明夜行

この物語はフィクションです。

 スイールがトラムを降りる頃には、九層目は『夜』になりかけていた。オマツリまでもうすぐだというのに、超電導ゴンドラが《層》の天井近くにまだ浮いていた。ゴンドラがゆっくり天井を渡り、そこに遮光フィルムが貼り重ねられる度に『夜』は深みを増していった。カフェテラスのテーブルにも、今日は燭台があしらわれている。樹脂製の軸と炎を模した形のガラスの奥でフィラメントが明滅している。
 光源が偽物の蝋燭だけでは常昼の世界で育った少女には少々心もとない。彼女は膝に乗せた鞄の中を探って端末を取り出した。透過ディスプレイに【19:18】の時刻表示とともに、
『遅れるかも。ごめんね、もう少し待ってて』という光る文字列が流れて消えた。溜息交じりにそれをテーブルに置いて、スイールはウエイターを呼びつけた。例えここに本物の炎がなかろうと、カフェのスタッフたちも今宵限りは色とりどりのランプをトレイに載せている。
 九層目は咲き誇る睡蓮のように中央に向かって緩く傾斜がついている。テラスからは、花托にあたる場所に設営されたオマツリのためのライブステージもよく見えた。その上をフロントライトを点けたトラムが横切っていく。
あの赤いラインが《層》の中を行き来するグリッド線、あの緑色のが層の外周からセントラルを繋ぐ窓際線。メッセージの送り主がトラムに乗って来るのなら、下層からのスパイラル線からやってくるはずなのに、水色のリボンを五本見送っても待ち人は来なかった。
 ブン、ブブブン、ブン。気だるいスラップベースの音がする。ライブが始まった。二人で一緒に見ようね、と約束した《ルージュ・エ・ノワール》の出番までにはまだ時間がある。
 あらゆる路線、あらゆる行先のトラムを見送って三十一本目、水色ラインのトラムがターミナルに停車した。
 トラムが何十人と乗客を吐き出そうとも、スイールにはわかる。宵に馴染んだ暗い色合いの見慣れたコートがぼんやり光を帯びているようにすら、見える。おろしたてのハイヒールブーツで、停車場までまた降りて行くには結構な勇気が必要だった。それで手を振ってみたら、彼には通じたようだった。ステージへ向かう人々の流れに逆らって、雑踏の合間を右に左に避けつつ駆け上って来る。
「ご、ごめんね、待った、でしょう?」
「トラム見てるの結構楽しかったから、待った気はしないよ。それよりカナタ、大丈夫?」
 カナタはテーブルに手をつき、肩を激しく上下させている。スイールが背中をさすってやれば、カナタは首を縦に二度振った。
「何か飲む?」「み、水……」
 スイールがオマツリ限定サンセットソーダを手渡し、カナタはそれを呷った。それで落ち着いたようだった。大きく息を吐くのと、椅子に座るのをほぼ同時にこなし、そして誰とも喋らずに端末で注文も清算も済ませてしまった。
「これを……」
 カナタはフードを脱いだ。サイドに一筋だけ入れた細い編み込みが、ぼんやりフラッシュピンクに光っている。光っているのだ。結い始めに挿したヘアピンが。
「フ、フ。アッハハハ! どうしたの、これ! ステキ! カワイイ!」
「ずっと作ってた。ラッピング、間に合わなかった。ごめんね。電池がいつまで持つのか、もうわかんない」
 そう言ってカナタはスイールの手を取り、恭しくヘアピンを掌に載せた。
光るヘアピンは透明なチューブの中にガラスビーズと発光ダイオードと思しき光源を詰め、それを曲げて花を象っている。
「電源は? どうやって絶縁してるの?」
「うん。花の裏のとこにスイッチ……」
「これね!」
 スイールはヘアピンを矯めつ眇めつし、光らせたり、させなかったりした。万華鏡の如く乱反射するビーズの隙間から、給電線の赤いPVC被膜が見えた。
「ねえ、つけてみて。そのために作ったんだ」
 カナタが言った。脇に置かれた淡い琥珀色の液体を満たしたグラスがもう汗をかいている。
「……うーん、そうね」
 髪に挿してしまえば、もう見えない。いつまででも眺めていたかった。しかしカナタが既に執事よろしく端末のカメラを起動させ、鏡代わりにこちらに向けている。
 スイールの髪と化粧は、この日のために気合いを入れて整えてある。端末に映る管花はそれを赤と金が混じった色で優美に照らしだした。
「まあ、カワイイこと」
「俺もそう思う。ああ、もっと明るいうちに来ればよかった」
