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呼び声の柔らかさ

前書:これはなんですか?

 FF14の自機小説です。二万字くらいあるのでお時間のある時に一読いただければ幸いです。【前回】と繋がっていますが、ここから読んでも大丈夫です。ゲーム内に出てくるものはあんまり出てきません。
 冒険者たるプレイヤーが行けないだけで、どの街にも生活の場はあるものだという妄想に基づいて描写しました。
SCREEN SHOT/©SQUARE ENIX


呼び声の柔らかさ

1

 ニムファーレには子供時分の記憶がない。気が付いた時にはザナラーンにいた。服のほかに唯一持っていた、血塗れの枝切ナイフに”NIMPHALE”と記してあったし、傍にいた大男にはニムファーレと呼ばれた。ニムファーレはこれは自分のことだと思った。当時既に歩けたし走れたし、何より立派な少年だった。まともなヴィエラならもう里を出ていてもおかしくない年頃だった。それからニムファーレは流れに流れてグリダニアにたどり着いた。その頃にはもう、母も師も憶えておらず、故郷の森がどこにあるのかさえ忘れ果てていた。今はそこで、銀枝屋ギンエダやという銀細工や銀食器を扱う商家で飼われている。

 ただ、今でも時折、『二パ』『二パ』と呼ばわる声を夢で聞く。声の主は男か女か、子供か大人かも判別できないし、その音が何を指しているのかも解らない。

 この夢を見た時は、ニムファーレの目覚めは早い。寝起きを共にするサンシーカーやガレアンを起こさぬように、足音を潜めて戸を開ける。グリダニアはまだ薄蒼い朝靄の中にある。

 ニムファーレが裏庭の井戸水を作業場の水瓶みずがめたたえてやると、水面に大きな耳のヴィエラが写る。ザナラーンでもグリダニアでも、ニムファーレは同族に会ったことがない。たまに同族の冒険者を遠くから見かけることがあるだけだ。

 欠け耳のサンシーカー、額の瞳が潰れたガレアン族、記憶を失ったヴィエラの三人で、今日も日がな一日、裏の作業場で商売物の銀を磨くはずだった。何せ三人とも、エレゼンの番頭ジジイから『お前たち、表店に出ようなんて思わんでくれ。精霊様のお怒りを買ってしまう』と、言い含められているのだから。

 陽も登りきった頃合いに不意に作業場の扉が開いた。普段は滅多に裏庭に来ない番頭が戸口に立っている。

「そこのお前。耳の大きいの、ああ、違う。そっちじゃない。一番でかい奴。こっちに来い」

 サンシーカーが『俺?』とでも言うように、切り取られたと思しき耳朶を指差したが、番頭からすぐに否定された。呼び立てられたのはニムファーレだ。

 そこからは、全く常ではなかった。まず裏庭から見える大きな屋敷に通された。寝所や作業場とは比べ物にならないデカさと複雑さだ。

「これ、おたなじゃないんスか。俺、入っても良いヤツです?」

「違う。ただの寮だ。表で働く者たちのな。余り勝手に入ってくれるな」

「へーい」

 たまにこの屋敷の勝手口から、職人ララフェルが裏庭に来ては銀細工の講釈を垂れたり、ヒューランの女中おばさんが菓子を寄越しに来たりしている。ニムファーレはそれを黙っておくことにした。告げ口するような義理もない。

 そして何のためかよくわからない部屋で、ニムファーレはグリダニアに来て初めて水浴びではなく湯に浸けられた。それから番頭は、見たこともないような服を持ってきては、ニムファーレにこれを着ろと言う。

「お前には英雄様の従者リテイナーになってもらう」

 扉の向こう側から番頭の声がする。

「リテイナー? 何やりゃいいんです?」

「帳簿のつけ方は知ってるな?」

「はあ、まあ、あのガレアンのおやっさんに教えてもらったんで」

「ああ、もう。正直、あいつの方が優秀なんだがな。今、あれを街に出すわけにもいかん」

「ところで、なんか布余ってんスけど」

 バン! と、ニムファーレが言い終わるか終わらないかのうちに乱暴に扉が開かれた。番頭はニムファーレを見るなり片手で頭を抱えた。

「お前はタイも知らんのか」

 そうして番頭はニムファーレからタイとかいう布切れを取り上げ、初めて着た服の襟に通し始めた。

「リテイナーは、雇い主に仕えるものだ。英雄様は年若いお嬢さんらしいからな。気に入られるよう、精々頑張ってくれ」

 あとは頭だな、と番頭は一人で呟きニムファーレを鏡の前に座らせた。ニムファーレはこれも記憶にある限り初めて、髪に油を引かれた。番頭は黙々ニムファーレの髪を梳る。その手つきは急いていて、櫛の歯が耳元に当たる。痛い。

「若旦那の悪趣味にも困ったものだ」

 番頭は溜め息を吐いた。ニムファーレは特に反応しなかったので、それは結果的に独り言になった。

 番頭も裏庭に来ないが、若旦那はもっとだ。ニムファーレなど拾われてすぐの頃に大屋敷に呼ばれて一度会ったきりだ。後は年明けに若旦那の名前で酒と肉の振る舞いがある。それだって持ってくるのは後ろに居る番頭だ。

(そういえば)

 ニムファーレは思い出した。

 かつて裏庭にいた尾も角もないアウラは、今年になっていくらもしないうちに番頭に呼び出されてから見えなくなった。あのアウラ相手には筆談しかできなかったから、ニムファーレは読み書きを覚えざるを得なかった。

「お前みたいなのはここいらにはおらんからな。英雄のお嬢さんには珍しかろう。英雄様は望まれて双蛇党にいらしたと聞く。お前さえ首尾良くやれば双蛇党や評議会にもお店の話が上るかもしれん」

 番頭は噛んで含めるように言う。表店に出るな、と言った時と同じ口調で。

 鏡の中に、首にリボンを括りつけられ、髪を結われたヴィエラがいた。

(それじゃあ、俺は珍しい貢ぎものか動く引き札かよ。セーレーサマだとかに祟られちまえ)

 ニムファーレは心底うんざりした。


2

 グリダニアの商店街はいつ行っても混みあっています。特に黒檀商店街と紫檀商店街を結ぶ木陰の東屋では、冒険者たちがマーケットボードでお買い物をしたり、作業台を取り出しては製作クラフトに勤しんだり、あるいは連れているミニオンを愛でたりしています。新しい幻具を買ったり、ほつれたローブを修理してもらったり、商店街で用を終えたフレカニ・チライキナが人の波をかき分けて東屋を進んでいると、彼女を呼び止める声がしました。

「フレカニさん、フレカニさん、ちょっと」

 フレカニが振り返ると、リテイナー雇用係のパーネルが手招きしています。フレカニはそのまま踵を返してカウンターに近づきました。フレカニはルガディンですから、グリダニアに暮らすエレゼンやミコッテたちよりずっと大きいのです。パーネルはフレカニに身を屈めるよう促し、声を潜めて囁きます。

