【展覧会小説】永遠の向日葵③枯朽編
キリトは大学卒業後は都内のメーカー企業で営業職として働いていた。それなりの収入ではあったが、キリトの通っていた大学の就職実績、同級生らに比べれば決して高給取りとは言えなかった。キリトの学業成績は悪くなかったが、就職活動において他の学生が少なからず就職後のビジョンを希望を持って語る中で、「仕送りができるだけの給料が得られればいい」という本音をオブラートに包むのが精一杯のキリトの回答は、どの企業の面接官にも響かなかった。ようやく1社内定がもらえたのだ。実家へは毎月十分な額の仕送りをしていた。しかし学生時代には夏・冬・春と休みになる度に帰省したキリトであったが、社会人となってからほとんど地元に帰ることはなかった。仕事でまとまった休みが取れない事もあったが、それは口実に過ぎず、実際はすべての時間をサラと会うために使っていた。
社会人になりたてのキリトと、アルバイトと稽古の毎日を過ごすサラは月に1~2回程度のデートを重ねた。互いの家に泊まることはあっても、2泊以上することはなかった。その理由の大半はサラが翌日に稽古や芝居の勉強のための何かしらの予定が入っていたからだった。マクベス夫人を演じて以降、サラの女優としての仕事も少しずつ増えていくようになった。そのきっかけはあの演劇評論家の男が新聞に寄稿した劇評が大きかった。男はサラのマクベス夫人をかつてイギリスでマクベス夫人を当たり役とした「サラ・シドンズの再来」とまで書いた。
「一緒に住まないか?いや、君が望むなら結婚しよう。」
付き合って4年が経ったある日、キリトはサラにプロポーズした。
「結婚…?」
「結婚は君が望むならでいい。女優として成功するのに家庭を持つことが足枷になってほしくないからね。ただ、一緒に住むのは考えてほしい。それぞれ別で暮らすより、一つの家で暮らした方が経済的にも楽になる。僕も多少ずつでも毎年給料も上がっているから、君が女優業に専念できるようにサポートできる。」
キリトは自分がとても魅力的な提案をしたつもりだった。愛し合う二人が共に暮らすことに何の問題もなかった。そして当然サラもそのつもりであると思っていた。しかしサラの答えは違った。
「気持ちは嬉しいけど、今はまだその時じゃないと思う。私にとっても、あなたにとっても。」
「僕にとっても?どういう事?」
「弟さんたち、まだ中学生でしょ?あなたの仕送りを頼りにしているんでしょ?だったらまだ私と一緒になる事なんて考えずに、弟さんたちが独立するまで、せめて成人するまでは待った方が良いと思う。私も今大事な時だから環境が大きく変わるのが怖いの。結婚もするとなったらあれこれ大変になるから、女優としてもっと一人前になってからでないと考えられない。」
「弟たちの事なら心配ないよ。むしろお互い余計な負担を掛けないためにも、一緒に暮らした方が効率がいいと思うんだ。」
「良くないわよ。それに私が今あなたと一緒に暮らし始めたら、あなたの経済力をあてにして一緒にいるみたいに思われてしまう。それが嫌なの。好きだからこそ、ちゃんと独立して一緒になりたいの。それまで待ってほしい。」
サラの意思は固かった。結局二人はキリトの弟たちが成人するまでは結婚も同棲もしないことになった。キリトにとって弟たちが20歳になる間の6年間はそれまでの人生の中で最も長く感じられた。実家にいる母、弟、妹の存在が重荷になり、自分はまるで中世の重税に苦しむ農民、あるいは借金の返済に苦しむ人のようだとさえ感じ、仕送りをする以外にはほとんど実家には連絡を取らなくなっていた。
キリトにとって長い6年間は、サラにとっては短い6年だった。所属する劇団の看板女優として主役を演じることも多くなり、単発のドラマや映画に端役で出演することもあった。世間一般の知名度は高くはないが、演劇関係者、演劇通のファンの間では実力のある女優として定着し始めていた。サラは基本的にはどんな役でも引き受けていたし、どの役にもなり切っていたが、彼女の本領が発揮されたのは、かつてマクベス夫人で注目を集めたように、野心に燃える悪女であった。透き通った肌、整った顔立ちで悪事など思いもつかないようなサラの顔が、己の欲望のままに不敵な笑みを浮かべる姿は背筋が凍るほど怖かった。そして、美しかった。
*****
重い重税に耐え忍ぶ6年と、舞台の上で光を浴び称賛を浴びる6年は、若き恋人の姿を全く別物に変えた。キリトの顔は慢性的に青白く表情は暗くなっていき、サラはまるで出会った頃、いやその時よりも若々しく輝いていた。
「6年が経った。弟たちも無事に成人式を迎えたよ。サラ、今度こそは結婚して一緒に住もう。これは僕からの気持ちだ。」
キリトが差し出したのは満開の向日葵の花束だった。
