【120】冷笑から距離をとり、理想的な現実主義、現実的な理想主義を採る

私たちはいつしか、理想というものを忘れるところまでは行かなくても、理想というものから一定の距離を置いて、現実に足を突っ込むことになります。この段階は必ずしも大人になってから踏まれるのではなく、発達のうちのかなり早い時期に既に通過するものだと思われます。


理想から遠ざかるのみならず、ある程度歳を重ねてくると、冷笑的な態度を身に付けることさえあるかもしれません。いわゆる「リアリスト」を自称する人たちのなかには、単なる冷笑家が紛れ込んでいる、という次第です。

自分がまったく冷笑的でない、と主張するのは難しいはずですし、たとえ皆さんが冷笑から程遠い人間だとしても、冷笑的な人間が一定数、というよりかなりの数いるということは、なんとなくご理解いただけることかと思われます。

社会正義に関する理想や、鍵括弧付きの「真実の愛」や、懸命に成長しようとする態度などを、皆さんご自身が笑い飛ばすかどうかは別にして、そうした、そもそも実態として成立しうるかどうかは別だけれども、実現されるのは難しいかもしれないけれども、理念として掲げることに何の問題もなさそうな、誰しも一度は憧れたことがあるかもしれないものを笑う、ということは、ありふれた反応でしょう。

繰り返しますが、皆さん自身がそういった冷笑的な態度をとるかどうかは別です。しかし、何らか高邁な、あるいは一定の観点から見れば明らかに不可能でしかない理想を掲げる人間を見て、公然と笑うかどうかは別にしても、フッと口元に笑みを浮かべてしまう、ということはありうるでしょうし、そうした人に出くわしたことがない、という人は稀ではないでしょうか。

抽象的に言えば、「理想主義」という言葉は、「現実主義」という言葉とは対照的に、極めて良くない意味合いを背負わされた言葉です。つまり、ある人を「理想主義者」だと言った場合、それは全く褒めていない。理想ばかり見ていて現実を見ていない、地に足がついていない面ばかりが着目される。あるいは、「理想」が掲げられているかという点さえ抜きにして、ふわふわした人をこそ「理想主義者」と呼んで笑う。

しかし、考えてみれば不思議なことです。理想の何がいけないのでしょう(こうした開き直りこそが、また或る種の人の冷笑を誘うのでしょうか?)。理想を掲げてその実現のために行動するという意味での理想主義であれば、全く問題はない。それどころか、良いことも悪いこともある現状を追認しつづけるよりも、理想を目指すほうがよほどよいに決まっています。

それに、冷笑家の多くは、或る意味では現実に妥協しているのですが、その現実が逆に提示してくる、低いレベルの理想については、それに盲従していることが多いのです。

私が出会ってきた例で言えば、何歳までに結婚して、何歳までに子供を作って……という家庭に関する達成項目リストや、あるいは、大学を卒業したらこれこういうレベルの職について、何歳までにこの役職に就いて、これこれこういうキャリアを歩んで、云々かんぬん……という、お決まりの「理想」のことです。

そうしたおしきせの理想は受け入れるくせに、もっと高い理想、達成は難しいかもしれないけれども極めて崇高な理想を笑い飛ばす態度は、自己矛盾的であるように私には思われます。

それに何より、冷笑家の冷笑は冷笑家本人にも跳ね返ってきます。跳ね返ってきて良いことは、あまりありません。自分の行動や望みに対してあらかじめ制約をかけることが全てダメだとは思いませんが、理念や理想のレヴェルが無闇に低いと、結果もそれなりのものになるのは必定でしょう。

あくまでも私の考えですが、私はそうした冷笑的な態度(をとる人)からは、距離を置きたいなと常々思っています。距離を置きたいというか、距離を置かなければ容易に精神が侵食されますし、寧ろ怖いから避けたほうがよい、という判断があります。


さて、冷笑的な態度を身に付けて実践するところまで行かなくても、毎日堅実に生きていると、理想を忘れてしまう、という面はあるかもしれません。

自分が持っていたかどうかはともかくとして、理想をはっきりと意識することなく、今目の前に降ってくる仕事や、今目の前に立ちはだかっている問題に対処することに精一杯になっていて、理想——もっと簡単に言えば目標といってもいいかもしれません——が欠如したまま生きている人も少なくないように思われるのです。

この態度は、分かります。私は一般的な(?)企業勤めの方々に比べれば、さまざまなことを強制されることの少ない立場にいますが、それでも昔に比べれば随分忙しい。事務作業もありますし、慎重に処理しなくてはならないものはかなり多い。

日常が忙しければ、理想というものは、たとえ持っていたとしても霞んでしまうものです。元々(そこまで強く)持っていなかった理想であれば、改めて持とうとするのは極めて難しいことかもしれません。

