【111】細切れ時間は、本当に無駄

人生において絶対に無くしたほうが良い、というものはそれほど多くないように思われます。

どんなことをやるのであれ、なんらか価値を見出すことはできますし、場合によっては、多少苦しくても価値をこじつけることができるでしょう。

ぶらぶら散歩をするのは時間の無駄だと言う人もいれば、適度に散歩をすることで良い考えが頭に浮かぶのだと主張する人もいるでしょう。あの哲学者カントでさえ毎日決まった時間に散歩していたではないか、などと言い張ってみることもできるし、どちらにもそれなりに分がある。

あるいは睡眠を長くとるのであれ短くとるのであれ、どちらにしても理屈をこじつけることはできるわけです。

受験勉強を頑張るなら、それはもちろん大学に入るために良い手段として誇ることができますし、それ以降の学習を良く進めるためにも良い道のりだと認めることができるでしょう。

これに対して、受験勉強なんかせずにずっと遊ぶとか、あるいはもっと直接的な職業訓練を行うことのほうがよっぽどいい人生経験になるのだ、という、逆向きの理由付けも行うことができるでしょう。


しかし、私がどうしても絶対に無くしたほうがよいと思う、どうしても肯定的な理由付けをしづらいと思うものもいくつかあります。

(あくまでも個人的な印象・経験からの言葉なので、どう思っていただいてもよいのですが、私はそう思う、というだけです。そういう前提でお読みいただければと思います。)

そのうちの一つが、細切れになった時間です。

もちろん色々なものが含まれます。例えば役所や銀行での順番待ちや、電車や路面電車の待ち時間もそうですし、サッと出てくるけれども1分くらいはかかるファストフード店で待ち時間などがあります。電車に乗って揺られる時間も、パソコンが文書を開いたり保存したりするのにかかる微妙な時間も、細切れのものです。

待ち時間も、ある程度長かったらまだ良いのかもしれません。

ある程度長ければ、軽めの本を読み進められますし、ある程度まとまった考えを書き連ねたりすることもできるのですが、あまりにも短いと、本当に活かし方が難しい。

スマホに吹き込むにしたって、2、3の操作が必要ですし、吹き込むには微妙に時間が足りないことがある。ポケットのメモ帳と胸元のペンでアイディアを書き留めることはできなくはないけれど、そうした待機時間に都合よくアイデアが出てくるわけでもない。

そこまで細切れにしてできる作業はなかなか多くないわけです。1分、あるいは3分でもいいですが、そうした細かい時間は、全く無駄になってしまう可能性が非常に高い。ケチケチするな・鷹揚に構えろ、と言われたって無理です。時間は最も重要な資源のひとつです。守銭奴ならぬ「守時奴」——ゴロは悪いのですが——としては、見過ごすことのできない損失です。

無駄になるのは時間だけではありません。細切れの時間が到来したら、「あ、そういう時間が来たな」と判断して自分の行動を決定する必要がある。ここでまず精神的なエネルギーが使われます。それに、こうした時間は多くの場合外出先で生じるものですから、手札はごく限られているのですが、それでも、「始める」という重い作業が必要になる。というのに、すぐに終わりにしなくてはならない。以って、まとまった時間が与えられていれば持続させられたはずの精神的なエネルギーというものを、全く無駄にしてしまう可能性が高いのです。

もちろん私も、家で紅茶を入れるときは、仕方がないと思って待ちます。これは仕方がない。紅茶の美味さには替えられません。できれば紅茶を入れるのが上手い人を雇えるとよいのですが、そうもいきませんし、そうしたくない部分があります。

ハンドドリップでなければコーヒーはある程度雑に入れてもある程度の味にはなりますが、紅茶はいくらよい茶葉を使っていても温度管理と抽出時間がキモなので、気を抜くことはできません。茶葉にもよりますが、2〜5分くらいの待ち時間が生じます。

こうした待ち時間は、なるほど、書き留めておいた外国語の表現や単語の軽い復習・音読などにあてられることはあります。

とはいえ、何かできることがあるとは言っても、それは細切れ時間の存在を正当化する材料にはなりません。細切れの時間でなくても、外国語の表現や単語の復習は できるからです。細切れの時間にやることは、仕方なく、どうにかして有意義にやろうと思ってやっていることです。

まとまった時間がとれているなら、自分でオーガナイズして細かい作業を複数こなすことはできます。しかし、細切れになってしまった時間をたくさん集めても、大きな作業を行うことはできません。この関係は非対称的です。

長期的な計画を練るとか、長い文章の構想をたてるとか、難しい文章を読むとか、そういった(特に重要な!)ことは、細切れになった時間ではなかなかできない。

細切れ時間というものはなければないほうが良いわけで、弥縫的な価値づけをしても仕方がないわけです。


まとまった時間を使わなければできないことの具体例。……

価値のあるものであればあるほど、細切れの時間で文章を読むのは極めて難しいものです。論文であれ、フィクションであれ、或る種の価値がある文章はある程度前後関係を把握しながら読んでいかなければならないので、3分でさっと目を通すということは、特に人文学が関係する範囲では難しいように思われます。

(ある時期のラテン語の文章は、どの部分が問いでどの部分が答えであるかを、現代から見れば稚拙かと思えるくらい明確に示している場合があり、そういったテクストについては細切れ時間でも割とスムーズに読むことができますが、それは例外的なものです。それに、パッパと読んでしまうと、後からとんでもない誤読をしていたことに気づくこともあります。)

素朴な意味での理系の論文はどうか知りませんが、どのようなものであれ本来テクストは内容を箇条書きにして整理できるタイプのものではないので——ならば最初から箇条書きにするのです——、やはり細切れの時間では効果的に読むことが難しいものです。

