【104】紅茶狂いの好きな店、あるいは「誰に嫌われてもよいか」を思うこと

目下流行している疫病に対する対策の一環として、外出禁止に近い措置をとる国があったということは皆さんもご存知かと思われます。

日本ではあまり強い政策は取られなかったようですが、私の住んでいるフランスでは、3月の半ばからおよそ2カ月にわたる外出禁止が実施されました。

もちろん、日用品を買いに行くためにスーパーに行くことなどは禁じられていませんでしたし、多少の運動のためなら自宅から一定の距離で、という限定付きですが、外に出ることもできました。

私は大学に物理的にいなければできない研究というものもあまりなく、もちろん図書館で本を参照できないのは辛いものがあったとはいえ、自宅にある本を読んで進められる部分もあったので、一般人に比べればあまりダメージを受けてはいませんでした。

しかし、生活上きつかったことが一つあります。それは、市場に行って紅茶を買うことができなかった、ということです。

ことさら高い茶葉を求めているわけではありませんし、高いからいいということは特にないのですが、スーパーで売られているものは大概味が抜けていますし、品揃えも良いとは言えないので、専門店で買うということは、一定のレベルの紅茶狂いにとってはマストになります。

自宅の近くには専門店がなく、特定の曜日に立つ市場に出てきている紅茶屋さんで茶葉を買うのが普段の習慣になっていたのですが、外出禁止に伴い市を立てることそれ自体が禁止された、という成り行きです。少し遠くにある専門店に行くことは禁じられていましたし、仮に禁じられていなかったとしても生活必需品を売る店ではない以上、閉まっていたはずです。

最近ようやく市場が立つようになり、およそ3ヶ月ぶりに楽しんでいるところです。紅茶を淹れるにしても、水の具合や抽出温度・抽出時間を色々と調整しながら進めるところがありますので、精神的なリソースは必要になるのですが、私にとってはこれはもはや必要経費で、それだけのリターンがある、ということです。


私が紅茶を好きになったのは別にフランスに来てからというわけではありません。日本にいる時からもともと紅茶狂いでしたし、フランス式の紅茶の楽しみ方にはどうにも慣れないので、もっぱら家で、(ほぼイギリス式に)やっています。

強めのセイロンティをミルクティにして飲んでいると、日本で度々飲んでいた紅茶の味が懐かしく思い出されることがあります。特に、神保町の東京堂の真向かいの地下にあるTea House TAKANOという紅茶専門店が、極めて懐かしく思われます。

今年TAKANOに初めて行ったのは大学1年生の頃のことでしたが、それ以来用があって神保町に行くたび、お昼時にはカレーでもうどんでも名古屋寿司でもなく、紅茶屋に足を運んでいます。店主がこだわって選び抜いた適正価格の茶葉を、きちんと注意して抽出してくれる店で、小腹が空けば、優しい味のサンドイッチやババロアもあります。

古書街に位置しているということもあって、軽めの本を買ってそのまま入って読みながら(午後の授業をフケて)昼下がりを過ごすということがしばしばでした。寧ろ古書街で本を買うことよりは、紅茶を飲むついでに古書街で本を買う、と言った方が正しいのかもしれません。

さてこのTAKANOですが、店主のパーソナリティが独特で、実によいものです。リンクを貼っておきます。短いので、「ティーハウスタカノのご挨拶」だけでもお読みいただけると、実に面白いかと思われます。

http://www.teahouse-takano.com/aisatu.html

どう思われましたか。

印象は人それぞれかもしれませんが、次の文なんかは、ニコニコしながら読んでしまう。

「子供の頃からファーストフードやコンビニの味になれてしまうと、旨味のある渋みやほのかな香り、えぐみ、苦みの持つ旨さが判らなくなってしまいます。丁寧な暮らしをすることは、決してお金をかけた贅沢な生活をする事とは違います。」

「最近かなり紅茶の旨さをご理解していただける方が増えて来ましたが、それに伴い馬鹿高い紅茶が旨いとか、偏った知識をひけらかすヒトが増えたことも事実です。」

私がこの記述を初めて目にしたのはもう10年以上前のことだと思いますが、そのときもニコニコしながら読んでしまいましたし、今読んでもニコニコしてしまいます。

「馬鹿高い紅茶」がありがたがられるメカニズムは興味深く、また好んで飲む権利はありますが、あれは紅茶を飲んでいると言うより文化を飲んでいるのです。

私は文化よりも紅茶を飲むタイプの人間なので、高すぎる茶葉はどうしても避けてしまう。だから、TAKANOの店主の「挨拶」には共感する部分があるというなりゆきです。


……紅茶の話をできる友人が増えると嬉しいなと常々思っていることもあって、TAKANOを何人もの友人に紹介してきました。そのうちの何人かは、ちゃんと紅茶の沼にハマってくれました。

しかし、数人から返ってきた返答というのは、果たせるかな、この店主の独特の文章に対するこの拒絶感をはらんだものでした。

私もそれ以上熱心に勧めるつもりはありませんでしたが、そういう見方も当然あるよな、とは思われました。なにせ、引用した通りの口調です。私はニコニコ顔で通いたくなりますが、そうでない人もいる、ということはお店の側もある程度は覚悟して、わざとやっている面があるだろうな、と感じられました。

私のような、それでも行く人間、あるいは寧ろ面白いと思って行く人間のみを相手にしている、ということなのでしょうし、或る意味でこの「挨拶」は顧客を選ぶ宣言であるように思われます。

目下の疫病の流行を経て、現在のTAKANOがどのような経営状況になっているのか、私には分かりませんが、独特の方針を持って、数少ない紅茶専門店としてやれていたからには、今後もおそらくそのまま運営していけるのではないかな、という希望が私にはあります。