「実は、名士街のお店から申し出があって。リテイナーを雇わないかって」

「私に、ですか」

 フレカニも思わず囁き声で聞き返します。パーネルはしっかり頷きました。

「フレカニ? なんの話?」

 フレカニの脛や背中を、ニサトゥニコロが登ってきました。

 冒険の最中に、パーネルさんから『あなたに会いたがっている人がいる』と乳母姉うばあねのニサトゥニコロを紹介された時には、フレカニは大変驚きました。そして今では、ニサトゥニコロは立派なフレカニ付きのリテイナーです。

「姉さん、大人、大人。私に登るのは子供の遊びでしょう」

「だって、ここが一番見晴らし良いもの」

 ララフェルのニサトゥニコロはその小柄さ故にすぐに雑踏に紛れてしまいます。肩の上にいてもらったほうが、はぐれずに済でしょう。パーネルさんはニサトゥニコロも話の輪に加えてくれました。

「リテイナーお一人で充分なら、聞かなかったことにしてください。お店は銀枝屋さんと言って、悪い噂のあるところではないんです。申し出を袖にしたとしても英雄の名に何かあるわけでは。いえ、冒険者ギルドの名にかけて傷はつけさせません」

 英雄。ザナラーンで蛮神イフリートを退けて以来、フレカニはそう呼ばれることが増えました。面映ゆい半面、人々の役に立てるのなら訂正までしなくてもいいか、とも思います。

「わたし、もう少しくらいならフレカニの荷物、預かってもいいよ」

「実は、姉さんに預かってもらってない荷物もいっぱいあるの。軍票にもベンチャースクリップにも余裕は、ある」

 乳姉妹は目を配り合い、頷きました。

「パーネルさん、お願いします」

「かしこまりました。どうぞよしなに」

 そうして現れたのは冒険者以外で見たことのない、ヴィエラの青年です。ゆっくりこちらに近づいてきます。

「アンタが? エーユー?」

 青年は憚る素振りもなく、上から下まで射抜くような金の眼でフレカニを見つめています。おかげでフレカニも青年をじっくり観察できます。

 大きな耳がキョロキョロと動いているのは、野兎と同じ理由でしょうか。青年もニサトゥニコロとよく似た意匠のお仕着せを着ています。なにか気になるのか、気に入らないのか、半端丈の袖を引っ張るように握りしめています。

(この人、警戒している? 私に?)

 ふと、青年と視線がかち合います。

「フレカニ・チライキナといいます。よろしくお願いします」

 フレカニは挨拶をし、頭を下げました。

「えっと、ニムファーレ、です」

 ニムファーレも頭を下げました。声音にどこか驚愕が混じったようにも聞こえます。

 それからは、仕事の話です。フレカニはニムファーレに荷物を預け、ある物はマーケットに売りに出し、ある物は商店街に引き取ってもらいます。ニムファーレはアイテムを一つ一つ確認し、何やら帳面に書き付けています。

 それから、古い幻具はニムファーレさんの好きに使ってください、と、言い渡しました。

「お下がりみたいで恐縮ですが、良かったら」

「じゃあ遠慮なく。で、商店街に売っ払った分がこれ。マーケットに出した分は買い手がつくまでしばらくかかるんで」

 ニムファーレは幾ばくかのギルをフレカニに差し出します。

「はい?」

 フレカニには意外なことでした。ニサトゥニコロからギルを貰った覚えがありません。ニムファーレの腕が宙に浮いています。

「あの、チライキナさん、アンタのモノ売ったんだから、アンタのもんですよ、これは」

「そうは言われましても、お財布に特に不足は無いので……」

「フレカニ、ギルも預かってもらいなよ。それもリテイナーの仕事だから」

 ニサトゥニコロが口を挟みます。フレカニは頷きました。

「ええと、売り上げは一旦ニムファーレさんにお預けしておきます。それから、これを」

 ニムファーレが手を引く前に、フレカニはベンチャースクリップを彼の手に握らせました。ニムファーレは二度、三度瞬きを繰り返し、手のひらの中を見つめています。

「これ、何です?」

「荷も軽くなったことですし、これで何か見繕って頂ければ」

「アッハイ」

 ニムファーレは振り返ってパーネルさんと二言三言交わし、東屋を出て行きました。

「無愛想な人ね」

 ニサトゥニコロがフレカニから降り始めます。フレカニは身を屈めて彼女に危なげなく降りてもらいます。

「私たち、あの人になにか失礼したかな」

 フレカニの言葉にニサトゥニコロは首を横に振りました。

 ニムファーレが警戒した理由が英雄の名のせいであるならば、名声も善し悪しだとフレカニは思いました。

 ――夜が明けるまでは。

 翌朝、木陰の東屋で会ったニムファーレさんは満面に笑みを湛えていました。朝日の元で見ると、彼の両頬から鼻筋にかけてそばかすが散っています。笑顔の中ではまるで戦化粧のよう。

「チライキナさん! これでいかがです?」

 渡された柔らかな粗皮を抱えて、フレカニは呼び鈴脇のベンチに腰掛けました。促せば、ニムファーレも隣に腰を下ろします。

 座るなりニムファーレは、ベンチャースクリップが結構なギルに化けたのだと、フレカニに教えてくれました。

「依頼があればすぐにでも出るんで。任せてくださいよ!」

 立っていてもフレカニの方が頭一つ大きいのです。座るとその差は更に広がります。ニムファーレの額に薄っすら汗が浮いているのも、耳裏の髪が毛羽立っているのも、ひどく黒目がちなのも、良く見えます。幻術士の、あるいはかつて薬巫女くすりみこの見習いだった頃の勘がフレカニに囁きます。

 ニムファーレはどこにどう行ってどうやってアイテムを調達して来たのか、滔々と語っています。

「ニムファーレさん、大丈夫ですか? どこか怪我してませんか?」

 これはちょっと普通ではない、とフレカニは踏みました。


「それで、ああ、帰りがけにダイアマイトに咬まれはしましたけど、大丈夫っス。こいつでぶん殴ってやったんで!」

 彼が振るって見せた幻具には、何かしら液体を浴びたような染みがついています。ダイアマイトの体液でしょうか。フレカニが使っていた時には無かったものです。

(それは何かをぶん殴るものではないけれど……)

「幻具があるならいいでしょう、ニムファーレさん。私、ケアルとエスナを教えます。次はこれで少し楽になるはずです」

「は?」

 フレカニはニムファーレが有無を言う前に、彼の幻具に自分の手を添え、ケアルを唱えました。エーテルの風が吹き付けます。ニムファーレの目は次第に金色を取り戻していきます。それと同じくして、困惑の色も浮かび上がります。

「どうしました? まだどこか痛みますか?」

 ニムファーレが反応を示すまでにたっぷり二呼吸分はかかりました。

「――ええと、痛くはないです。今は。すげー楽。てか、今、痛くなくなったんで、さっきまで痛かった、はず」

「なら良かった」

 フレカニはホッと息を吐き出し、幻具から手を離しました。そして、河岸を変え、紅茶川のほとりで腰を下ろして今度はニムファーレを促します。怪我も不調もありませんが、何度かお互いにケアルとエスナをかけ合いました。ニムファーレが流暢に詠唱できるようになるのを見届けて、フレカニは再びベンチャースクリップをニムファーレに渡しました。