一定の方向に向かって歩きつづけていた人であっても、毎日が忙しければ、目の前に降ってくる作業に対応する過程で、自分が歩むべきであった方向というものも曖昧になってくることがあるでしょう。

仕方ないといえば仕方ないのですが、とはいえそうなってくるとなかなか厳しいものがあります。

というのは、まず、進んでいる実感がない、ということになってしまうからです。行き先がないのだから、進んでいる感覚など得られようはずもありません。シーシュポスの責め苦です——神々を欺いた罰として、シーシュポスは岩を山のいただきまで運ぶ苦行を無限に繰り返すことになりました。

理想のようなものがなければ、日々の作業にも積極的な意味づけを行うことは困難でしょう。そうした作業にがむしゃらに取り組む中で身につく能力というものはあるはずですが、そうして身につく能力が何に生きるのかということが想定されていなければ、なかなか厳しいものがある。

もちろん、極端に言えば、人生に意味はありません。幸福などというものも、何のための幸福なのですか、と問われれば、無です、ということになる。そう答えるのが全うでさえある。意味作用と有用性の果てにあるものは、本来、もはやそれ以上意味を持たないものです。意味=方向——特に仏語だと、sensという語がこの2つの意味を担います——は、究極でないもののみが持ちうるものです。

とはいえ、それでも(問いを進めすぎずに)かりそめの意味を与えられるかどうか、かりそめの事柄の中に一定の意味=方向を与えられるかどうかということは、ごく「平凡な」、つまり或る種の哲学的傾向に縁のない人間が良く生きてゆくには、極めて重要であると考えられます。

自分で(究極的には意味のないものであっても)理想を掲げていなければ良くないことになる、というのは、実際にいま我々が置かれている大きな状況というものがどんどん悪くなる一方だということを前提にするならば、より確かでしょう。

適切な例かどうかは、私は専門家ではないので分かりませんが、例えば高度経済成長期であれば、現実べったり・現状べったりで、目の前にやってくる仕事を片付けているだけでも、それなりに明るい未来を思い描くことができたのかもしれません。

また、バブル真っ盛りの時であれば、何も考えなくてもつづいてゆく明るい未来というものがあったのかもしれません。

しかし、細かいことは言いませんが、現代においてはそんなことはありえないわけです。疫病の流行する以前から、老後は2000万円いるとか言われるよりずっとずっと前から、年金制度の健全な存続が危ぶまれるよりもっとずっと前から、そんなことは明白でした。現状べったりに生きていればジリ貧になる(悪くすれば戻ってこられなくなる)のは明らかだったはずではありませんか。

肯定的な方針を生む理想が難しいのだとしても、悲惨な結末を避けるための防御的戦略というものを想定しておかなくてはならないということもまた、明らかだったはずです。

そして、防御的戦略を立てるのであれば、それを巻きこむかたちで、攻めの戦略、理想があるほうがよいというのも、またわかりやすいことでしょう。

であるからには、なんらか理想をあえて掲げるということは、少なくともジリ貧を脱するための第一歩にはなるのではないかと思われるのです。


理想の世界で遊べと主張するものではありません。

揶揄するために用いられる「理想主義」を、もちろん私は採用しません。現実を無視するのが「理想主義」だとすれば、そんなものに大きな価値はないということです。

しかし理想を冷笑する態度というのは、美しくない自己矛盾的なもので、私から見れば距離を置きたい態度です。

現状ベッタリになって理想を忘れてしまうと良くない結果が招来される、あるいは気づかないうちに沼にはまり込んでしまうということもまたはっきりしているのですから、こうした罠にもかからないようにしたいところです。

だからこそ、少なくとも現状への対応と理想への歩みというものを両立したいところです。あくまでも私の見立てですが、こうして両側面を保ち切ることが重要であるように思われます。この限りで、健全な現実主義は理想を許し、健全な理想主義は現実主義的である、と言ってもよいと思われるのです。

この観点から言えば、現実に対応するプロセスと、理想へと接近するプロセスが一気通貫していることが望ましい、とも言えるのではないでしょうか。

つまり、即座にそうするのは難しいかもしれないけれども、目の前に降ってくること全てに対処していくということが、そのまま自分の掲げている理想へと一直線につながる状態、あるいは逆に言えば、自分の理想に関係することしかやらなくてよい状態こそが、望ましいように思われます。

このような状況に至りたいという理想的な現実主義は、やはりひとつの「理想主義」ですから、一定の冷笑を買うのかもしれません。しかし一歩一歩、着実に、それゆえ「現実的に」、目指してゆく価値のあるものであると思われるのです。