【132】価値のある話は、だいたいポジショントーク

基本的には職業上の必要がなければ素人がくれるアドバイスになど耳を傾ける価値がない、ということは私が常々思っていることですし、これに賛同されるのであれば、こと話を聞いているばかりではなくて自らやってみよう(読んでみよう、描いてみよう、吹いてみよう、etc.)と思われる場合、素人でない人の話を聞きに行く(あるいは習いに行く)ことになるものです。

注意したいのは、素人でない人が専門分野について、単なる知識以上のこと、あるいはその分野でやっていくにあたって必要な態度とか心構えとかについて、あるいはそこまで大仰なものではなくても、職業上気をつけていることとかについて語るときには、概ねポジショントークになるということです。

ポジショントークというのは、特定の立場にいるからこそ発せられる・発しうる言葉や主張のことを指し、嫌われることがあります。特に政治的・宗教的な場面では、振りだす側も注意しなくてはならない場合もあるでしょう。一定の専門性や経験を伴った人間が発する言葉というのは、なるほど素人から見るとどこかひとりよがりに見える場合がないわけではなく、無用に敵を増やしうるからです。

しかし、這い上がっていくには、自分が理解できる・ストレスなく受け入れられる範囲の言葉にばかり頼っていては限界がある、というのも事実で、寧ろこの点は銘記しておくべききであるように思われます。


成功している企業経営者が書いているビジネス書などを読んでも、うまくいってない人から見れば、「それはお前がうまくいってるから言えるんだよ」ということになるかもしれませんし、「あの人はうまくいったけれど私とはそもそも違う(のだからこの人の言ってることは無意味だ)」と嘆くような態度というのは、想像するに難くないでしょう。

例えば「金で時間を買う」というのは、しばしば言われることで、私も気に入っている発想ですが、人によっては「その金がねえンだわ」と言われるかもしれません。あるいは、「買うか買わないかで悩むと、その時間や精神的リソースが無駄だから、悩む理由が金額であるのならば買ってしまえ」というような行動基準が掲げられるとして、これもまた、人によってはポジショントークに聴こえるものだと思います。「うるせー、その金がねえんだよ」ということです。

もちろん乱暴な言い方ですが、簡単に言い直すのであれば、金がないから困っている人にとっては、「金で時間を買う」とか、「悩む理由が金額なのであれば買ってしまう」とかいうのは、絵に描いた餅であり、金を持ってる人間の勝手な言い分、ポジショントークにしか聞こえないというわけです。

こうした言葉を初めて耳にしたときは、私もやはり「その金がないんだよ、クソ」という気持ちでしたが、○○円以上の、仕事の効率化に寄与しうるものについては絶対に悩まずにワンクリックで買う、ということを徹底したら、それなりに楽になりました。

そうして楽になった結果として、ひょっとしたら預金総額が減っているのかもしれませんが、楽になったというのは非常に大きなことですし、私もわずかながらポジションに杭を打ち込むことができたのかもしれない、と思います。


どの分野でも言えるわけです。

芸事であれ学問であれ、単にお勉強であれ、何であれその分野で生きていたり、一定の成果をあげているような人が示すアドヴァイスや、単なる行動指針の類については、「あの人は才能があるから」とか、「あの人は天才だから」というような、一筋の諦めを掃いたような拒絶がありうるわけです。

例えば、東京大学に入学するなどという、そこまで難しくもないことについても(こうした形容もまたポジショントークですが)、達成しているだけで何かの「ポジション」にあるものとみなされてしまいます。

(ホント、勘弁してくれ、という感じです。せいぜい「教育に一定の金を使う環境に生まれ、受験勉強に勤しむのが当然の環境に育った」くらいのものです。もちろん努力は各々するわけですが、受験するのが当然という家庭や学校の空気があれば、どうにでもなるものです。……)

不釣り合いにも家庭教師や講師業などをやっていた頃は、受講生にも、その保護者の方にも、勉強法など聞かれることが珍しくはなく、その都度答えていたのですが、

過激なことを言えば、「そんなことをできるということは、そもそもデキが違うのだ……」と言われ、

ありふれたことを言えば「そんなことをやっているだけで成果が出るということは、そもそもデキが違うのだ……」と言われる、

ということがありました。

つまり、なけなしの成果の側から、大してありもしない「才能」を逆向きに推定されてしまい、わざわざ(時間を割いて)勉強法を聴きに来たその人に、結局のところ何も聞き入れてもらえない、というおかしな事態があったわけです。