「あの、今、先払いでお渡ししますが、出立は明日以降にしませんか」

「なんでまた? アンタ、ああいや、チライキナさんだって早く手に入る方が良いでしょう。怪我だって治ったんだし、もう自分で治せるし」

「フレカニでいいですよ。ニムファーレさんは痛みも判らないくらい疲れきっているんだと思います。これは魔法では治りません。休息が必要です」

「ええー……」

「倒れたら困ります。獣の皮や肉より、ニムファーレさんの健康の方がよっぽど大事でしょう」

 ニムファーレの渋い顔が奇妙に緩みました。『開いた口が塞がらない』そのものを、フレカニは初めて見た気がします。

「まあ……、アンタが、そう言うんなら……」

 ニムファーレは頬杖をついて顎を元に戻しました。彼がなぜ意見を変えたのか、フレカニには解りません。それでも、休む気になってくれたのなら重畳です。フレカニは立ち上がって手を差し伸べました。しかしニムファーレはそれを両手を振って断りました。

「そこまでしなくても大丈夫ですって。これでなんか旨いもんでも食って帰りますから」

 そう言ってはベンチャースクリップを放っては掴み取ります。

「本当にしっかり休んで下さいね。なにか持ってきて下さっても、明後日から先でないと、受け取りませんよ」

 彼がララフェルなら、フレカニは懐にかき抱いて彼の住み家を聞き出し、連れ帰って寝かしつけているところです。実際にはヴィエラですから、そうもいきません。

 結局、この日はここでお別れしました。

*-*-*

 ニムファーレがアンテロープの角を持って来たのは、あれから二日後のことでした。次の日にはマーケットに出品したモノに買い手がつきました。さらに次の日は、ニムファーレはどこまで足を伸ばしたのか、ドードーの笹身をフレカニに見せびらかせに来ました。

 そうして日々は過ぎていきます。ニムファーレは獣や、空を飛ぶものの翼や腱や肉を持って来たり、どこかダンジョンに潜り込んだのか、見たこともない武具や装飾品を携えて来ることもありました。

「アンタに聞かせたい話がゴマンとあるんだ」

 ニムファーレが砕けた調子で語る冒険譚にフレカニが耳を貸すことも、珍しいことではなくなりました。

 更にはニサトゥニコロもベンチャースクリップに興味を示したのです。フレカニは釣りをお願いしてみました。子供の頃には姉や里の子と一緒によく川魚釣りをしたものです。そうしましたら次の日には、両手いっぱいのザリガニとともにホクホク笑顔のニサトゥニコロが帰ってきました。

「都会は何かと入用だもの。ジャンドレーヌさん代とか」

 確かに、ニサトゥニコロの瞼や頬や唇に見慣れない紅が乗っています。

「姉さん、やどり木の呼び鈴を勝手に使ったの……」

 フレカニはジャンドレーヌさんに髪を切ってもらったり、化粧をしてもらったことがありません。少し前にジャンドレーヌからいただいた利用券も、荷物の奥にしまいっぱなしです。些か申し訳なく思っていたところです。乳母姉が美容師の呼び鈴を使うなら、良しとしました。

 そしてある日、カーラインカフェに銀枝屋の使いを名乗るエレゼンのおじいさんがフレカニを訪いました。ミューヌさん曰く、フレカニがここに来るまで毎日のようにカフェに来ていたと言います。

 おじいさんはニムファーレの働きぶりをこと細かく尋ねたので、フレカニはニムファーレさんはよく働いてくれていますよ、ご紹介ありがとうございます、と言い添えました。

 それから二人は当たり障りのない会話を続け、最後におじいさんは幻術士ギルドか双蛇党で儀仗幻具を使う予定はないか、と聞いてきました。フレカニは組織内では下っ端なので使うことはない、と話すと、おじいさんは丁重にお礼と、ニムファーレをよろしく頼みます、と言い残してカフェを去りました。

 明くる日には豊穣神祭壇でフレカニはおじいさんを見かけました。ニムファーレも、ひどく退屈そうにおじいさんの後ろを歩いています。二人の向かう先はどうやら幻術士ギルドのようです。フレカニは二人に声を掛けようかどうか躊躇い、その間にも二人との距離は開きます。結局、フレカニは踵を返して新市街に向かいました。フレカニにはフレカニの冒険があります。


3

「ねえ、フレカニ、お酒飲んでみない?」

 フレカニの定宿、やどり木のひと部屋には先程までジャンドレーヌさんが居ました。フレカニはニサトゥニコロの髪が魔法のようにくるくる変わっていくのを、整えられた寝台に腰掛けて楽しく見ていました。

「うん。カーラインカフェならお酒出してくれるね」

「うーん、そうじゃなくて、私の家の傍のお店」

 ニサトゥニコロはリテイナーになってすぐ、グリダニアにを求めたようです。

「それって、居住区ってこと? 市民の?」

「そう。冒険者はあんまり来ないでしょ、フレカニには新鮮だと思うな」

 色々試したわりにはニサトゥニコロの髪型は結局元のままでした。

「市民街のおみせは行ったことないな。楽しそう」

 今朝がたまでフレカニはシルフ族と架け橋を結ぶべく黒衣森じゅうを駆け巡っていましたが、それもひと段落しています。時間はたくさんあります。

「じゃあ、ニムファーレも呼ぶ?」

 いつの間にか、乳母姉は彼を呼び捨てにするほど仲良くなったようでした。フレカニが頷きかけた途端に、ニサトゥニコロは呼び鈴を鳴らします。ヴィエラの青年が颯爽と現れました。フレカニがざっと事の次第をお話しすると、ニムファーレは笑って口を開きました。

「あのさあ、アンタ、自分の立場わかってないみたいだから言うけど、アンタが雇い主、俺は従者リテイナー。無茶言われても断れないでしょ、特にこれで呼ばれ時には」

と、第二のリテイナーは呼び鈴を指差します。

 フレカニはじわじわと恥ずかしくなってきました。同じリテイナーとはいえ、一緒に育ったニサトゥニコロとは訳が違うことに今更思い至ったのです。ぱっと頬を覆うと、手のひらも顔も同じくらい熱くなっていました。

「あの、その、そうですよね。私ったら、ニムファーレさんをお友だちだと思ってしまって。すみません、無理強いする気はないんです。どうかこのことは忘れて、ニムファーレさんの好きに過ごして下さい」

 フレカニは頭を下げました。一息経って顔を上げると、ニムファーレは何とも複雑な表情をしていました。困惑したような。驚愕したような。あるいは泣き出す直前のような。視線こそフレカニに向いていますが、彼の心はどこか違うところに在るように見えます。

「ニムファーレさん? どうかしましたか?」

「ああ、うん」ニムファーレは頷きました。そして瞬きを一つ、二つ。

「悪かった。アンタに謝って欲しくて言ったわけじゃないんだ」

彼の心が戻ってきたようです。

「俺だって、別に、友だちの誘いを無碍にするほど人でなしじゃないし」

「そうですか、ではご一緒に」

 フレカニはニサトゥニコロに誘われて嬉しかったのです。そこにニムファーレも加わってくれるというのです。フレカニは柔和に微笑みました。それにつられたのか、ニムファーレも唇を歪めました。