とかく長い時間まとまった時間を注がなければ、論文の構成を練ることも(私には)できません。

別に論文を書くということを目的にしない場合でも、極めて重要な構想を練ったり、極めて重要な意思決定を行う準備を行うためには、まとまった時間が必要ではないでしょうか。


細切れの時間というのは、存在しているだけで、重要なことをやるための妨げになる。あるいは、細切れの時間があるということは、まとまった時間をとれていないということだから、気づかないうちに重要な仕事や問題が放置されているかもしれない。

であればこそ、細切れの時間を作らないということが、行動の指針として極めて重要になるのではないでしょうか。

別に論文を書いていない人であっても、こうした細切れの時間は、人生を進める際の障害になると思われますし、この点は一度確認しておいても良いように思われるのです。

ですから、待機時間というものをゼロに近づける努力というものが、きっとより価値のあることに精神を注ぎつづけるためには、極めて重要になるのではないかと思われるのです。


イメージしづらいかもしれないので、私の想像が及ぶ範囲でいくつか書いてみますが、

例えばパソコンを使われる人であれば、パソコンの動作が重くて何らかの処理をするのに待ち時間がコンスタントに生じる、というのは良くない状態といってよいでしょう。

文章や自分の作業ファイルを保存するのに時間がかかったり、あるいはブラウザ上でページをいったりきたり(あるいは動画を編集したり)するのに時間がかかるというのであれば、一刻も早くパソコンは買い換えるべきです。

できれば金に糸目をつけずに、最も作業を効率化してくれそうなものにすべきです。

後は、これは私に対しても言われねばならないことですが、家事を極限まで減らすか、徹底的にシステム化する、という決断はかなり重要になってくるでしょう。

例えば、料理は全て出前にするのはわりと良さそうな作戦です。あるいは出前の応対がかったるい、それこそ時間と精神がゴリゴリ削られるというのであれば(私はそういうクチです)、週一度まとめて作って少しずつ食べることにする、ということもありうるでしょう。

毎日30分を取って料理をするというのは、人にもよるのかもしれませんが、私がやった限りでは、時間を寸断する行為にほかならない。料理で身を立てようと思っているのでなければ、あまり得策とは言えない。どうせなら「3時間煮ます」「3日漬け込みます」というもののほうが、害は少ない。

最終的には人の手を入れる(家事手伝いを雇う)のが楽でしょうし、繊細な要求に対応してもらえる意味でもよいと思います。もちろん、これは単純に言って金銭面での都合や、個々人が自らの私的空間に対して抱いている観念にも依存するはずですが。

別の例。……

音を聞いて勉強するということは、我々には(語学学習ということに限らず)よくあるわけですが、そのような場合を想定すると、ワイヤレスで接続の迅速なイヤホンを用意しておくということは重要なことです。

音質を重視するのであれば有線にせざるを得ませんが、そうでもなければ、ぐちゃぐちゃに絡まりかねないコードは有害です。出し入れの手間がかかる有線の安いイヤホンを使うのは、結局のところ細かい待ち時間や細やかな無駄な時間を増やすということにほかならないのではないかと思われます。

後は、これは言い過ぎている面はもちろんあるかもしれませんが、電車を待つ・電車に乗るというのもそうです。

特に一駅二駅電車に乗るとか、あるいはもう少し長い距離乗るにしても、少し待って電車に乗るというのは極めて無駄です。

私は多少神経質なのか、駅というものの喧騒がそもそもダメで、満員電車には二度と乗りたくないと思っている節があります。電車を日常的に使っていたときには、駅では耳栓とノイズキャンセリングイヤフォンをしてほぼ無音にし、視覚だけで頑張っていました(もちろんこれは、少々の危険を伴うものですから、推奨されません)。

騒音を除くとしても、3分待っている間に大したことはできませんし、その間に思考を深められるということはなかなか無いように思われます。

もちろん人によりますが、おそらくは自宅やオフィスで作業する方が絶対にはかどるはずです。そうでないのであれば、寧ろ自宅やオフィスを集中できる環境に整えた方が良いでしょう。

運良く座れたても、例えば東海道線1時間コースとかでなければ、10〜20分くらいで降りることになるわけですし、それもドアが開いたり閉まったり、あといくつで降りるのかを気にかけたりするわけですから、時間は寸断されます(あと、しつこいようですが、騒音が凄まじいですね)。

この時間は、なるべく有意義に生かすことができるものであっても、基本的には無駄でしょう。

もちろん、こうした環境を少しでも集中できるものにする、という努力はあって然るべきです。耳栓とノイズキャンセリングヘッドホンは、少なくとも私には必須です。

……が、そんな涙ぐましい努力は、せずにすむ方が良いのです。細かく寸断された時間など、なければないほうが良いのです。まとまった時間をこちらから細切れにすることはできても、細切れになってしまった時間をまとめなおすことはできないのです。

まとまった時間を(大まかに区切って)使えるのであれば、それが一番良いわけです。


もちろん、人それぞれ事情はあります。私が上に述べてきたようなことを理想論だと笑う方もいらっしゃるかもしれません。細切れの時間を(私のように)蛇蝎のごとく嫌う人はきっと珍しいのでしょう。

しかし、なんとなく細切れ時間の存在を許していた、という部分があるようなら、今からそんな状況を変えてみることが、重要になるように思われます。

なぜ自分の時間が細かく区切られてしまっているのかを考えて、その状況をどうにか変えていく、つまり時間を細切れにする要因を慎重に排除し、まとまった時間を貪欲に取りにいくことを考えることが、重要になるのではないか、ということです。

その上で本当にどうしても仕方ないところでは、もちろん細切れの時間を有効に活かす、ということは考えなくてはならないことです。

しかし基本的には、そもそも時間を細切れにしない、という方針を整えるのが、良いように思われるのです。