【112】異星人の中で、異星人として生きてゆく
昨日は朝からヨガをやり、ゴリゴリとフランス語を書いていました。
ヨガは本格的に始めて3ヶ月ほどですが、徐々にアーサナ(ポーズ)の難易度が上がってきますし、体の疲れというものはなかなかに深刻です。全身から発熱していたので、割とのんびりしていました。
もっと真面目にやっている人からすれば眉をひそめたくなるような態度かもしれませんが、ヨガはある程度滑稽なのでしばらくは続けます。とはいえ、あまり身体に負担がかかるようなら、どこかでうまい付き合い方を見つけていく必要がありそうです。
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今日は、みんなみんな異星人、という話について。
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同じ言語を母語として、同じ国(街)で育っていても、家庭環境や小さい頃の教育のあり方によって、またある程度歳を重ねてからの生活の在り方によっても、人間の性格やその人が持っている当然の心組というものは大きく異なってくるものです。
もちろんある程度社会において普遍的に妥当するような、あるいは妥当するものであることを目指して作られた(ないし生成された)法律や道徳的観念というものはありますが、それにしたって、空虚なお題目だという人もいるわけですし、あるいはどこまで受け入れるか・個別の場面においてどのように反応するかということは人によって大きく変わってくるものだと思います。
お金に関する見方しかり、労働に関する見方しかり、あるいは勉強に関する態度しかり、私たちは本当にさまざまな様々に異なる態勢を持っていると考えられます。
これはある程度は仕方のないものです。
過去の教育や生育環境にまで遡らずとも、私たちは社会において様々に異なる地位を占めています。つまり育ってきた環境が極めて似通っている(というか、ひょっとしたら殆ど同じ)人間であっても、立場が少し違えばとってくる態度というものは絶対に異なってくるはずでしょう。
兄弟・姉妹のいらっしゃる方であればわかりやすいかもしれませんが、遺伝的に最も近い人間であっても、また生育環境がほとんど共通していても、結局のところ兄妹姉妹というものは「一番近い他人」ですから、寧ろ違いがはっきり見える、ということもあるかもしれません。
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極めて大雑把に言えば、人間と人間のディスコミュニケーションというものには、こうした些細に見える、しかし大きな違いによって生じてくる部分があるのではないかと思われるのです。
使っている言語が同じであっても、あるいは同じ場を共有しているのだとしても、どうしてもあなたとわたしは違う。彼と彼女は全然違うものです。
であれば初めから、コミュニケーションがうまく成立するのは奇跡だと思ってかかったほうが良い、うまく成立しないのがそもそも当然である、とは思われないでしょうか。
極端なことを言うなら、相手がよその星から来たものと思って、話を進めるのがよいということです。
相手がほかの星の出身の人だと思えば、うまくいかない場合でも大して腹は立ちませんし、また安全です。
もちろん、相手の道徳的な 善性を低く見積もろうということではありませんし、相手を全くの異邦人として邪険に扱えということでもありません。より適切なコミュニケーションを成立させるための努力を惜しむべきではありません。
とはいえ、相手が自分とは全く異なる前提を持って、全く異なる環境に生きている存在であるということは、意識しておいて良いように思われるのです。
もちろん身長や体重はそこまで派手に違うということはないでしょうし、喋っている言語も概ね同じかもしれません。それでも、なたと私は違うし、彼と彼女も違う。そういった当然の事情を意識してかかる。
そうすると、不幸にもディスコミュニケーションが生じた場合にも、冷静に反省できて、腹も立てずに済むかもしれません。
何より、初めから地雷があちこちに転がっているということを前提してかかれば、コミュニケーションの安全性は高まるでしょう。
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相手が他の星の人だと思っておくのとはまた別に、自分自身もある文脈においては異常なものに、異星人に反転しうる、という心組を持っておくことも、必要であるように思われます。たとえば黒蜥蜴星に行けば地球人は異星人です。これは逆向きに理解してもよい。あなたも異星人だろうということです。
特に、自分がこれまで関わったことのない業界の人間と喋るときや、世代が離れている人間と喋る時には、自分の一挙手一投足というものが極めて緻密に凝視されて、判断されることがあります。
あるいは自分が特別だと思ってこなかった性質や、言葉遣いや、行動のひとつひとつが、相手の目にはとがったものとして現れるかもしれません。
であれば、単純に「気をつける」だけでは、足りません。仕方のないことです。事故は絶対にありうるものです。意識できないところからやってくる、防ぎようのないものも多い。
であればこそ、事故が起きても修復できることが大切ですし、あるいは予想を超えたかたちで事故が起きうる、ということを予め想定しておくことで、いたずらに精神的ダメージを負わずに済むのではないかと思われるのです。
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どうせ異星人「である」なら、初めから異星人「になる」、あるいは初めから敢えて「私は異星人です」と喧伝しておくのも、ひとつの方針になるでしょう。
すでに成立している自他の状態を追認して話を進めるのは、もちろんよい。しかし、「私はこういう存在者であります」ということを喧伝しておくことで、そもそもお呼びでない方・合わなそうな方にはお帰りいただくことができる、ということです。あるいは合いそうな人にはぱっぱと来ていただける、ということです。
つまり、自分が、また他人が異星人であることを踏まえる場合、現状を追認しながら専守防衛に努めることもありうるにせよ、積極的に差異を作って・見せつけておくという、攻めの姿勢を構想する可能性もあるのではないかということです。
自分から「私は黒蜥蜴星人です」と名乗りを上げておくことで、自分の突飛さをある意味では許容してもらえる、あるいは許容してくれない人間には初めからお帰りいただく、そういう状況を作ることができるように思われるのです。
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抽象化するのであれば、「自分が相手と同じだと思わないでいよう」「自分が相手とどのように違うのかを喧伝しておこう」ということに尽きるのではないかと思います。
自分はある集団の中では異常かもしれないし、相手は自分とは異なる常識を持っている可能性が極めて高い。そう思っておけば、コミュニケーションを安全に進めるための安全になるでしょう。多少のディスコミュニケーションに立ち会っても、いたずらに心を乱されることは少なくなるでしょう。
そうしたある種ディフェンシヴな態度と同様に、異星人としてコミュニケーション行くこともできるのではないかということを申し上げました。
相手の態度や、自分が得る果実というものは、自分と相手との相互関係において決まるものなのです。自分が相手をどう見るか、相手が自分をどう見るかというモメントとともに、自分が自分をどう見せるか、相手が相手自身をどう見せているか、ということが大切になるということです。
であればこそ、自分に都合のいい結果が出るように、自分が気持ちの良いコミュニケーションを行えるように、あらかじめ「自分はこういう人間です」ということを示しておく作業は、いらぬディスコミュニケーションの芽を摘んでおくためにも、コミュニケーションを有利に運ぶためにも、必要になるはずです。
必ずしも相手を煙に巻くということではなくて(そういう面もあるかもしれませんが)、具体的なコミュニケーションに入っていくより先に、相手と誠実な関係を築いていくうえでも重要になってくる発想なのではないかと思われる、ということでした。