 黒衣森の香気をたっぷり含んだ夜風にあたりながら、三人揃ってグリダニアの市民街をゆるゆると歩いて行きます。まだ薄明るい往来をニサトゥニコロがランタンで照らし、冒険者でさえ見逃すような辻に入りました。姉の案内が無ければ酒場には辿り着けなかったことでしょう。

 そこはカーラインカフェよりもバスカロンドラザーズよりも小さなお店でした。二つしかない四人掛けの卓の一つを三人で囲みます。まずはエールを三つくださいな、とニサトゥニコロが給仕に伝えます。その給仕は品書きを持ってきましたので、フレカニはニサトゥニコロに渡しました。案内灯の下、乳母姉に顔を寄せて品書きを読んでもらいます。

「お酒はね、エールにアクアヴィッテにワイン。お酒は初めて?」

「うん。初めて。ねえ、姉さん、食べ物は? ポポもちある?」

「初めてなら、ソーダ水か果汁で割ってもらった方がいいかもね。グリダニアにポポもちないよねえ、ここにもない」

 ニサトゥニコロは指先で品書きを一行ずつなぞりながら、これが串焼き、これは焼き魚、こっちはチーズ、果物、と一つ一つ声にしてフレカニに教えてくれます。

「ポポモチってなんだ? 初めて聞いた」

 給仕からジョッキを一つずつ受け取っては廻しながらニムファーレが問いました。

「まずは乾杯でしょ」

 ニサトゥニコロが促します。しかし彼女にはエールが並々と注がれた木製のジョッキは重すぎるようです。滑らせるように卓の中央に寄せます。

「じゃあ、乾杯」

 ニムファーレも自分のジョッキを寄せましたので、フレカニもそれに倣います。

「カンパイ」

 そして銘々に飲み始めます。初めて飲むエールはフレカニの舌には苦く、酸っぱく、微かに甘く、渇いた喉を潤します。

「ッハアー、堪んねえ。お姐さん、次スプリッツァーお願い」

 ニムファーレはもう一杯目を飲み干していて、給仕にジョッキを渡しています。

「それで、ポポもちというのは」

 フレカニが呟くと、ニムファーレは耳だけをくるりとこちらに動かして、それから顔を向き直しました。

「灰焼きにしたポポトを潰して澱粉を入れてこねて丸めて、油焼きにするんです。塩とバターで食べるの、私好きです」

「へえー、そんな料理あるんだ」

 ニムファーレは頷くのもそこそこに大ぶりのグラスを傾けています。

「他で見ないからわたしたちの里だけの郷土料理かもね。ニムファーレは? 何が好き?」

 ニサトゥニコロが聞きました。ニムファーレは手を止めて、グラスをテーブルに置きました。

「ええっと、まあ、だいたいなんでも」

「嫌いなものも無いんですか?」

「うーん。たぶん。食ったことないやつは解んないけど」

「じゃあ、肴は適当に頼んでいい? フレカニはポポトでしょ」

 フレカニは頷きました。

「了解、了解。お姐さん、アクアヴィッテ、ソーダ割でお願い」

 ニムファーレは頷き、カウンターの給仕に向けてグラスをかかげました。

「フレカニはどうする? エールはどうだった?」

「ちょっと苦かった」

「今度はワイン飲んでみない? 若くて酸っぱいの」

「姐さんがそう言うなら」

  盆に酒やら料理やらを載せた給仕に、ニサトゥニコロはオーダーを言付けました。ニムファーレは盆からタンブラーを受け取ります。フレカニと目が合うと、ニムファーレは目を細めました。

「俺のことはいいから、アンタたちのことを聞かせてよ。姉妹なの? ルガディンとララフェルで?」

「私、おばあちゃんに拾ってもらったんです。赤ん坊の頃に」

 フレカニは串焼き片手に話し始めました。里のこと、薬巫女のおばあちゃんのこと、巫術のこと、旅立つ時のお話しを。

 ニサトゥニコロには知りも知った話なのに、それでも、うんうん、と何度も頷きながら聞いています。ニムファーレもさかずきを重ねながら、フレカニの方向に本当に耳を傾けています。

 ……

「それで、切った髪の一束はまじなぶくろに入れました。今でも荷物に入れています。」
「マジで? 人体の一部でしょ? 荷物の中に? ウッワア~」
「そうですよ。巫術ですから。自分の分け身が一番です」

 ……

「お見送りの時にはおばあちゃんが煙管キセルを吹きかけてくれて。祝福なんです」

「いやいや普通侮辱の仕草でしょ、それは。フレカニちゃん、拾いっ子だからってバカにされてない? 大丈夫?」

「師匠をバカにしないで。草の組み合わせが肝心なんだから」

「マジかよ、やべー草とか入ってない?」

「旅の祝福ですから、滅多な物はき入れませんよ」 

 ……

 話している間じゅう、ニムファーレが思いもしない茶々を入れるのです。フレカニは驚いたり、ちょっぴり困ったり。そして、だんだん面白くなってきました。里では普遍的な旅の祈りや呪いは、ニムファーレにはひどく珍しく見えるようでした。

「ああ、俺も、同族探しに行ってみてえ」

 気付けば酒場の中は満席でした。片付けの追いつかないテーブルの上には、ジョッキとグラスとタンブラーの林ができています。ニムファーレはだらりと腕を伸ばして林の隙間で頬杖をつきました。長い耳は日照りの作物のように萎れてしまっています。

「ヴィエラの人たちはどこに住んでいるんでしょう? 私、冒険者のヴィエラさんしか知らないんです」

 フレカニは手酌でサングリアをタンブラーに注ぎ入れました。ニサトゥニコロと分け合って二杯目、カラフェに残っているのは、ワインに漬かった果物ばかりです。タンブラーを傾けると、話し込んだ舌の上に果汁の甘い香りが広がります。

「オサードってとこだってさ。銀枝屋に居た頃、ガレアンのおやっさんに教えてもらったんだよ」

「ニムファーレさんはそのオサードから来たわけではないのですね」

「そう。一番古い記憶は砂、砂、砂……」

 ニムファーレは記憶を探るためなのか、目を伏せました。ヴィエラの、ニムファーレの年のころは、フレカニには検討もつきません。今は、とても年上のように見えます。

「フレカニー、次は何飲むー?」

 ニサトゥニコロの頬にも化粧ではない朱がのぼっています。

「今のは美味しかった」

「じゃあ、シードルにしよ。林檎、好きでしょ」

 フレカニは頷きました。ニサトゥニコロに肩を寄せて品書きを眺めると、姉の指先に”Ciray-Kina”の頭二文字が見えます。シードルというお酒はどうやら”Ci”から綴るようです。

「姐さん、シードル二つ、アー、やっぱり三つ」

 ニムファーレがオーダーする声につられて、フレカニは顔を上げました。目が合うとニムファーレの口角が緩んで、中途半端な笑顔になりました。目が据わっています。こうして見ると、彼はつい先日まで少年だったようにも思えるのです。