「ふふ。後でじっくり見せてあげる。ね、行こうよ。せっかく、オマツリの夜なんだから」
 スイールは立ち上がった。カフェのお仕着せにカナタのグラスの中身をテイクアウトのカップに移し替えさせて、カナタの手を引いた。
「あら」「ハハ……」
 コートのポケットから出させたカナタの指先も光っている。ヘアピンと同じ意匠で、指輪にしてある。こちらは青と銀。
 一旦ステージからは遠ざかってセントラルから外周に向けて手を取り合って歩いていく。通路の壁にも遮光フィルムが貼られ、反射性建材ではなくLEDランタンやフィラメント燭台で採光している。時折、天井から暗幕がゆったり降ろされているところがある。あの向こうの小路は、いつものように天井の発光パネルと薄青い壁と床に照らされているのだろう。
 地上の夜を模した方の通りには露店が立ち並んでいた。二人は宝石と見紛うばかりの瓶詰の飴玉を売る店に足を止め、溶けていく蝋まで再現したイミテイション蝋燭を扱う明り屋の前で画像を撮り、お二方の相性を見て進ぜよう、などとのたまうDNA辻占い師を冷やかした。
「ステキね」
「いやあ、ありがとう、お嬢さん」
 カナタにかけた言葉は、オマツリエリアの端で、デジタルサイネージの中でゲリラライブを敢行するミュージシャンが拾った。彼は驚いたスイールを認めて、ニヤリと唇を歪めた。インタラクティブ配信らしい。どこか、ここではないスタジオが背景に映っている。彼が洒落た仕草で脱帽すると、遮光フィルム上に送金コードが示された。左右を眇めても、振り返っても、人々が持つ携帯光源の白やオレンジ色ばかりがスイールの目に入る。青と銀色に輝く指輪が見当たらない。
「二人できたはずなのだけど……」
 端末にコードを読ませながらスイールは問うたが、ここに現身もないミュージシャンが知るはずもなかった。
 来た道を取って返すついでにメッセージを送ってみたら、『あかるいとこがおちつく』と、返信があった。夜の緞帳を一枚一枚めくっては覗いて三つめの路地。カナタが蹲っていた。
「カナタ、大丈夫? 大丈夫じゃないよね? あたしどうしたらいい?」
 スイールは駆け寄り跪こうとしたが、カナタが手を払ってそれを止めた。
「ふく、よごさないで……」
「なっ……!」何をそんなことを、などと言う資格はスイールには無かった。今着ている総レース仕立てのワンピースドレスは、カナタが作ったからだ。スイールを隅々まで採寸し、レースを編むところから始め、フリルを縫い、リボンをあしらった。ミシンを操作しながら、これをスイールが着たらどんなにカワイイことだろう、と熱っぽく語るカナタを憶えている。
 なるべくカナタの言うことを聞いてやって、広がるスカート部分を脚に巻きつけて、それが床につかない程度にスイールは膝を曲げた。きつく紙カップを握りしめるカナタの指先に触れれば、それはあっさりと解けた。カナタの手は冷たく湿っていて、少し震えていた。常昼のストリートで指輪が色褪せて見えた。
「あたしにできること、ある?」
カナタは力なく首を振った。「どうせいつもの人酔いだと思う……」
「薬は?」「のんだ」「わかった」スイールは頷いた。「効くまで待つわ」
 そしてそっと立ち上がった。カナタがスイールの脛に頭をもたれた。離した体温を名残惜しむかのようだった。そこはレザーテクスチュアのブーツに包まれているのに。
「硬くない?」スイールは少し笑った。
「へーき」下から、とても四つも年上とは思えない、子供じみた声がした。
 どうしようもなく明るかった。たった布一枚隔てただけでライブの音楽も、露店の喧騒も、夢から醒めたように遠くなってしまった。路地の突き当りで、団地か何かのエントランスを示す荒いプロジェクションマッピングがちらちら瞬いている。この静けさはここで暮らす人たちのものなのだ。カナタが洟をすする音が、いやに耳に残る。
 スイールは息を吐いた。カナタに気付かせないよう、ゆっくり、小さく。それは怒りにも似た溜息だった。
どうしてカナタは具合が悪くなっても、向こう側にいくらでも人がいるのに、誰にも助けを求めなかったんだろう、あたしにも。どうしてカナタはこんなところで明りと静寂を借りないといけないんだろう。オマツリにどれだけお店が並んでいても、ステージやストリートに音楽が溢れていても、そういうのを二人で一緒に味わっても、カナタの具合を良くするものは、ひとつもなかったの?