「お前、何しに来たんだよ」と怒るようなことは流石にありませんでしたし、自分よりも年次が下の人たちと話すのは多面にわたり楽しいものなので、よいといえばよいのですが、なんだかモヤモヤしていました。

そんな中でも成績をあげてもらわなくてはならないので(あるいは合格してもらわないと困るので)、私も「ポジション」から片足を出して、相手にも一歩片足を出して貰って、時にはグイと手を引いたり、時にはなだめすかしてゆっくり歩いてもらったりしたものです。 

そもそも勉強の習慣がついていない生徒には、1日5分・自分で考えなくてもできるように、英語のCDを聞いて猿真似音読をする、ということをやらせることもありました。

全くやらないわけではないとはいえ、生ぬるい勉強しかしていないように見える生徒には、ほんの少しだけ強度を上げた勉強を提案することもありました。

もっと先に・もっと上に行きたい生徒には、勉強法のぬるさを指摘したうえで、キツいやりかたを課して、一緒に楽しく苦しむこともありました。

ともかく、「とりあえずやってみてよ」と言って、少しずつやってもらったものです。

そんなふうにして解決を図りましたし、解決される場合も多かったのですが、モヤモヤすることがまったくなくなったというわけではありません。


ある立場にある人たちが、その立場にない人たちに何かアドバイスをする場面では、こうした問題がしばしば生じるようです。つまりポジショントークであると思われて、一歩距離を置かれてしまう(そして、悪くすると、非難される場合さえある)ということです。

あるポジションから振り出されるアドバイスというものが、酷薄に響くこともあれば、非現実的に響くこともあって、そのときには反感や諦めが生まれるかもしれません。

しかし、私たちは何か専門的なことがらや、困難な道のりにおいてうまくやろうと思ったら、ポジショントークを聞かざるをえないし、常識的には、それが唯一にして最善の道であることを知っています。転職したことのない人に転職相談をするのはあまり賢くありませんし、起業したいなら起業家の話をこそ聴いてみるべきでしょう。大学受験を経験したことのないカメラマンに東大受験の相談をすることはないわけです。

本物の学びやアドバイスはポジショントークから得られる。「ポジション」にない素人とか、素人のくせに教えられるふりをして人を騙そうとしている人の話に意味がないことは明らかですし、寧ろある「ポジション」に行きたいのであれば、ポジショントークこそが有益だということもまた明らかでしょう。

であれば、特に一定の分野において行動していかなくてはならないときに価値を持つ言葉というもの、特に行動指針というものは、ほぼ全てポジショントークである、という前提を受け入れたうえで、ポジショントークを虚心坦懐に聞いてみるということが必要になるでしょう。


あるポジションから振り出されている言葉の価値は、結局のところポジションに立ってみなければわからない、というのも真理でしょう。自分もポジションに近づいてみなくては、結局のところポジショントークの価値というものは分からないところがあるものです。

押し広げて言うなら、勉強していない人に(苦労してまで行う)勉強の価値はわからないでしょうし、ワインの良さを知るにはワインを一定数飲む必要があります。「金で時間を買う」ことの効用も、実際にやってみなくてはわからないでしょう。英語をやるなら『英語達人塾』に書かれていることを全部やればいいんじゃないの、という(私がよくやる)アドバイスは、やってみなくてはその効力がわからないものです。

価値のある行動指針とか、価値のある技術については、それが前に進むためのものであり、のしあがっていくためのものであり、つまり自分のいる「ポジション」を変更するためのものであるからには、自分のポジションから見て違和感のない・当然のことだけやっていても仕方がない。

あまりにも現実離れしていてうまくいくかどうかわからないことであっても、当たり前すぎてしょうもなく見えても、それが自分の才能のなさを露呈する結果になるとしても、とりあえず行きたいポジションから振り出されるポジショントークを受け入れてみる以外に、道はない。

ある意味では悲壮な覚悟を決めようということでもありますが、ある意味では不確実性を楽しもうということでもあります。

そうしてポジショントークを一つ一つ受け入れてやってみるということが、自分のいまあるポジションから、別のポジションへと意識的に移ってゆくための、重要な過程であるように思われます。