『呼び声の柔らかさ』ExEp.2【裏庭にて】
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『呼び声の柔らかさ』ExEp.2【裏庭にて】
銀枝屋の裏庭は静かなものです。今日の声らしい声は昼餉の前にサンシーカーのクアッシェくんが「寂しくなっちゃったね」とひとこと言ったきりです。僕はそれに首肯で応えましたから、本当にそれだけです。
夕方に作業場までやって来たのは、新しく入った小僧さんでもなく——僕はまだ名前を知りません。菓子かなにかで釣りましょう——、細工師長のトトキリさんでもなく、番頭のダージェンスさんでした。非常に珍しいことです。
「今夜、ニムファーレが来る」
ダージェンスさんはそれだけ言って我々が磨いた細工物を持っていきました。
「ねえ、おやっさん、出ていった奴が訪ねてくるの、初めてじゃない?」
クアッシェくんの欠け耳が嬉しそうに立ち上がります。
「そうですねえ」
これには僕も少々驚きました。ダージェンスさんの言葉尻を聞くに、彼は快く思ってはいないようですが。
ニムファーレくんは今はグリダニアの冒険者ギルドに所属していると聞き及んでいます。銀枝屋もグリダニアに店構えがあります。今年の降神際が明けてから出ていったリョシュウさんと違い、ニムファーレくんがここを訪うこと自体は容易でしょう。ただ、彼がこの裏庭に未練のようなものがあったとは思えません。
かくして、天に星の瞬く頃にニムファーレくんが寝所までやって来ました。
「久しぶり。ちょっと見ない間にすげえ懐かしくなってんのな」
ニムファーレくんはラヴァ・ヴィエラです。楽しそうに耳を振っています。相変わらず耳朶の御し方一つ知らないようです。彼に師がいたことがあったんでしょうか。来し方は問いません。問えば問われますから。僕としてはそれは避けたい。
ニムファーレくんは手土産に葡萄酒と乳酪を携えて来ましたから、素焼より少しマシな器に注ぎ入れて酒宴を催します。寝所に卓などありません。床に布を敷いて三人揃って車座になりました。クアッシェくんが提案して、遠くリムサ・ロミンサで働くリョシュウさんにも陰膳を捧げます。
「なんか悲しいことあったの?」
乾杯もそこそこにクアッシェくんが尋ねました。
「は? 違うって。なんで?」
「ニムファーレは酒飲むといつも泣くから。泣くために飲んでるんじゃないの?」
「エエー、クゥおまえ、それは俺のこと勘違いしてるって」
ニムファーレくんの表情がざあっと曇りました。誤魔化すように傾けているマグはリョシュウさんのです。それだけ動揺しているということは、きっと外でも何かやらかしたんでしょう。敢えては問いません。
「それじゃあ、ニムファーレくんは我々とただ酒席を共にするために来たんですか? まさかそんなわけないでしょう」
「ああ、うん」
ニムファーレくんはマグの中身を飲み切り、乳酪を齧りつけ、また手酌で葡萄酒を注ぎ入れました。ついでにクアッシェくんのマグにも。しかしそれで間が持つわけではありません。
「ええっと、実は、雇い主に字を教えることになったから、教え方を教えて欲しいんだよ。俺が知ってるうちで一番頭いいの、おやっさんだもん」
「構いませんよ。教え子さんはどんな方なんですか?」
「ルガディンで、女で、俺に異常に都合がいい……?」
僕は頭を抱えました。知りたかったのはそういうことじゃない。
「僕が間違ってました。質問を変えます」
それでようやく、欲しい答えに辿りつけました。
……
「絵や地図を描けるのであれば、ペンの扱いから教える必要はありません」
「子供ではないですし、喋ることに不足はなさそうです。習得している語彙の綴り方から始めてみては?」
「冒険者で世界中を飛び回っている? 講義よりは演習を重視したほうが良さそうですね」
……
ニムファーレくんは杯を呷りながら、持参した帳面に何やら書きつけています。時折、「ゴイってなに? エンシューってどうやりゃいいの?」などと聞いてくるので、それも説明します。
「ずいぶん熱心だね」
すっかり蚊帳の外だったクアッシェくんが呟きました。ニムファーレくんのペンが止まります。
「都合のいい女だって言ったじゃん。俺も都合よくしないといけないんじゃないかと思ってさ」
意外です。ニムファーレくんから今まで聞いたことのない口調と雰囲気でした。
ニムファーレくんの姿勢に熱が籠っているのは、酩酊しているせいでしょう。そうさせているのはアルコールだけではなさそうです。
結局、教授法の講義は夜半までかかりました。ニムファーレくんは我々に遅くなったことを詫び、クアッシェくんはひどく別れを惜しみました。
「また来るから、な。な」
ニムファーレくんはクアッシェくんの背中をさすって宥めています。
僕はニムファーレくんに囁きました。僕もだいぶ杯を重ねています。
「今夜の話を心して聞くように。そうすれば僕もラヴァ・ヴィエラの師です。まさか、ガレアンの身でなれるとは」
ニムファーレくんはいたく複雑な表情をして裏庭を後にしました。
彼が度々言う『都合がいい』にはもっと相応しい言葉があることを、彼はまだ知らないようです。指摘はしませんでした。これは彼自身で気付くべきです。