三秒間のレプリカ
「レモン、空にしたら勿体ないよ」
席をひとつあけた右隣から話かけられて、串切りの冷凍レモンを食んだまま顔を向けた。二十四時を回った居酒屋のカウンター席で、男はわたしと同じように、飲み干したレモンサワーのジョッキグラスだけを卓上に置いている。
「ナカだけおかわりできるから、レモンはとっときなよ」
くつろいだ様子で片肘をついて微笑む男の頬が、酔いをまといながら緩んでいる。歳はわたしより、一回りほど上に見える。
ナカ。レモンサワーの中身である焼酎と炭酸だけを指すそのメニューを、本当に知らずにいると思って親切で声を掛けてきたのか。
それとも、そんなのはただの口実か。
実を食べ切ったレモンの皮を小皿に置き、年齢にきちんと見合ったカジュアルな出立ちをした男を眺めながら(何パーセントかしら)と値踏みする。カウンターの中から「ああ彼女、いつもですよ」と、アキラさんが声を上げた。
「ポコちゃんレモン好きだから、食べちゃうんすよ」
笑いながらタッパーの酒盗をスプーンで掬って、アキラさんが小皿に手際よく盛りつける。
「お客さんは、ナカのおかわりでいいっすか」
アキラさんに訊かれた男が「うん」と、人懐こい顔をこちらに向けたまま答えたのを見て(75パーセントってところ?)初期値の見当をつけて、ニッコリと笑み返す。
人が自分にどれくらい好意を向けているのかを、いつもこうして測ってしまう。
その数値は体力のHPゲージの形で表され、わたしの目にはARの映像みたいに、相手の頭上に合成映像よろしくぼんやりと浮かんで見える。ただ隣り合わせただけの見ず知らずの男に興味も関心も無いけれど、残量75パーセントの好意は、わたしを安心させてくれた。
「アキラさん、わたしもナカください」
声を掛けて、カウンターの中に向き直る。アキラさんの頭上に浮かぶ、常に残量30パーセントのゲージを眺めながら、ついさっき、同じ名前の人の家で90パーセント越えの好意を確認してきたことを思いだす。
◇
今日は会社の創立記念パーティーに参加していたのだった。
会が終了したのは二十二時過ぎで、個々で流れていく二次会には誰からも誘われなかったので駅に向かい、改札にICカードをかざすとピピッと言う電子音が喧騒の中でやたらクリアに響いた。どうしてなのかは分からない、改札が開いた瞬間(章くんに会いたい)と唐突に思い、冗談みたいに強烈に胸が締め付けられた。
最後に会ってから、もう一年くらい経ったかしら。
記憶を巡らせながら改札を通過してまっすぐ階段脇に進み、電話を掛けると章くんはすぐに出た。すぐに出ると思って掛けたし、開口一番「泊めて欲しい」と言えば、よほどの事があったに違いないと勝手に汲んで、親切にされるだろうと思った。断られることなどあり得ない。むしろ電話を切った後、章くんは急いで部屋の掃除などを始め、わたしに何か振る舞おうとしてきっと冷蔵庫の中身を確かめる。見なくたって、分かる。その冷蔵庫には絶対に、新鮮なレモンが今も入っているに決まってる。
わたしのことを、そんなふうに扱ってくれるのは、世界中で章くんだけ。
好意のHPゲージがゼロになった人たちだけがうごめいていた創立記念パーティーで、まるで透明人間みたいに過ごした三時間の記憶を消す。
<ごめんなさい、二次会にも参加してくるわね>
会社の人たちと同じく、ゲージの残量が限りなくゼロと化した夫にLINEを送り、言葉だけは丁寧に綴られた快諾の返信を確認してスマホをしまった。
特別扱いを受けたいわけじゃないの。
わたしは、わたしのことを「普通」に受け入れてほしいだけ。
言い訳じみた言葉を心に浮かべながらホームへと続く階段をのぼり、タイミングよくやってきた山手線に乗り込んだ。乗り換えを一度して、懐かしい駅に降り立つと、ほとんど満タンに近いHPゲージを掲げながら、ごく落ち着いた様子で手を振る章くんが、改札の向こうに立っていた。
「遅い時間だから、一応迎えに来た」
なぜか申し訳なさそうな顔つきで笑う章くんの顔を見て、大きく胸が高鳴った。その場所に心臓があることを、それが鼓動をうち続けていたことを、一年ぶりに思い出したような気持ちがした。
夜道を並び歩いて、付き合っていた頃と家具の配置の何も変わらない部屋に上がって、章くんが寝起きをしているベッドを背もたれにローテーブルの前に座り込み、昔のようにパスタを作る後ろ姿を見つめて、わたしは章くんに、どうしてほしかったんだろう。
食べても落ちないベビーピンクのリップをきちんと塗って。
肌の白さが際立つネイビーの、袖の無いサマーニットを着ていたことをラッキーだと思いながら、暑くもないのにカーディガンを脱いで鞄にしまって。
何の落ち度もない夫のことを、悪者に仕立てあげて。
あなたは下心を持っていても手を出してきたりはしないはずだ、なんて、わざわざ口に出したりして。
パスタを食べたりコーヒーを飲んだりしながら、本当は頭の中で、何回も何回も章くんに押し倒されていたけど、それをわたしは望んでいたのかな。
もしも本当にそんなことが起こって、そして最後まで行ってしまったら、その行為が意味することに、わたしは怖気づかずにいられた?