「覚えてるかい?僕が君に最初に贈った贈り物が向日葵だった。君が初めてマクベス夫人を演じた時、僕は心の底から君に見惚れた。女優として輝く君をずっと見ていたい、ずっと支えていきたい、そう思った。その思いは今も変わらない。だから今日、君にこの向日葵を贈る。」
「そうね。ずっと待っててくれてありがとう。でも1つだけ謝らないといけないことがあるの。」
「何だい?」
「今は結婚はできない。結婚したくない訳じゃないの。ただ今度やるCMが未婚女性をターゲットにしたCMだから、CMの契約上数年は結婚しないことになってるの。」
「そんなバカな契約…反故にはできないのか?結婚したからといって君の女優生命が絶たれるわけじゃないだろ??」
「絶たれない保証もないわ。一緒には暮らしましょう。でも私は女優としての生き方を優先したい。女優として輝く私を支えてくれるんでしょ?愛してくれるんでしょ?」
「……ああ、そうだ。そうだね。君の仕事の邪魔をしたい訳じゃないからね。じゃあ一緒に暮らそう。そしてそのCMの契約が切れる頃に、結婚しよう。」
そうして二人は一緒に暮らし始めた。二人で住むことにした部屋には、先にキリトが入居した。忙しいサラに入居の手続きや引っ越し作業などの肉体労働をさせたくないとキリトが提案した。一通りの作業が終わり、いよいよサラが引っ越してくる日、キリトは向日葵を彼女が使う部屋に飾った。キリトにとって向日葵はサラへの愛の象徴であったので、彼女の部屋に向日葵を飾っておくことは、当然の選択だった。
だがもしここで彼が違う花を飾っていれば、この二人の関係はもう少し変わっていたかもしれない。今この一人の男の人生を俯瞰してみることができる我々であれば、そのように思うはずだ。この優しく不憫な男の最大の欠点は「変わらない」ことろう。幼い頃に自分の母親を心変わりで捨てた二人目の父親の存在が、キリトに「変わること=悪」であると思わせた。キリトは「変わらない愛」を示すことがサラを幸せにする最大の方法だと心底思っていたのだ。しかし既に誰もが知っている通り、本当の愛とは「変わらない」ことではない。時や状況に応じて「変わりながら続く」ものなのだ。
二人の共同生活はすぐに破綻した。考えて見れば、キリトとサラはたった一度イギリスという異国の地で偶然出会ったに過ぎない者同士であった。異国の地にいたからこそ”日本人同士”で、”ロンドンでシェイクスピアの『マクベス』を観る”という共通点が特別なように感じられたのであって、まるでこの世にこの二人しかいないかのような「運命」と錯覚させたに過ぎない。日常へと戻れば「家族への仕送りに人生を費やしてきた男」と、「女優として輝かしい世界を望む女」とではまるで違う者同士、恐らく出会う事もなければ、出会ったとしても自分の人生には微塵の関わりもない相手と思っていただろう。
二人で慎ましく穏やかに過ごす暮らしを望むキリトは、夜な夜な劇団仲間や仕事の関係者との飲み会で酔っ払って帰って来るサラを注意するようになった。その注意が「気に入らない」とか「辞めてほしい」などと訴えればまだマシだったかもしれないが、あろうことかキリトは「素晴らしい女優になってほしいからこそ、素行は控えた方がいい」というような注意をしたために、サラの逆鱗に触れた。
「そんなに貞淑な女が良いなら、そういう女と暮らせばいいじゃない!私はあなたの理想に合わせるほどちっぽけな存在じゃないのよ。女優、宍戸サラよ!!いずれ世界の舞台に立つ女よ!!!」
そしてそのまま家を出て行った。追いかけようとしたキリトを「ついてこないで!」と一蹴し、その晩は結局戻ってこなかった。翌日、キリトが仕事から戻って来るとサラの荷物がなかった。テーブルの上には「残った服は後日引き取りに着ます」とあるだけだった。キリトは必死になって街中を探し出した。声がかすれるほどサラの名前を叫んだ。
「サラー!!!どこだ?帰ってきてくれ!!僕が間違っていた。君がいるだけで幸せだったはずなのに、僕は君を支えるどころか、苦しめていた。ようやくわかったよ。ごめん、ごめん。。。もう一度、もう一度僕と一緒に暮らしてくれないか………」
街中を叫びながら走り回るキリトに道行く人の視線は冷たかった。気味悪がった人のひとりが交番に連絡したのか、しばらくして警官がキリトに「近所迷惑で通報が来たから」と身柄を確保した。警官が話を聞こうとしてもしばらく興奮してまともに会話ができず、「サラはどこだ?サラを僕のもとに戻してくれ!!」と訴えるばかりであった。しばらくしてようやく興奮が冷めて警官の質問にも答え、自分が女優の宍戸サラと同棲していること、顔所とケンカをして出ていってしまったことを話した。すると警官は思わぬことをキリトに言った。
「でもその宍戸サラっていう女優なら何とかっていう評論家とデキてるんじゃなかったっけ?」