 給仕がテーブルを浚い、新しいグラス三つと乙女鯉のバタードフィッシュをテーブルに見目よく並べて去っていきます。

「アンタ、ひょっとして読むのは得意じゃない?」

 ニムファーレがグラスを傾けながら問いました。

「ええ、実は。子供の頃にはおばあちゃんが、熱心に教えてくれていたんです。けれどあの頃は、あんまりよく見えなくて。これぐらい大きく書いて貰えれば読めたんです」

 フレカニは片手を開いて見せました。ルガディンの手ですから、片方だけでもララフェルの顔がすっぽり覆えるくらいです。ニサトゥニコロは逐一頷くごとに、細く切って揚げたポポトを食んでいます。

「地面の上とか、お盆に灰を撒いて、一文字ずつ書いてもらって自分の文字だけはなんとか覚えました。でも、そんなに大きく書いてある本なんて、どこにもなかったんです」

「だからわたしが、いっぱい読んで聞かせてあげたんだから」

 フレカニは頷きました。ニサトゥニコロが熱心に読みあげてくれたから、今、数えることには不自由がないのです。

「そう。物語も教本も、姉さんに読んでもらった」

 フレカニに懐かしさがこみ上げて来ました。おばあちゃんの家にあった僅かばかりの本の、表紙革の手触りが指先に、灼けた紙の匂いが鼻の奥に蘇ります。

 フレカニがグラスを煽ると酸っぱい林檎を液体にしたような酒精が喉を引き締めます。林檎というよりは大好きなローズヒップの方が似ている気もします。今年は、里に成る実を食べられそうにもありません。

「へえー、意外。あんなに色々幻術使えるのに……、次はなんにする?」

 ニムファーレは空けたグラスの脚をくるくる回しています。

「では今のと同じものをお願いします。自然の力を借りるのに、読み書きは必要なかったものですから」

「あんたたち飲むの早すぎ……」

「お姐さん、スタウトとシードルお願ーい!」

 ニムファーレは耳を立たせて給仕を呼び、テーブルに向き直りました。その間、フレカニは興味深くニムファーレを視線で追っていました。彼はまず耳を動かしてから首や顔を振るようなのです。視線が合うのが一番最後。

「あのさ、バカにしてるわけじゃないけど、そんなんだったら、旅日記はどうしてる? 冒険者は日記つけるもんだろ」

「日記……?」

 フレカニは揚げ魚を嚙み嚙み、少し考えました。目の前にシードルがたっぷり入ったグラスが置かれます。甘酸っぱい林檎の風味が川魚をさっぱりと引き立ててくれます。

「ああ、紀行録。それでしたら、地図を描いたり、絵を描いたり。それに、押し葉とか押し花を挟んだりしています。見返せば、どんなことがあったのか、よく思い出せますよ」

「ああ、そっか。書き入れるのは、別に文字じゃなくてもいいのか」

「押し花したの? 初耳。見せて見せて」

「『やどり木』に置いてあるの。姉さん、見に来る?」

「行く行く。ねえ、フレカニ、砂漠にも花は咲くの?」

「それがね、咲くの。ウルダハのあたりなら、砂漠というより荒野で、立葵タチアオイかな、鬼百合オニユリかな、花にも砂漠の名前があると思うけど、似た感じのが」

 話し始めたら、ザナラーンの昼の暑さや夜の寒さ、乾いた風を、フレカニの頬が思い出し始めました。少しチリチリします。砂漠で焔神と対峙してから幾ばくも経っていないのですから。

「鉱山の周りにはサボテンっていうトゲトゲの植物が生えてた。ローズヒップよりも茎が太いの。面白くて絵に描いたから、姉さん、それも見て欲しいな。街の中にも植木鉢や花壇がたくさん。どれもこれも丁寧に手入れされていて……」

 視界の端で何かが揺らめきました。フレカニはニムファーレが耳をそばだてたのだと思いました。

「アンタ、行ったんだ? あんなところ」

 ニムファーレの声色はいやに湿って震えていました。

「はい。飛空艇に乗って。あっという間でした」

 振り返って、フレカニは目を見張りました。ニファーレの目からボタボタと涙が溢れています。

「ニムファーレさん? 大丈夫ですか?」

「悪い。こんなのやりたかったわけじゃない。あの、ヒッ」

 続きはしゃっくりに紛れて聞こえません。ニムファーレは半端に緩んだ笑顔のまま片手でまぶたを抑えましたが、それでも頬は乾きません。

「飲み過ぎでしょう、大丈夫じゃないかも」

 ニサトゥニコロも心配そうに椅子を降り、フレカニに登って来ました。フレカニは姉を膝に乗せました。先の席よりは、ニサトゥニコロはニムファーレに近くなります。

「そう。そう思う、あんたたちが、せっかく、しゃべってたのに、悪い。もう、帰るから、かえ」

 ニムファーレの肩がぐらりと揺れました。そのまま彼は滑るように椅子から離れ、床に座り込んでしまいました。椅子が大きな音を立てましたから、他の卓やら給仕からざわめきが立ち上がりました。フレカニたちに視線が集まります。

「姉さん、お会計」

 フレカニが懐の財布を渡すとニサトゥニコロは頷き、フレカニの膝から降りて給仕の方へ。フレカニも席を立ちました。

 ニムファーレに視線を合わせても、泣き濡れた目は、見開かれている割にどこも見ていないような気がします。表情の削げ落ちたニムファーレは、ひゅうひゅうと喉を鳴らしています。

「おねえさん、お連れさん参っちゃった? 鬼哭隊か瞑想窟から人を呼ぼうか?」
 
しゃがみ込んだフレカニに、頭上から声が降り来たりました。

「ありがとうございます、それには及びません。私が幻術士ギルドに属していますから」

 フレカニが顔を上げると神勇隊のエレゼンが腰を屈めて立っていました。装備で分かります。

「……ああ!」

 フレカニには見知った顔ではありませんでしたが、あちらはフレカニを知っているようです。神勇隊がくるりと店内を見渡すのを見て、フレカニも向きを直します。

「ただの大虎オオトラだよ。見世物じゃないんだから。ほら、散った散った」

 背後から人払いの声が聞こえます。

「ニムファーレさん、息を吐けますか? ゆっくりでいいんです。吐けば吸えます」

 フレカニはニムファーレの背中をさすってやり、手本のようにフレカニも深呼吸を繰り返します。ニムファーレの息遣いは、次第にひゅうひゅうからふうふう、しばらくすると、すうはあに変わってきました。

「ほんと、わるい。もうだいじょうぶだから」

「全く違います」

 呂律はあやふや、背中に廻した手を離せばニムファーレはすぐに倒れてしまいそうです。

「すておいてくれ」

「しません。酒場で何言ってるんですか」

 ニムファーレは耳をのけ反らせました。まるで子供が嫌がるよう。彼を抱え直して、そして、フレカニは困りました。ニサトゥニコロが会計を終えてこちらに向かってきます。

「姉さんどうしよう、私、こんな大きな人を抱き上げたことない」

「は?」

「そうでしょうよ。ララフェルじゃないんだから。あんたたちの体格差なら、肩を貸すとか、担ぐとか、背負うとかあるでしょ」

「なるほど。ニムファーレさん、いいですか、少し揺れますよ」

「え、ちょっとまっ」

 フレカニはさっとニムファーレを負ぶい、店を出ました。後ろからランタンを持ったニサトゥニコロがやってきて、すぐに並びました。陽はとっくに暮れていますから、案内をするランタンの明かりがフレカニにはたいへん頼もしく思えます。

