薫香とカソナード
前書:これはなんですか
本編『薫香とカソナード』
黒衣森に雨が降る。月星は分厚い雨雲の褥に籠り、辺りは下草一叢見えぬ濃きインクの如き闇。その闇を抉り取るようにぼうっと一つ、朱い光が灯った。フレカニ・チライキナが掲げたランタンだ。ランタンは彼女の――ルガディンの――足捌きに合わせて揺れている。そして一息分、灯りは止まり、また揺れだす。今度はやや忙しなく。
(軽率だった)とフレカニは思った。
背中が湿った気がするのは冷や汗なのか、雨粒が入り込んだのか。それとも。
それはコチューでもチゴーでもなかった。闇の中で眠っていた、モンスターではない何か良くないものを、炎を灯したことで目覚めさせてしまった。あるいは、彼らの気配が背後に纏わりつくのは儀式が中断されたせいだろうか。最早、灯りを吹き消したところで喰われるのは冒険者そのものだ。
油紙製のホヤに火が移らぬよう慎重に、しかし足早に、灯りで闇を裂くようにフレカニは森を駆けた。掲げた火の先に、大樹の立派な枝張りが見えた。その下にだけ、水溜りがない。
枝葉を屋根にして、ランタンは根元に置く。ハットを被り直し、ローブを払って水気を取る。ここはぼんやり明るく、森林の特徴的な香りがフレカニを慰めた。
(後は暖さえあれば)
フレカニは懐をまさぐり、一瞬だけ思案した。そしてランタンの蓋を開け蝋燭を足し灯し、ブーケガルニをくべた。ブーケガルニとは名前だけ。祖母直伝の魔除けの香草束だ。食べられたものじゃない。これは燃やして使う。
強すぎる火はあっという間に油紙を燃やし、白煙を立てる。闇深き雨森は、この薫香を以ておばあちゃんちの土間同然と化した。懐かしさがフレカニの胸を満たす。
(こういう時は)こういう時こそ。
フレカニは旅装の荷を解き、赤砂糖の小瓶を取り出した。中身を小皿に開け、燃え盛るランタンをコンロ代わりに温める。砂糖は次第にクツクツと泡立ち、焦がし砂糖の香が立つ。小皿を火から降ろしてソーダ石の細礫を放ち、混ぜ棒でよく攪拌すれば、ふかふかに甘い、齧り飴の出来上がり。
一口嚙み砕いて初めて、フレカニは空腹に気づいた。懐かしい薫香と甘い味わい。夏至に日暮れまで駆けて遊んだ日にも、おばあちゃんが作ってくれたっけ。祖母から受け継いだ混ぜ棒は、どんな幻具より彼女を癒した。
サクサクと砂糖菓子を頬張っていたら、いつの間にか、良くないものの気配がしない。フレカニの口角がふと上がる。頬の内側に、勇気の味の欠片が残る。雨脚は強いが、エ・スミ師の住まう森都まであと少し。
【おわり】
SCREEN SHOT/©️SQUARE ENIX