「えっ?何だって??」
「何年か前にネットで話題になってなかっけ?………ちょっと待てよ…」
そう言って警官はスマートフォンを取り出して調べ出した。
「…ああ出てきた出てきた。20××年8月某日、都内の高級飲食店より、女優の宍戸サラが、ある男性と親密な雰囲気で出てきた。その男性とは、演劇評論家で演出も務める高柳省吾であった。ああ、そうだそうだ。高柳省吾だ。」
「高柳だって⁉」
キリトは飛び上がって警官のスマートフォンをのぞき込んだ。数年前の記事らしく、当時の記事などは出ていないが、ネットでは高柳とサラの密会記事について様々な情報が出てきた。キリトは呆然として椅子に腰かけた。記事が出た年はキリトがサラに2回目のプロポーズをした頃であった。あの時サラはCMの契約で結婚を先延ばしにしてほしいと言っていたが、実際は高柳と付き合っていたとは思いもよらなかった。キリトはこれまでほとんどネットやテレビなどは見なかった。普通なら恋人が人前に出る仕事をしているなら多少なりとも気になって調べたりするものだろうが、キリトはサラの舞台やドラマなど作品を観ることはあっても、SNSでのコメントやワイドショーなどの情報を得ようとはしなかった。キリト本人がそうした周囲の言葉を気にしないこともあるが、サラからも「ネットやマスコミなんてある事ない事勝手にでっち上げて盛り上がるだけだから、なるべく見てほしくない」と言われていたのを忠実に守っていたのだった。足元が崩れ落ちるかのような絶望に襲われたキリトに警官は更なる追い打ちをかける事を言った。
「どこまで本当か分からないけど、宍戸サラはこれまでも色々噂があったみたいだなぁ。男で仕事を取ってたとか……」
「辞めてくれ!聞きたくない!!」
そう叫ぶとキリトは交番の机にあったハサミを掴み、次の瞬間自らの左耳を切り落とした。
「何やってるんだ!!!!」
警官はすぐさまハサミを取り上げ、救急車を呼び応急処置に奔走した。その間キリトは「聞きたくない。サラは僕の…サラは…」と終始サラの名前を呟いた。救急車を待つ間、それまでぶつぶつとサラの名前を呼ぶキリトの声が止んだ。そしてしばらく黙ったかと思うと、ふと切り落とした耳を拾い警官に向って言うのだった。
「もしサラが病院に現れたら、この耳をサラに渡してくれないか。僕は世の中のどんな醜聞にも耳を貸さず、サラを信じている。この耳がその証だ。そう言ってサラに渡してくれないか。」
「バカっ!そんなものが愛の証になるか!しっかりしろ!君がしっかりしないと恋人だって戻ってこないぞ。」
「恋人……?ああ、そうだった。サラは恋人だ。僕にとって永遠の恋人だ...」
*****
「初日の成功おめでとう!あなたのマクベス夫人は何度観たって毎回背筋が凍る。これなら本場のイギリスでも話題になるでしょうな。」
「ありがとう。私にとってマクベス夫人は最も大切な役だわ。私が死ぬまで演じたいと思う役はこの、マクベス夫人を置いて他にないわ。」
「おや、今日は向日葵は届いていないのかい?君の舞台には初日に必ず向日葵が届く、春だろうと冬だろうと。不気味な話だが、まあそれが君を伝説の女優にするいい話題になったんだが。それが今日はどうした?」
「えぇほんとに。呪いが解けたのかしら。」
「呪い?向日葵がか?贈り主に心当たりがあったのか?」
「私に向日葵を贈り続ける人なんて一人しかいないわ。私、向日葵が大好きだったの。エネルギッシュで凛としてて...でも、こうして年中向日葵を見続けると狂ってしまいそうだった…今じゃ怖い位よ…」
「男か?呪いが解けたというのはどういうことだ?」
「まぁそんなところね。発狂でもして死んだんじゃないかしらね。関係のないことだわ。」
「傑作だな。君に人生を狂わされた男が向日葵を贈り続け、その向日葵で今君が狂ってしまいそうだとは。マクベス夫人さながらだ。幻影と自責の念に駆られて死ぬんじゃないぞ。」
「それで死んだら、いよいよ伝説になれるかしら。」
「……まぁ悪くはないが、三文芝居だ。」
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この小説は、国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」展から着想を得て考えたオリジナルストーリーです。小説の中には、展覧会に出ている作品や本展のキーワードが散りばめられています。分かりやすく登場する作品もあれば、主題をさりげなく潜ませている作品もあるので、展覧会を観た人は宝探し的に楽しんで読んでいただければ幸いです。
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