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『無能な上司』とか『クソ上司』とかのツイートが気になったので書いてみた。
最近、ツイッターでみる「優秀な上司の下で働けば、やる気が出て頑張れる。結果として成長できる。」という意見、気になったので書いてみました。
10数年のサラリーマン生活の中で、部下と上司の両方を経験した、その立場で言うと、
「優秀で尊敬できる上司の下なら、もっと成長できるのに~」と嘆く部下
「優秀で素直な社員の多い部署なら、目標到達できるのに~」とボヤく上司
両者は本質的には同レベルだと思う。
部下にとって、『自分が成長が出来ない=上司の資質に問題』であり、
上司にとって『部署の目標が未達=部下の能力不足』というなんだろう。
要するに、『他力本願』なんだ。
おそらく「うちの部署はダメなヤツばっかでさー」なんて居酒屋で愚痴っている格好悪い部長さん達の多くは、自分が若かりし部下の頃に「俺の上司は最悪。仕事の振り方が下手でさー」なんて不満をタラタラ言って、自分の不甲斐なさを上司の采配に責任転嫁していたんじゃないかと勘繰ってしまう。
この上司批判と部下批判って、発言する主語が入れ替われば、実は双方の働き方も組織も良くなる。
「上司として、部下のモチベーションを上げることができれば、もっと彼らは成長できるのに」
とか
「部下として、上司の方針をもっと理解して動ければ、部署の営業成績に貢献できるのに」
なんて考えられると素晴らしい。
上司ー部下の関係において、「上司 ( あるいは部下 ) として、私はこうあるべきだったな」というお互いの自己反省。本来、組織でそれぞれの役割に責任を持って働く大人の姿は、結果に対して内省する姿だ。
「自分は何が出来たか。」
「次はどうすべきか。」
双方で、自己反省することなく、結果責任を相手に求める。これはやってはいけないことだ。ましてや「自分にとって都合の良い存在でいること」を相手に求めるなんて社会人としては言語道断だ。
「私は、上司(部下)として、こうあるべきだったな」という本来は自己反省すべき部分を相手に求め、過度に批判すると、それはパワハラであり逆パワハラになるんだ。
「アイツ、進捗遅いな。足引っ張んなよ」と罵る上司
「無能な上司の仕事の割り振りがテキトーで、やる気が出ないんだよな。」と愚痴る部下
彼らの言動はハラスメントそのものだ。
多くの会社組織には、優秀な人なんてそうはいない。人材の流動性が高くなった現在では、『専門性はあるが、マネジメントは初めてで上手く出来ない』とか、『他業種から転職してまだ社内文化に慣れない』なんていう人材はザラだ。会社組織っていうのは、今あるソースで上司-部下の双方が認め合って働き、組織として結果を出すことが求められているんだ。『他力本願』の姿勢で自己利益を追及する場ではない。
「無能な上司と仕事しても成長できない」と声高に主張している脱サラインフルエンサーの方々。彼らの多くは、起業家やベンチャー企業を賞賛しているけど、実際の起業家やベンチャー経営者の多くは、自己成長を他人や環境の責任にはしてこなかった人達だろう。『組織には、尊敬出来ない人や優秀でない人もいる前提』で仕事をし、それでも結果を出し続けてきた人たちではないだろうか。
「尊敬できる上司の下で働ければ~」と自己成長を上司の能力や人間性にゆだねている人は、今度もし自分がリーダーとして組織の成果に責任を持つ立場になった時、
「今のチームはダメなメンバーばかりだから、結果が出せない」
「もっと優秀な部下のいる部署だったら~」
と他力本願の言い訳をする姿が目に浮かぶ。
そりゃそうだ。
だって、自分の成長やスキルアップに対して自分で責任を持てなかったヤツが、組織の結果に対する責任なんて持てるはずがないよね。
ブラック職場やパワハラを我慢する必要はない。うつ状態になるまで仕事を抱え込む必要はない。職場の非効率さを忍耐力でカバーすることも良くない。自分らしく仕事できる環境を求めることは否定しない。
でも、『尊敬できる上司』とか『優秀な部下』なんて希少な人材を求め、それが得られなかったからといって
「上司に恵まれなかったから、成長できなかった」
「部下に恵まれなかったから、営業目標に到達できなかった」
と主張するのは責任転嫁で他力本願の言い訳そのものだ。
大人としてダサい。