「カナタ、立てる?」
 返答はなかったが、カナタは時間をかけてゆるゆると立った。スイールは所在無げに降ろされた手を取り、フードの中を少し見上げて、なるべく力強く聞こえるように、言った。
「夜を見に行きましょう。あんな偽物の夜じゃなくて、本物の夜を」
 カナタの濡れた瞳に何かが灯った。
 夜を見に行くためには窓際線のトラムで終点まで行かなければならない。トラムを待つ間にスイールは、夜にする? ライブにする? それとも帰る? と、小首を傾げてみせた。意外なほどはっきりと、夜がいい、と返事が返ってきた。その割にカナタはトラムに乗っているあいだじゅう、自分の爪ばかり見ていた。
「こういうのって、勝手に入っていいの?」
 終点から中層まで続く《階段》の降り口まで歩いてきて、不意にカナタが呟いた。
「歩いて《層》を渡っちゃいけない訳ないじゃない。『国家墜落の危機には避難経路ですよ』って、習ったでしょう?」
「俺、あんまり学校好きじゃなかったから……」
 スイールは何かを言う代わりにカナタの袖を引いた。《階段》の壁や踏板は特に光ったり反射したりもない。隅にマグライトやフロアランプなどが点在していた。許可のない照明の設置は罰金刑をも課されてしまうのに。そういう不法照明を誘導灯にしてゆるく螺旋を描きながら二人は降りて行った。
 この国は空に浮かぶ氷山ような形をしている。試験でそう答えよ、と教わっただけで、スイールはこの国を外から眺めた事も、本物の氷山すら見たことがなかった。社会科の教科書に載っていた国家全景図は、カマキリの卵鞘を思わせた。これなら本物を見たことがある。植物園の昆虫展で。
層と層を繋ぐストリートは《踊り場》だとか《中層》だとか呼ばれている。そこには見渡す限りに夜があった。外縁にぐるりと透過素材の《窓》を嵌めて外の世界を一望できる。端末を窓にかざせば、もともと天体観測用の施設だった由がAR表示されたことだろう。そのため照度はほぼ無いはずなのだが。
「すごい……」
 《階段》を抜けた途端、カナタは吸い寄せられるようにふらつく足取りで窓辺に近づいた。すぐ上でオマツリをしているせいなのか、はたまた不法照明の置き主たちなのか、《踊り場》は無人ではなかった。誰もが誰かと非常灯をお供に仲睦まじくしている。彼ら彼女らの邪魔をしないよう、彼ら彼女らに邪魔されないよう、窓の向こう側に心をとろかす風情のカナタを支えるように腕を絡めて、スイールは地上に繋がるエレベーターの入り口を二つ過ぎ越した。
 八層に降りる階段の近くで敷物代わりにカナタがコートを脱いで差し出し、揃いのアクセサリを光源に、二人は並んで腰を下ろした。
「ヒールって本当に歩くのに向かない靴ね」
「うん……」生返事が返ってきた。
 《窓》の向こう側はよく晴れていた。下に雲一つなく、洋上で船舶と航空機が行き来するためのトランスポーターまで見通せた。港湾部に超大型客船が停泊している。あれまるごと一つの国らしい。これもニュースの中でしかスイールは知らない。
 例えば、どうしてこの国が空の中に浮いているのか、スイールは歴史の授業で習ったことを諳んじてもよかった。あるいは、プラネタリウムで聞いた解説を披露しても。しかし、どれも《窓》に両手も額もべったりつけて外を見詰めるカナタには相応しくない気がした。あの眼差しは、もう何か月も前に植物園で一緒に花を眺めた時とよく似ている。
(なるほどね)スイールは得心した。あの時のアウトプットがこの逆さ薔薇のドレスや光る花束なのだ。……多分。
窓際。星空。元気なカナタ。枯れない花。ここは愛しいもので満ちている。
「ごめんね、スイ。ライブ、約束したのに。また守れなかった」
星空に飽いたのか、カナタが低く囁いた。
「ううん。いい。ルージュなら配信もあるし。そうだ、見ようよ、今」
約束を守らないのは今に始まったことじゃないでしょう、という言葉を呑み込んででも、この愛しさを《ルージュ・エ・ノワール》パンクなナンバーで彩るのは、スイールには物凄くステキなことのように思えた。
「あたしたちだけのオマツリね」

【了】 
 

以上の作品はヘッズ一次創作アンソロジーに寄稿したものです。ヘッズ一次創作アンソロジー『メガロシティの生活』は2020年9月27日、関西コミティア59にて頒布されました。web掲載にあたって紙の原稿から少し表現を変えてあります。