【141】サラサラとした関係を作るために(荘子に関するよくある誤読を介して)
留学経験者であるからには、オンライン飲み会もオンライン読書会も昔からずっとやっていたわけで、いささかの「ノウハウ」がありますが、それでもビデオ通話で友人と喋っていると、ダラダラしゃべりかねない、という非常に大きな欠点があります。
ビデオ通話に限らず、(最近ではその機会はなかなかありませんが)顔と顔をあわせて友人と居酒屋などで喋っていても、ダラダラと時間を浪費してしまうことはあったはずですが、いつ寝落ちしてもよい、いつ切ってもよいと思うと、かえって辞め時を見失いかねません。
皆さんにも、オンライン・オフライン問わず、そうした経験はあるのではないでしょうか。
私も人並み(以上)には経験してきて、結局友人とダラダラと長く一緒に過ごした後には、楽しかったと思いかえす余裕はあまりなく、鈍重な疲労と倦怠感が残るものです。寧ろ、サクッと別れる方が色々と良い気持ちになることができる、とい経験則があります。
あくまでも個人的なことですが、夜に食事をともにして、二軒目で酒を飲んで、というのも、もちろん悪くはないにせよ、食事をとってサッと別れるほうが、1日のハリを保ちやすく、また建設的な感じがするものです。
■
なので、原則としてはサクッと別れるようにしていますが、「サクッと別れよう」と思っているだけでは、なかなか別れられないので、「君子の交わりは淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴のごとし」という荘子の言葉を勝手に思い返します。
もちろんこの言葉は、本来「ベタベタした関係でなくてサラッとした関係のほうがいい」ということを、直接的にはまったく意味しません。ビジネスに役立つ名言を紹介する人などは、こうした内容が即座に読み取りうるものであるかのように語ることがありますが、誤りです。
直前の箇所と対照すれば明らかな通り、「甘い」ということは利害関係による結びつきを、「淡い」ということは利害関係なしに天命によって結びついていることを示しています。利害でズブズブになった関係はすぐにほどかれるが、そうでない関係は長続きする、ということが言われているのです。
長い時間を(ダラダラ)過ごすことが否定されているわけでもなければ、その都度サクっと別れることが肯定されているわけでもありません。「醴」の甘さは、関係がベタベタしているということではありませんし、「水」の淡さは、関係がサラサラしているということではありません。
とはいえ、こうした認識をはっきり持ったうえで、強いて「誤読」ないしは強すぎる読み込みを行うのは、とりわけ個人の水準においては、必ずしも時宜を得ないことではないでしょう。
誤読などできるだけ行わないほうがよく、誤読を正しいものであるかのように喧伝するのは知に対する犯罪ですが、誤読だということを——私のように、というとおこがましい面もありますが——はっきり理解・説明し、そのうえで(特に個人的に)行うのであれば、イメージのフックとしての誤読が完全にダメということはないでしょう。
(なお、「創造的誤読」というのは、誤読をする側が言い訳に使う言葉であってはならない文言だ、と考えています。誤読であれ、過ちの少ない読解であれ、創造的であるか否かは外部の判断にのみ委ねるのが、解釈者の誠実というものです。)
■
以下、こうした「誤読」ないしは「読み込み」に寄りかかりつつ見ることにしますと、
話に入っていく時にもサクっと本題に入ってていくのが良いと思われますし、別れる時にもサクッと名残惜しいくらいのタイミングで別れるとよいと思われるのですね。
もちろん、時候の挨拶や導入の類はときに必要ですし、別れるにしても話を突然ぶった切るのは良くないかもしれませんが、何につけても、無駄にベタベタするのはよろしくない。
これは会社での会議であれ、友人との会話であれ、あるいは少し特別な人との会食であっても、そうだ、というのが私の考えです。