章くんに見送られてタクシーに乗り、放心しながらスマホを確認すると<おやすみ。先に寝ます>と言う夫からのLINEが一時間前に届いていた。思わずカッとなったけれど、怒りの理由も矛先も、そもそもなぜ自分にそんな感情が湧いているのかも何ひとつ分からない。
それで、帰宅前に頭を冷やそうと家の最寄駅でタクシーを降り、わたしは馴染みの居酒屋に寄ることにしたのだった。
◇
「なんでポコちゃんなの?」
アキラさんがナカを足したレモンサワーをカウンターに置くと、グラスを手にしながら、ごく自然に男が席をひとつ詰めて訊いてきた。アキラさんが(大丈夫?)と様子を伺うようにわたしを見て、さりげなく男を指差しながら首を傾げる。
「いいです。一緒に飲むことにします」
30パーセントの好意が減らないよう柔かにアキラさんに伝え、かんぱい。自分からグラスを触れさせた。75パーセントの方の好意も当然減ってはいないだろう。うまく立ち回れた気がして、ひとり勝手に悦に入る。
「普通」の交流をするためには好意が必要になるのに、わたしに向けられた好意は増えるということが無く、なぜか必ず、だんだんと減ってしまう。減り尽くしたあとは関わることが出来なくなり、その人数が増えると人の輪に入れなくなっていくけれど、それは疎外とは少し違う。HPゲージのゼロは「嫌い」ではなく「いてもいなくても同じ」なのだ。
「ポコちゃんは、アキラさんが昔飼っていたシーズーの名前だそうです。わたし、顔が似てるんだそうで」
男に説明をして、レモンサワーに口をつける。
レモンが凍っていた一杯目よりも、溶け出した二杯目の方が果実の酸味がきちんと香って、レモンサワーらしい味がする。
「僕もシーズー飼ってた。昔流行ったよね?」
「そうでした?」
「流行ってたよ、僕んちのシーズーもかわいかったよ。ポコちゃんの顔、タイプだなぁと思って見てたんだけど、そういうことかぁ」
のどかに言われ、報われたような気持ちで男を見る。ゆるくパーマのかけられた男の黒髪が、流れるような癖毛をした章くんの、見た目よりも硬い髪質を連想させた。ふと、パスタを食べるわたしの正面に座っていた彼の、左耳にかかる髪先にワックスが白く残っていたことを思い出す。わたしのような女のために、章くんは身なりまで整えてくれたのだ。鏡をきちんと確認する余裕もないくらいに、きっと慌てて。
切なさが立ち込め、それからはっきりと罪悪感がわき、苦しさを紛らわすように男の側頭部に手を伸ばした。左耳にかかる髪を細い束にしてつまみ、ゆっくりと髪先にすべらせる。
「ワックスが、残ってましたよ」
微笑んで言い、指先をおしぼりでそっと拭う。
この人の髪は簡単に触れるのね。章くんの髪は、触れなかったのにね。
確かめるように思い、胸のうちを騒がせたまま、ふたたび自分のグラスに手をかける。親しげな笑顔を向けていた男がふうんといった顔つきで眉を上げた。
「あのさぁ、ポコちゃんてさ、友達いないでしょ」
突然、思ってもみない方向から言葉を投げられて固まった。言い当てられて真っ白になった頭を慰めるように、章くんの顔がぽっかりと浮かぶ。そう、章くんは友達だ。章くんだってわたしのことを友達と言ってくれた。元カレや元カノではなく、わたしたちは「友達」になることにしたのだ。
「いますよ」
「それって、女の子?」
「……男の人ですけど。わたし昔から、女友達っていないんです。なぜか嫌われちゃうし。それに、女のひとより、男のひとといる方がラクですし」
「まぁそれは、なんていうか、ある意味当たり前じゃない?」
「え?」
「基本、表面的な付き合いだもん。本命以外の異性との関係って。表面的な付き合いにならざるを得ないというか。だからそりゃ、楽でしょ。本質的に競争したり比べたりしなくて済むし。なんなら友達って建前の元で軽く好き合うと言うエンタメ要素だってある。楽だし楽しいよね」