46年間やってきた TAKANOを見ていると、これも一つの生存戦略なのだな、と思わされます。そのようにはっきりと意識されているかどうかはともかく、です。

この46年を年表で確認すれば、社会経済上の変化も、文化的な変化も起きつづけてきたわけで、少なくとも後ろ半分の景気は全く良くない。そんな中で飲食店の経営を続けているというのは、それだけでも凄まじいことです。単純に紅茶が美味いというだけではなく、特異なこだわりを持っているということを言語的にも知らしめる、そうした或る種のイメージ戦略が結果的には上手くいっているような印象を受けます。


店主も、平均よりも言葉には敏感な人でしょうから、分かっている・意識してやっているとは思うのですが、八方美人にはならない、寧ろ一部からは嫌われるように振る舞う、という選択を最初にしているわけです。

もちろん、八方美人でいることは不可能ではありません。誰にも嫌われずに、誰にも負の感情を抱かせずに、特定の人間には特別好かれるというかたちで市場を切り開いていくことは十分に可能なことであると思われます。であるからには、最初から嫌われに行く、というのは必ずしも常に最善というわけではない、ということは言えるでしょう。

ポジティヴに、批判や否定なくやる、というのは、なるほどうまく生きてゆくための常道かもしれませんし、そうできるならそれで良いのかもしれません。

しかし、私がTAKANOに好んで通っているから申し上げるわけでもありませんが、あくまでも否定的な観点から出発したり、他者から自分を区別してもらうために否定の方途をとったりすることは、戦略としてはありうるものですし、個々人の心情としても、そうした箇所を出発点にせざるをえない面はあるでしょう。

それに、特に自らの特異な位置や態度を的確に知らしめて、ディスコミュニケーションが発生するより前にその芽を摘んでおくためには、否定形の宣言というものも棄てたものではないように思われるのです。

というのは、私たちは誰にも嫌われないようにするがあまり、誰かに特別に好かれようとする積極的態度や、自分が何をどのような方向に持っていきたいのか、という点を軽視していることがないでしょうか。つまり、表面上のネゴシエーションには必死だけれども落とし所や大目標がはっきりしていない、ということがないでしょうか。あるいは自分がそうではないとしても、pejorativeな言い方をするなら、そうした風見鶏的な人や集団に出会ったことがないでしょうか。

そうなってしまうくらいなら、否定的な意味付けや、特定の相手を排除することを繰り返してでも、自らの目的や基本的な態度をはっきりさせながら進めるほうが、よほど良いように思われるのです。


この媒体においては当然猫を被っていますが、私も付き合っている友達は少ない方です。交友関係はめちゃくちゃに広いというわけではありません。或る種の人間からはことごとく嫌われるような性格をしているからです。

が、性格の悪い振舞いは一定の戦略のうえでのものですし、だからこそ得られた友人もあり、回避することのできた社交もあり、私はこの点に関してはそこまで悪いことだとは思っていません。

極めて強い矜持とこだわりを持ったTAKANOに親近感を覚えるのも勝手だという気はしますが、人間関係においても、あるいは広義のビジネスにおいても、あるいは研究においてもそうですが、万人に受けるということはまずないし、その点を目標にするのは悪手でさえある、ということは、言えるような気がしています。

万人に受けることをぼんやり目指してしまうと、あるいはなんとなく・何の目標も危機管理もなく良い人でいると、めちゃくちゃ平凡でつまらないものになるか、あるいは立ち行かなくなって破綻するか、あるいは通り魔に遭うか、ではないかと思われるのです。

もちろん、積極的に誰かに嫌われにいくということは或る種の高等技術ですし、それなりの覚悟がない場合には推奨できません。

しかし、自分がどこで・どのように戦うかということを最初に確認したうえで、その戦略において排除されることになる相手がどのような相手か、ということについては、リアリスティックな考えを抱いておく必要があるのではないか、と思われるのです。

例えば私ははっきり言って陰キャ・根暗・引きこもり・オタクですから、日曜日に河原でバーベキューをやるような人たちのところにはどうしても行きづらい(し、基本的には行きたくもない)。そういった社交的な人たちが間違って私に話しかけてきてしまったら、きっとお互いに気まずい思いをするというなりゆきです。ですから、そもそも話しかけてこないようにと、陰に陽に予防線を張ってきましたし、この作戦は功を奏していたように思われます。

もちろん、交友関係を狭めに行ったり、喧嘩を売りに行くような態度をとることは、避けられる限りにおいては避けたほうがよいのかもしれません。

それでも、皆さんも人間関係あるいは職業上の関係において、万人に好かれるということ・嫌われないということを、無自覚のうちに意思決定基準として採用してしまっていないか、その結果としてもっと大切なものを見失ってはいないか、ということは、一度は疑ってみてもよいように思われるのです。


何をどのようにやってゆきたいか、ということから出発して、そこからすると誰に嫌われることになるか(誰とは仲良くできないことになるか)、ということは、一度現実的に考えてみてもよいはずです。明確になれば、伝えるべき内容も少しずつ変わってくるはずでしょう。

あるいはどんな人間とは関わりたくないか・どんな人間関係は御免こうむるか、ということを出発点にしながら、自分の基本的な方針のほうを見直すという可能性もあるでしょう。顧客(読み手)として誰を想定するか、ということでもありますが、そもそも自分が働く業界を選ぶ・変える際にも十分に有効な作戦であるように思われます。

つまり、漠然と「良い人」であることを少なくとも頭の中ではやめてみて、「どういった層に訴求するか(orどういった層にはお帰りいただくか)」という変数に目を向けながら、自分の活動の全体を振り返ってみてもよいのではないか、ということです。