仕事の会議なんかは、会議をやればやっただけ何かを成し遂げた感じが出てきてしまいますから、ダラダラしてしまいがちだというのもよくわかります。友人と一緒にいるのはもちろん快いものですから、ダラダラしてしまいがちです。別れるにしても名残惜しい、ということはあるでしょう。ちょっと特別な人——世間では恋人とか夫婦とかそういった相手になるのかもしれませんが——とはなるべく一緒にいたい、と思うことが多いかもしれませんし、ダラダラと過ごしてしまうというのはそれはそれで甘美なものです。
それはよくわかります。
とはいえ、どういった局面においても、終わる時間を決めてサクッと別れるということが、経済的合理性を抜きにしても、良いように思われるのですね。
会議で終わりを決めておいた方が良いというのは、経済的合理性から言って当たり前でしょう。終わりを決めておかなければ後ろにダラダラ伸びるのであって、これほど無駄なことはありません。長く時間をとったからといって、良いアイディアが出るというわけではありません。
友人との関係であっても、おしゃべりの時間を無制限に設けるのではなくて、ある時間で区切る。今日はここまでしか喋らない、ということに予め合意を得ておけば、そこまでだらだらと過ごすことにはならないでしょうし、話しきれないことがある、ということが重要であるとも思われます。「今日は話せなかったけれども、今度会う時にはこれを話そう」、などと考えを膨らませることができるわけですし、次に会うときに向けてワクワクしていられることでしょう。
少し特別な間柄にある人間とだって、会う時間というものは最初から区切っておいた方が良いことが多いように思われるのです。時間が限られているからこそその時間に懸命になろうと思うのですし、会わない時間があればこそ、ある種の戦略——と言うと抵抗があるかもしれませんが——を立てることができる。次に会う時にどうしようか、という点に力を傾けられるようになるのですし、実際に会ったときの時間をより濃密なものにしてくれることでしょう。
つまりダラダラ喋らずに、サクッと話を区切るという習慣をつけておくと、単なる経済的な意味でも効率化を図ることができるでしょうし、経済的な合理性を超えて、関係を濃密な形で保つことができるようになるのではないかと思われるのです。
■
現在では、関係の構築や維持が、目下の疫病のせいでオンライン主体になっています。
これが幸いなのか不幸なのかはよく分かりません。
オフラインだと、終電があるからなどと言ってさっさと帰ることもできる。他方では、顔の圧というものがあって、なかなかぶった切って帰ることができない、ということもあるでしょう。
オンラインだと、機械によって終わる時間を設定しておいて無理やりにぶった切るというギミックを噛ませることができます。しかし、オンラインだとすぐに家で、自分のペースで食べたり飲んだりすることができるので、際限なくいつまでも続けられてしまうというデメリットもあるでしょう。
要するにどちらに転ぶのであれ(つまり疫病とそれがもたらした「新しい生活様式」がどれくらい続くのであれ)、さっさと区切っていくための精神的な、あるいは外的なギミックを組んで対応する必要があるのです。
■
皆さんもの目下の状況の中で、オンライン上でのコミュニケーションとか、オンライン飲み会というものが増えていて、なかなかそうした状況に対して自分の身をシステム化しきれていない面があるかもしれません。
そしてひょっとしたら、ダラダラと喋り続けてしまうオンライン飲み会などで、時間を無駄にしたとは言わぬまでも、必要のないおしゃべりを続けてしまった、その結果かえって薄っぺらい集まりにしてしまった、ということはないでしょうか。
あるとすれば、少なくとも一度は、始まる時間と終わる時間を明確に定めて、サラっと始め・サラっと終える、という了解を参加者全員が持った会を実施して、その結果自分がどういう心理的状態に置かれるか、ということを試してみてもよいのではないかと思われるのです。
人にもよるはずですが、少なくとも生産性という観点で言えば正解ですし、間違いなくいい精神状態になると思われるのですね。
そして、実際良い効用があることがわかったら、どうしたら会話や会合をサクっと終わらせるができるかということを考えて、そのためのシステム構築を個々人の単位で、あるいは個々人が属する集団の単位で実施していけると良いのではないか、と思われます。