スマホをちょっといじるだけで月50万円儲かりました!」で嬉しい人は、それはそれで良いと思います。

とはいえ、楽して月50万円の収入が入って、自分の能力も自分の世界の見え方も何も進歩していないのに月50万円入って、本当に嬉しいのかという疑いはあるのです(繰り返しますが、そういう疑いを持たないことはまったく悪いことではありませんから、どうぞご自由に——疑いというものはもちろん、語の正確な意味において人間が「自由に」抱きうるものではありませんが)。

寧ろ着実に頑張るほうが、セルフイメージというものは高まるように思われます。小手先の技術を身に着けてもなんら世界の認識のあり方は変わらないでしょうし、再現性や変化への対応といった観点からすれば、得策ではないでしょう。

どうせ身に着けるのであれば、周辺の状況が変わっても用いつづけることのできる揺るがない能力をこそ身に着けたいものです。そしてそれは、とりもなおさず穿たれた硯の穴から世界を見る力であって、少なくともある程度は地道に墨を磨らねば身につかないものであるように思われるのです。


ある意味では普遍的な能力を底上げすることでしか見えない世界があるのではないか、と私は思っているのですし、その底上げの作業にはどうしたって時間がかかる、と思っているのです。

もちろん、こんな見方は決して流行りません。ラクして儲けたい人ばかりでしょうし、現状が苦しいという人からしてみれば、耐え忍んで勉強しろなどというのは、非現実的な、悪しき理想主義に見えるかもしれません。人を騙してでも金を稼ぎたい人からすれば、きっと愚かな根性論に見えるでしょう。人によってはブラック企業的だという人もあるでしょうし、実際言われたこともあります。

しかし、最初からラクをするという選択をしていては見えないものがある、決してたどり着けない世界がある、という点は、どうしても疑うことができない。

墨を磨りつづける覚悟をして初めて、つまり精神的な負荷を惜しまず、時間的なリソースを注ぎ込むことをいとわないと決めて初めて、新たな世界が開ける可能性が芽生えるのではないかと思われるのです。

墨を磨る覚悟のない人に硯を穿つことはできませんし、硯の向こう側を見通すことなどできようはずもない、ということです。

もちろん、文字を書ければよいから墨汁を使うというのでも、硯をぶっ壊せば硯の向こう側を見られるではないか、というのもの、それはそれで良いのです。しかし視界は異なる。砕かれてバラバラになった硯と、摩耗して穴の開いた硯とでは、異なる歴史を、異なるイメージを与えるものです。

墨汁のほうが、もちろんラクです。硯を壊すことはそこまで難しくないでしょう。人間はラクな方向に流されるものですから、墨を磨るよりは、墨汁とか、あるいはインクとかを使うほうがよほどラクで、そちらに流されるというわけです。それに、全てにつけて硯を穿つまで墨を磨りつづけることなどできません。

しかし私は、然るべき場面においては墨を磨る努力を惜しみたくないし、そうして硯を穿ちたい。そういう地味な努力を続けていきたいものです。そうして見える新たな世界というものに、常に期待しているからです。


繰り返しますが、皆さんがどう思われるかは、別にどうでも良いことです。地味な努力は流行りませんし、そんなことはわかっています。

しかし、そうした地味なもの、地道な作業の中にこそ眠る何かがあるということに共感される方が、日本の1億を超える人口の中の、10万分の1くらいはいると信じて、こうしたことを書いてみているという次第です。