「ニムファーレ、あんた、どこで暮らしてるの? おうちは?」

「ねえよお、銀枝屋はとっくにおんだされたし、ここんとこずっと探索してたし」

「……わかりました。ニムファーレさん、やどり木にもう一部屋とります。そこで休んでください。アントアノさんなら都合してくれるはず」

 リンクパールを使いグリダニアの冒険者ギルドに連絡をつけると、ミューヌもアントアノもフレカニの申し出を快諾してくれました。それから、少し歩き、フレカニは口を開きました。

「ごめんなさい。私が探索を頼んだんです。ニムファーレさんから、お家を探す時間も取り上げてしまった」

 フレカニの背中でニムファーレが身を捩りました。

「ヤべえー。砂ア。砂から血の匂いがする」

「砂? ここは土の上ですよ」

  ——見渡す限りの砂。砂漠の昼。岩陰に座すアマルジャ。その尾の影に隠れるヴィエラの子供。「いやだ、やりたくない!」子供の叫び声。子供の目の前にヒューランの男たち。(なんて悪意のある目付き!)夜。篝火の傍にララフェル。血塗れ。震えて涙を流す子供の手には血の滴るナイフ(子供にそんなことさせないで!)——

「フレカニ? やっぱり重い? 誰か呼ぶ?」

「マジできもちわるい、ヤバい」

  気付けばフレカニはグリダニアの路地に戻っていました。前から後ろから声がします。足元は土を踏む柔らかな感触を伝えてきます。暗い路地の中で少し先にランタンだけが煌々と光っています。

「大丈夫。姉さん、急ごう。ニムファーレさん、もう少しですから」

 フレカニはニサトゥニコロに続きます。

(今、超えた? 超えてしまった……)


4

「ぐえぇー」

 ニムファーレは吐き戻しました。戸閉めの音を聞きつけたかのように、やどり木の一部屋に入ってすぐのことでした。フレカニがニムファーレの腕を解く暇もなかったので、床も、フレカニの着ているローブもしっちゃかめっちゃかです。

「ウワー……、掃除道具借りてくる。フレカニも着替えなよ」

「うん、姉さん、お願い」

 背後で扉のてを聞きながら、フレカニはニムファーレを抱え直し、肩を支えました。ニムファーレは自分の首を支える元気すらないようです。

「ウェッ、ごめん。こんなの、やりたいわけじゃ……」

「誰だって望んで不調になりたいわけじゃないでしょう。休みましょう」

 寝台にニムファーレを横たえると程なくして、呻きにも似た寝息が聞こえてきました。今のニムファーレは全く健やかではないので、寝息さえ整ってはいません。

 ニサトゥニコロと入れ違いで、フレカニは一旦自室に戻って着替えました。ミラージュプリズムがありますので、鏡に映る姿はほとんど変わりません。ニムファーレの部屋にとって返すと、ニサトゥニコロが既に掃除を始めていました。そこにフレカニも加わります。吐瀉物で濡れた砂を集めて、消毒薬を撒いて、拭き掃除。

「なんだか酔いが醒めちゃったね」

 モップを片手にニサトゥニコロが言いました。

「そうなの?」

 床を磨きながらフレカニが問います。

「そうなのって、フレカニ、酔ってないの?」

「うーん。たぶん。いつもと全然変わらないの。どうしてこれで心を乱す人がいるの?」

「ああ、じゃあフレカニはお酒に強いんだわ。けっこう意外」

 掃除を終える前に、ニムファーレはまた胃の腑の中をぶち撒けましたが、今度はバケツがあるので、惨事にはなりません。 

「砂を焼くのはもう明日にしよう。わたしはもう帰る。フレカニもここに部屋あるんでしょ?」

「ここに居る」

 フレカニは首を振りました。

「ニムファーレさんには看病が必要だと思う。姉さん、私の部屋使って? 夜道、そんなに安全じゃないよ」

「あらそう。フレカニがやりたいなら止めない。夜明け前には代わってあげるわ」 

 お部屋借りるね、お休みなさい、と言い残して乳母姉は去りました。 

 やどり木ではフレカニと同じ等級の部屋をとりましたから、内装はフレカニの部屋と変わりありません。呼び鈴やミラージュドレッサーが設えてあります。きっと、トイボックスの中には時間潰しの可愛らしい遊戯盤が幾つも入っているはずです。たくさんの鉢植えに花が咲き、備え付けの泉がたっぷりと水を湛え、部屋全体を心地よくしっとりさせているのも、愛用の部屋と一緒です。違うことといえば文机ふづくえの上に紀行録がないことと、窓の外に広がる景色くらいです。

 フレカニは寝台の前に跪きました。ニムファーレの眉間には皺が寄っていますが、寝息は先程よりは幾分安らかです。

(私から血の匂いがしないはずがない)

 フレカニだって冒険者です。ミオトラグスやシープの返り血を浴びたことなど、数え切れません。里に居たころでさえ、食べるために鶏を絞めていたのです。獣たちの血の匂いを思い出したら、それはすぐに超えた時に見た、ナイフや、真っ赤に染まった砂に重なりました。

 目の前にいる人はとても凄惨なところから生き延びて来たのだと思うと、胸が痛みます。そして、この痛みすら、小さなヴィエラが受けた恐怖と嫌悪には遥かに及ぶものではない気がします。

(……強い人)

 フレカニは囁き声でエスナを詠唱しました。青いエーテルのスフィアがニムファーレに触れて弾け、彼の目元がすっと穏やかになりました。

(私が英雄に相応しくなくても。雇い主に相応しくなくても)

 蛮神問題に対処する、とはみずかエアロで切り裂き、ストーンの礫を投げ、アマルジャ達の祈りを妨げることだったのです。祈りの先に坐す神性の焔を退けても、信徒テンパードは戻ってきませんでした。

(それでも、癒やす力も、超える力もあって使わないのは、違う。)

 雨が降ればいいのに、とフレカニは思いました。雨が寄り添ってくれれば、不安も後悔も洗い流されていきそうです。

 窓を開けると、星空が見えます。この星空は、葉をよく繁らせた枝々の陰に切り取られていますから、満天の、とは言えません。星の海、とは言い難い星々の小さな谷地やちがきらきらと瞬いています。雨は降りそうにもありません。


5

 眩しい。まぶたを閉じていても、燦々と光が目に刺さる。ニムファーレは光から逃れるように寝返りを打とうとした。

「ギェッ」

 頭を微動させた瞬間に激痛が走る。あまりの痛さに声が出て、その声にもビックリして、思わず目を開いてしまった。真っ白くて、なにも見えない。

 頭痛に障らないように恐る恐る息を吸うと、微かに甘ったるい匂いがする。花だ。これは園芸ギルドあたりで酔い潰れたな、とニムファーレは思った。違う。花壇の傍ならもっと芬々と花と土の匂いがするはずだ。ここは風も吹かない。室内。寝かされている。顎先まで毛布が被されている。 

 ようやく目が慣れてきて、板張りの床にラグマット、の壁には大きな泉が水を噴いているのが見えた。今まで散々呼び出された、雇い主の定宿だと気づいた瞬間、ざあっと血の気が引いた。

 頭痛も眩暈も構わずに飛び起きたのはいいものの、衣服の釦が粗方外れているのにすぐに気づいた。袖やら裾やらを踏みつぶしながら、非常に半端ななりで、ニムファーレは寝台から転がり落ちた。寝台の縁にもたれかかってボタンを留め直す。ざっと見渡す限り、部屋に一人っきりだ。

(なんでこんなことになってんだ?)

