【137】いつも、いつまでも、手を伸ばしつづける(椎名軽穂『君に届け』から)
椎名軽穂『君に届け』は、リアルタイムで追うことのできた最初期の少女漫画のひとつです。作画の美麗さも手伝って、またアニメ版の主演声優が独特の美しい声を持つ能登麻美子である、ということも手伝って、話の筋書きが倫理的に尊いものであるかどうかは全く別の問題であるにせよ、私にとっては特権的な作品です。
タイトルが示す通り、或る種の気持ちが「届け(そして受け入れられよ)」、という願いを、少なくとも部分的には前提においた少女漫画です。もちろん少女漫画のセオリーに則って、恋愛がかなり大きなパートを占めますし、したがって「届け」と願われる気持ちには、恋心が含まれます。それゆえ、(私からすれば)不可解な規範的言説に満ちあふれている面もありますが、ホメロスやウェルギリウスを読むような気持ちで読めばそれなりに面白いものです。
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読んでいる中で、私の周囲でも幾度か粗雑な冗談のネタになったのが、第10巻episode 40においてメインの登場人物ふたりが規範通りの恋愛関係を形成し、「やっと届いた」と言っている、つまり「君に届」いたにも拘らず、その後20巻に渡って刊行が続いたということです。
おわかりですね。「もう届いたじゃん」という、冗談めかした評が各所で聞こえたわけです。
そう言っていた人々も、読んでいたからには、何らか魅力を感じていたのであり、あるいはタイトルが内容を実のところ裏切っていないということを直感していたのでしょう。
タイトルに重みはない、著者はそこまで考えていなかった、という見解はそれ自体としてはアリです。特に連載作品だと、当初の意図とは異なる仕方で物語が展開することもあるためです。
しかし、一度固定化されたタイトルは、作品のあらゆる細部と同様に、著者の意図とは無関係にテクストを構築します。タイトルが著者の執筆方針を逆に縛ることもあるでしょう。あるいはもっと根源的な事情を見るなら、あらゆるセリフ・コマ割・長さが、著者の想定した通りのものであったとしても、作られたテクストが孕む意味は著者の意図を超える(あるいは裏切る)ものであり、だからこそ読む価値があるからです。
翻ってこの『君に届け』ですが、メインの恋愛関係が構築されても、もちろん、届いてはいないのですね。あるいは、さらに「届ける」べきものがあるのですね。ひとつ気持ちが届けば別の気持ちが生まれるものです。
もちろん、所謂恋愛関係が成立した後にも、関係が進むことはあり、また障害にぶつかることはあり、その際には気持ちが届かずにヤキモキするということがあるでしょう。「届け」という願いは健在です。
「やっと届いた」と言われたあとにも、乗り越えるべき障害やすれ違いは幾度とも到来するのです。
また、メインヒロインである黒沼爽子と風早翔太の関係のみが問題になるわけではなく、そこには新たな人物の「届け」という願いが幾度も反復されうるものです。
『君に届け』を爽子を主人公としたビルドゥングスロマンとして読むなら、はじめ周囲との交流が全体的に薄かった爽子は、同性・異性問わず少しずつ交友関係を広げていって、第10巻では(古典的少女漫画の筋書きにおける一つのメルクマールとしての)男女交際をスタートさせるわけですね。
男女交際を行うことが成熟の証である、という素朴な図式は、もちろん受け入れられません。何よりも主要キャラクタのひとりである矢野あやねが、異性との交友を繰り返すにも拘らず一定以上の屈託を抱えつづけ、これこそが終盤のひとつの大きな課題になる、という作品内の事実に鑑みて、テクストはそうした素朴さを拒絶しています。
とはいえ爽子は、或る種健全に人間関係を拡張・深化させてゆくなかで、謂わば自然な成長の中に男女交際を組み込んでゆく、というなりゆきです。
こうして余裕のでてきた——というよりも、余裕を持っていることが明らかになった——爽子は、当然、周りに構うゆとりがでてくるわけです。友人もいて、高校の外に恋人もいて、一見オトナであるようにも見える矢野あやねに、当初とは逆向きに配慮する余裕ができてくる、というわけです。
友人なりの同情もあるでしょう。同情とはcom-passio、ともに-被る(受ける)ことですから、ともに苦しんで、ともに望み、ともに祈るようになったということです。友の思いについても、「届け」と願うわけです。
最終巻は絵に描いたような大団円で、主人公たちは卒業し、爽子は離れた土地で一人暮らしを初めますが、同じタイミングで一人暮らしを始める恋人の引越しの手伝いの後、ようやく一夜をともにします。いろいろと展開の早い昨今の(?)少女漫画としては珍しいくらいのスローペースで進んだ本作は、こうして主人公たちがそれぞれの進路に就いたところで終わりとなります。
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関係が続いていくのであれば、常に不足があり、常に「届け」と祈ることになるのでしょう。その意味で『君に届け』というタイトルは、永遠に叶わない、叶ったと思ったら逃れ去る、蜃気楼のようなものです。
だからこそ、最終話では「私はあなたに届きたい いつも いつまでも」と言われるのです。爽子にとり、当初から(尊敬という意味での)憧れの対象であった、クラスの明るい風早くんは、関係が変わっても変わらず「届きたい」相手です。
「いつまでも届かない」という負の側面ではなく、届いたと思ったらはもっと「届く」べき場所がある、という、永遠の運動としての側面ばかりが際立ちます。
寧ろ、「届け」と祈らなくなったら、或る種の素朴な情緒的な関係は既に失われている、とさえ言えるかもしれません。