飄々と言われて、絶句した。章くんやわたしの気持ちを馬鹿にされたような気がして、グラスをつかむ手に力がこもる。そんなんじゃないです。ほとんど無意識に呟いて、残量75パーセントを守ることもすっかり忘れ、レモンサワーに目を落としたままむきになって反論した。
「あなたは、そうかもしれないですけど。わたしにとって彼は友達ですから。誰が何と言おうと」
「へえ。僕は異性の友達いないから分かんない」
「そうですか。かわいそうですね」
「え、ぜんぜん? だって彼女がいるし。僕は異性とは恋人として付き合いたいタイプなんだよねぇ。仕事仲間として親しい女性はいるけど、友達ではないかも?」
「そうですか。興味ありません」
「ポコちゃんってさ、その友達のこと普通に好きなんじゃない? いいなぁ。甘酸っぱいな。好きなうちは友達とか言わないほうが健全だと思うよ。いっそ付き合っちゃえば」
最終的にほとんど寝言のような滑舌で話し始めたので顔を上げ、隣を見てみると男はカウンターに両肘をついたまま目をつむって、本当に眠り始めていた。
「ねえ、だからレモン、空にしたら勿体ないよ」
そのまま脈絡なく同じ話題を再度口にしたのを聞いて、
(なんだ。最初からただの酔っ払いだわ)
そう思ったら急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、ふ、と小さく笑ってしまった。
「そのオッサン、寝たんすか?」
キッチンの締め作業を進めながら小声で言い、アキラさんがくつくつと肩を揺らしている。
「ラストオーダーになるけど、まだ飲みます?」と訊かれ、首を振りながらグラスの中のレモンに手を伸ばした。解凍された果物の、本来の強度をうしなった頼りないやわらかさに指が触れた瞬間、タクシーでの別れ際に章くんとした、短い握手の感触を思い出す。
もしかしたら。
ふと合点がいった気持ちで、レモンに口をつけて齧り吸う。わたしは章くんに、ただ手を握ってほしかっただけなのかしら。呆然と思いながら、凍らされ、それから溶けて柔らかくなった、偽物みたいなレモンを食べ尽くす。
一年の時間をかけて、さまざまな言い訳を並べて会いに行って、空々しい話題や嘘を散々ふりまいて。
それだけの労力が必要であるのに、そしてその労力は年々増していくのに、わたしは七年が経ってもまだ、章くんから離れることができないでいる。
たった三秒、握手をするために。
たった三秒、愛されていると感じるために。
たった三秒、手を握り続けた先にあったかもしれない、けれど一生歩むことはない、章くんとの未来を感じるために。
「ねえ、ナカだけおかわりできるから、レモンはとっときなよ」
性懲りも無く繰り返す、好意を測るゲージのすっかり消え失せた男に「知ってるわ」くすくすと笑いかけて、レモンの皮を小皿に重ねる。
章くんとの友情も愛情もレプリカであることを、わたしはきちんと知っている。
けれどそのレプリカが今のわたしを生かしていることも、心から分かっている。
レモンに濡れた指を拭って、ジョッキグラスに手をかける。一杯目よりも果実の香るレモンサワーは、けれどナカのおかわりを繰り返すうちに、香らなくなっていくんだろう。
だから、あと少しだけ。
レモンの味が、ほんとうにしなくなるまで、あと少しだけ。
祈るように思いながらジョッキを傾け、まだきちんとレモンの香るお酒を、ひといきに流し込む。
(了)
本作は、あやしもさんの「レモン」という作品を元に書かせていただいています。
そしてシロクマ文芸部にも参加させていただいています。