 未だに酒気の抜けない頭をなんとか回して必死に昨晩の記憶を手繰り寄せる。

あるじはいつになくよく喋ってて、俺は楽しく聞いていた。……はず。けっこう不気味な儀式の話で、だいぶ茶化した。……ちょっとまずかったか? まあいい。憶えてる。それから? 日記の話しはした? しなかった?)

 思い出せない。どうやってここに来たのか、何故雇い主は今、居ないのか。

(あほみたいに酔っ払って、挙句に、主の、それも、女の子の部屋に押し入った? 俺はそういうことをするのか?)

 記憶がない以上、何も信用できない。

(何をした? やっちまった? 雇用の危機では? いや、雇用の問題だけで済むのか?)

 背中がじっとり寒くなってきた。さっきまで毛布にくるまってぬくぬくしていたのが信じられない。あれこれ考えを巡らせていると耳だけがノックの音を捕らえた。慌ててはいどうぞ、と声を上げた。

 雇い主だった。ニムファーレは戸口に向かって膝を折り額を床に付けた。

「誠に申し訳ございませんでした!」

「えっと、どうしましょう?」

 主の足音に混ざって何かガチャガチャ音がする。

「あの、ニムファーレさん、まだ酔っ払ってますか。立てないようならお手伝いしましょうか」

 伏せた耳の真横から主の声がした。しかもいい匂いまでする。鉢植えの花より濃くて爽やかなやつが。ニムファーレはそっと目玉だけを動かしてみた。フレカニがいる。彼女も両膝をついて、自分と同じくらい頭を下げてこちらを見ている。

「大丈夫ですか? 伏せるほど具合が良くない、とか」

「ああいや。そんなことは」

 フレカニが背中をさすり出したので、ニムファーレは慌てて頭を上げた。頭の中が酒に漬かっている気がする。やっぱりちょっと気持ち悪い。

 フレカニは立ち上がってサイドテーブルの水差しから水を汲み始めた。いつの間にやら寝台傍のテーブルには水差しだの果物だのが載っている。

「酒毒の癒し方、姉さんと二人で色々聞いて回ったんです。ミューヌさんとか、ナオさんとかに。里だと塩杏しおあんずを煮て蜂蜜と澱粉で練ったのが効くんですけど、ここにはそういうものがありませんから」

 フレカニからどうぞ、とカップを渡され、ニムファーレは素直に口をつけてみた。ただの白湯なのに異様に舌にも喉にも快い。干からびていたのだ。

「熱いお風呂が良いらしいんです。実は私もさっき行ってきました。ちょっと入り組んだところですから詳しい場所はアントアノさんに聞いてくださいね。お湯代は私の名前で付けてください」

 渇きが癒えたら頭痛も少しましになってきた。ニムファーレはゆるゆると立ち上がり、空のカップにまた並々と水を注ぐ。飲み干す。沁みる。旨い。

「えっと、あのさ、俺が謝ったの、無視しないで」

 ニムファーレがくるりと振り返れば、フレカニは寝台に腰掛けている。珍しく雇い主を見下ろす格好になってしまった。

「そうは言われましても、ニムファーレさんが謝るようなことは、なにもないはずです」

「悪いんだけど、俺、全ッ然憶えてなくてさ、何したか教えてもらっていい?」

「あの、本当に、ニムファーレさんが心配されるようなことはなにも」

 フレカニの目が泳いだ。ニムファーレは確信した。

(絶対に、なんか、やらかしてる……!)

「なんでもいい。教えてくれ。アンタ嘘つかないだろう。言ったこと全部信じるから」

 フレカニは視線をニムファーレに戻し、一度、深く頷いた。

「わかりました。そこまで言うのでしたら」

 そして彼女は昨夜の事を話しだした。聞けばニムファーレには全く身に覚えのない赤っ恥の数々。フレカニが言い渋った事に、ニムファーレは合点がいった。人に言わせていいことじゃなかった。

「誠に申し訳ありませんでした……」

 てのひらを冷たくしたり、ひたいを火照らせたりしながら再び頭を下げようとしたニムファーレを、フレカニはとどめた。眼鏡の奥で彼女のまぶたがすっと細くなった。ニムファーレには、フレカニがはにかんだように見えた。

「あの、本当に気にしないでくださいね。ローブだってずっと着たきりだったので、洗濯のいい機会です。私はお風呂をいただいてさっぱりしていい匂いがします。姉さんが香油を分けてくれたんですよ。ニムファーレさんは昨夜ゆうべより元気に見えます。良いことばかりでしょう」

 ニムファーレはフレカニに並んで座った。もう立ってられない。言葉が出ない。自分の耳が信じられない。

(ゲロ浴びて良いことって言う奴、この世にいるのか?)

「なにそれ、なに? 俺、砂漠で野垂れ死んでんの? これって死ぬちょっと前に見るとかいう夢?」

「大丈夫ですよ、生きていますよ」

 ニムファーレは耳を畳んで抱えて、回らない頭で思考を巡らせた。

 言葉でもいい、態度でもいい、これが夢か現実か、分かる方法は?

「あーもう、あのさ、『ニパ』って言ってもらってもいい?」

「はあ、にぱ、ですか」

「もういっかい」

 ニパ、ニパ、とフレカニに夢で聞く言葉を何度も言ってもらう。

「現実だよ、こんちくしょう」

 ルガディンの丸く柔らかい声色は、夢で聞く声とは似ても似つかない。イントネーションすら違う。夢なら全部一緒くたのはずだ。

「もうわかんねえ、夢じゃないならなんでアンタ、俺に都合の良いことばっかりするんだよ、初めて会ったときからずっと。俺に頭は下げるし、労うし、幻術は教えてくるし、こんな……世話まで焼いて」