抽象化して言うのであれば、人間関係は或る意味で、権利上は無限だ、ということです。きりがない、ということもできるかもしれません。
いや、寧ろ、無限である点にこそ深い価値がある、と言ってもよいかもしれません。「届け」と願って、届くようにあがいて、届かんとしたときにはまた離れている。だからまた「届け」と願って、あがく。こうした無限のプロセスがある。……
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とはいえ、権利上のことと、事実上のことは分けて考えねばなりません。
仕事上の相手とか、さほど親しくない友人とかであれば、もちろん関係は有限なものに留めることができますし、そうすべき面もあるかもしれません。夫婦や親子の関係もまた、法的関係を抜きに考えることができないものであるからには、或る種の積極的な諦めなしには勧められないでしょう。
現実的には、恋人同士の関係もまた、有限です。流通している恋愛のコードと、その他の「現実的」な社会規範を逃れつづけることは、多くの恋人たちにとっては思いもよらぬ可能性なので、広義の法の範囲でしか欲することも求めることもできないということです。だからこそ恋愛のハッピーエンドは、更に強い法的拘束(≒結婚)か、あるいは関係の解消のみなのです(死・心中さえも或る種のハッピーエンドと考える向きもありうるでしょう)。
或る種のフィクションは理想化された形式のみを(権利上の問題のみを)開示するもので、あるいはそうして理想に殉ずる可能性を持っており、『君に届け』の機能ないし美点はその点にある、と言ったら言い過ぎでしょうか。
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先立って申しあげた通り、こうした見方はいささか抽象論めいているかもしれませんが、抽象論にかこつけて文脈を拡張するなら、私たちは一般に、本来無限に求めつづけうるところ、何らか現実的な制約によって思考と欲求を狭めている、ということがないでしょうか。
別に人間関係でなくてもよいのです。職業上の希望でも、キャリアに関することでもなんでも、「現実的でないから」と思って「届け」と願うことを放棄してしまった、あるいはそうした気持ちを封殺してしまったものはないでしょうか。
さらに問うべきは、本当にその判断が、「届け」と願う範囲を限定すべくときに無意識になされている判断が、「現実的」だったのか、ということです。
もちろん、本当に非現実的な願いというものはあります。「犬になりたい」という願いは松浦理英子の小説で叶えてもらうほかありませんし、「虎になりたい」なら中島敦です。あるいは、目でピーナッツを噛めるようになりたいとか、鼻からスパゲッティを食べられるようになりたいというのはドラえもん案件ですし、どうあがいたって無理なことです(ドラえもんもまたこのふたつを叶えることはありませんでした)。つまりこうした願いは「現実的」ではないでしょう。
しかし多くのことは、少なくとも(時間や労力をかければ)実現可能だという意味できわめて「現実的」ですし、そうして届いたところからこそ、さらに新しいものに「届け」と願い、あがいてゆけるはずです。
それに、「届け」という気持ちさえ持たずに、一定の範囲で満足していては(あるいはときに、不満を抱えながらも諦めていては)、その「一定」以上のレヴェルに達することができないばかりか、周囲の流れに押されて、先細りになってゆくはずです。
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こう書いていると、昔授業を持っていた高校生の顔が思い出されます。勉強をやる気はあるのに、時間も十分にあるのに、自分で勝手に制約条件を課して、手頃なレヴェルの大学に照準をあわせようとしていた生徒たち。
……もちろん、所謂「偏差値の高い」大学があらゆる意味で良い大学(ないし良い進路)だとは思いませんが、「東大かハーヴァードとか行きたくないの? 実業方面に進みたいのだとしてもいい選択だと思うけど」とたずねても、「無理っすよ」と苦笑いをされるばかりでした。
東大は受かるだけなら大したことではありませんし、外国の大学だって、能力よりは手続き面でのノウハウが足りなくてなかなか受験しづらいだけです。
別に志望を東大とかハーヴァードとかにする必要はないのですが、少なくとも自分から見て高いところに届こうと思って努力してみなければ、さらに高みへとのぼってゆくことは決してかなわないでしょう。人生を良くしよう、という気持ちは、人間関係における欲望と同じく本来は無限ですし、良さは多様であり無限です。若き日のフローベールが『スマール』で言及するように、欲望は無限です。
……もちろん、そうは言っても、本人が「現実的」だと思っている範囲を飛び出ていくのは、なかなか難しいのですね。無理にすすめると、結構な軋轢もありえます。私としても、保護者や生徒本人にその意図がないなら、無理に高い目線をもたせることはありません。面倒ですし。目線を低く持たせようとはしませんが。
とはいえ、そうした生徒がいると、「もったいないなぁ」といつも思われたものです。
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翻って皆さんは、無限に展開されるはずの夢や目標や計画や願いについて、「現実的」な、しかし実のところ大した根拠のない、ときに「そこそこいい」現状を追認するためだけの、限定を課してしまってはいませんか。
もちろん独力で気づくのは難しいのかもしれませんが、一度は振り返ってみてもよいように思われるのです。