 ニムファーレはぱたりとった。寝台が痛む頭を受け止めてくれる。

「特別都合よく振舞ったつもりはありません。でも、ニムファーレさんは大事な仲間です」

 フレカニの声が天井から降ってくる。少し困惑した声色をしている。それから、またノックの音がした。

「それに、ほら、ニムファーレさんを心配してるの、私だけじゃないですよ。出てもいいですか?」

 ニムファーレが頷くと、ふわっとフレカニが寝台を離れる感触がした。

「どう?」

「大丈夫そう。立って歩いて喋ってる」

「だから言ったでしょう」

 ニサトゥニコロの声までする。また寝台の隣が沈む。ルガディンではなくもっと軽いやつ。ニサトゥニコロが寝台に立ってニムファーレを見下ろしている。

「どうせ頭が痛くて吐きそうなんでしょ」

「……ああそうだよ、大正解だ」

「二日酔いに効くっていうスープ、カフェで拵えてもらったの。机に置いといてあげる。養生すれば治るんだから、寝転がってればいいわ」

 ニシシと、ニサトゥニコロの目も口も浅い弧を描く。

「そーする」

 ニムファーレにはもう冗談を言う気もない。ニサトゥニコロが寝台を降りる気配がしてニムファーレはまた寝台に潜り込む。背中で女子のきゃらきゃらした話し声を聞き流しているうちに眠たくなってきた。生活しに行く、と言ったのは雇い主だったか、同僚だったか。

*-*-*

 借りた鍋でローブをぐつぐつ煮て、焚火の周りで汚れた砂を焼いて。昼過ぎの翡翠湖畔には、乳姉妹ちしまいの他にも、身の丈以上の大鍋で何かを煮るミコッテや、盥に足を入れ脛まで泡だらけにして踏み洗いをするエレゼンなどがちらほらと見えました。「ここは洗濯広場だから」と、ニサトゥニコロの言った通りです。フレカニは焚火の傍で立て膝をつき、物珍しさに湖畔の人々眺めていました。

 ニサトゥニコロは自分の洗濯物を火の周りに干しています。ルガディンの手絞りで水切りしましたから、きっとすぐ乾くでしょう。それを終えると乳母姉はフレカニに相対して火に当たりました。

「生活、楽しいね」

「フレカニはずっと冒険してるからね。こういうの久しぶりでしょ?」

 フレカニもニサトゥニコロも頷き合います。不意にニサトゥニコロがフフ、と息だけ笑い声を立てました。ローブの煮上がりを示す砂時計は、上の瓶に半分以上残っています。

「昨日はとっても大変だったんだけど、わたしね、ちょっと懐かしかったの」

 その言葉で、フレカニも思い出しました。乳母姉のとと様は、それは腕の良い狩人でしたが獲物の肉や毛皮をすっかりお酒に換えてしまうところのある人でした。

「ああ……。私、昔、麓の街までおじさんを迎えに行ったよ。後でおばあちゃんにすごく怒られたけど。『子供に酔っ払いの世話させるな』って」

 まだ空にダラガブが輝いていた頃の話です。おじさんは既に酒場で眠りこけていましたから、フレカニが抱き上げて里まで帰りました。ララフェルのお酒で温まった体温や夜の凛と寒い空気を、フレカニは今でも容易に思い出せます。

「あったあった。師匠、同じことを言いにウチに来たよ。怖かったあ」

「知ってる、知ってる。懐かしいね」

 おばあちゃんは火のついた煙管を振り回しながら乳母姉の家に向かいましたから、よっぽどだったのでしょう。後におじさんはカルテノーの戦いに赴き、そして帰ってきませんでした。

「フレカニ、元気?」

 ニサトゥニコロがフレカニの脚を抱きしめました。

「砂漠から戻ってきてから、フレカニはずっと元気無いでしょ?」

「うん。元気。姉さんにはなんでもわかっちゃうね。ありがとう。子供の頃から私、色んなものに守られてた。大丈夫、ちゃんと思い出した」

 砂時計の砂がさらさらと流れていきます。フレカニは、里で生活していた頃と比べれば今はひどく遠いところにいる気がしました。

「あのね、姉さん、お願いがあるの」

*-*-*

 ニムファーレを、座れるようならカーラインカフェで食事にしませんか、と誘いだしたのはフレカニです。呼び鈴ではありませんから、ニムファーレさんの好きに決めて下さい、とも言いました。ニムファーレは、いつまでも病人みたいに扱わなくてもいいから、と誘いに応じてくれました。

 カフェではニサトゥニコロが既に円い大テーブルに着いています。三人銘々に食べたいものをオーダーして、同じテーブルを囲みます。

 フレカニはベイクドピピラから骨を外しながら口を開きました。
 
「私、また明日から冒険します。姉さんにはまたザリガニを捕ってきて貰おうと思うの。釣り餌にするから」

「うん。わかった」 

 ニサトゥニコロが家禽のグリルを切り分けつつ頷きます。

「それで、ニムファーレさん、いったん探索は休みませんか」

 ニムファーレはちぎったパンを湯気の立つスープボウルの中に取り落としました。

「……罰?」

「いったいなんの? そうではなくて、おうちを探しませんか。探索から帰って来たときは、屋根と壁のあるところで休みましょう」

「ミューヌさんに言えばいいわ。リテイナーのも斡旋してくれるし」

「探索始めたらほとんど帰って来ないのに?」

 ニムファーレはパンかいを匙で掬い取りました。

「それであれば、やどり木に部屋を。アントアノさんに所定の手続きを取ってください。これは命令だと思ってくださって構いません」

 一息に言って、フレカニもピピラに口をつけます。皮はパリパリ、身はしっとり、バターの香り豊かな完璧なグリル具合です。

「アー、ハイ。命令なら」

 ニムファーレは普段通りに耳も肘も立てていて特に気にした風でもありません。ニサトゥニコロも付け合わせの揚げポポトにソースを絡めています。フレカニと目が合うと、乳母姉はニッと口角を上げました。合図です。フレカニは魚を飲み下して。フォークを置き、ニムファーレに向き直りました。

「あの、それで、これは、命令ではなく、お願いなんですが」

「まだなにか」

「ニムファーレさん、私に文字を教えてくれませんか」

 ニムファーレの匙が止まりました。ニサトゥニコロが悪戯っぽくフォークの先でニムファーレを指します。

「最初はわたしが頼まれたんだけど、わたしならすぐ代読とか代筆しちゃいそうだからね。それであんたをお勧めしてあげたの。筆跡もいけてるし、帳簿もわかりやすいし、いいんじゃない」

「こういうの、リテイナーさんにお願いする分を超えていますから、ニムファーレさんは断っても大丈夫です。屋根と壁を見つけたら、また探索をお願いします」

 フレカニは気恥ずかしさを隠すように胸の前で両手を激しく振りました。

 ニムファーレはしばらくニサトゥニコロを見たりフレカニに耳を向けたり忙しそうにしていました。しまいには腕を組んでなにか考えているようでした。

「えっとさ、昨日、旅日記の話はしたっけ?」

 フレカニは膝に手を置いて頷きました。

「はい、しました」

「字じゃなくても描き残すものはたくさんある、って言ってた?」

「はい、言いました」

「じゃあ、なんでまた。冒険に読み書きってそんなに必要?」

 今度はフレカニが考える番でした。首を傾げてニムファーレを見下ろします。それから、フレカニは微笑みました。

「せっかくよく見えるようになったので、おばあちゃんに手紙を書きたいんです」

 *-*-*

 さて、これより後に英雄の卵、フレカニ・チライキナの旅の荷には、『ニムファーレの宿題』が増えます。紙束を糸で綴じた小さな冊子は、ニムファーレの思いが籠められた、フレカニへの祝福の一つです。少なくともフレカニはそう思っています。

【おわり】

【ExEp.1】 【ExEp.2】