自己は生きていても良いのか?優生思想と絡めて
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描きました。
なぜ描いたかという話をさせて頂きますと、
自分はいつも、気が付くと「バズりもしないし仕事にもなってない、ただの絵を量産し続けていて、恥ずかしい」「昔、何百、数千、一万もフォロワーのいた人物は今では三万、五万と数を増やしているが、自分は僅かに伸びるに留まっている。無能であり、存在価値がない」ということを考えています。
手を動かし続けて当たるのを願う日々です。描き続ける日々はそれに熱中さえできれば楽しいですが、モノになっていないことを感じるとひどく惨めです。
金がないという問題はほかの問題と比べて死に直結する可能性が高いので「生きられない自己=(生物として)劣っていて、無価値だった」という構図が脳内で出来やすいとはいえ、なぜ「この数字というものを自分にとっての大きな価値と思っているのか」「なぜ仕事をしているのが良いことと思うのか」を考えていました。
自己の深淵や奥底に触れるのは恐ろしいことであり、さらに、今まで築き上げた価値観を変えなければならない・今までの価値観を(適応させる・良くするのではなく)拒否する、と思えば重い腰がもっと重くなるもので、自然と考えることそれ自体を拒否しようとしてしまって、結局それらに解は得られていないです。
ですが、ひとつ明確なことがあり、それは「優れた者がいるならば私はいなくてもいい、不要である」とひしひしと感じ、それを起因として「死ななければならない」と思う自己の存在でした。
「自分は生きていてもいい」と思うことは、自分にとって非常に難しい問題に感じています。反対に、できない自己という存在を否定し、拒否することはとても容易く感じる。
だから、漫画で暗に優生思想を否定しているように、私自身が優生思想を持っていないか?というと、そうではなくて、自分には優生思想と呼べるであろう思想を有していて、それはかなり根が深くて、これを描こうとも未だ払拭することができず、これからも(富と名声を手に入れようとも)自分に対しては存在が不要であると思い続けるであろう。ということです。
それから、自分はできていない他者に対して、いくら許容しているように(自分でですら)感じていたとしても、おそらく、自分が”被害者”になったとき・そう感じたときにはできていない”他者”に対してですら、激昂することでしょう。人間の脳は、そんなに自他を分けて考えられるほど賢くないと思っているので。ですが、それは私が一番やりたくないことであり、無自覚にやっていることでもあるように思う……。
「自分にとって価値とは何か」「なぜ生きていけないと思うか」については、たぶん優生思想という切り口だけじゃなく、もっといろいろな要因があり、そして生きている間 考えるべきことだと思うので、これからも余裕のある時に考えられたらいいな。
急にめまいがひどくなったのでこれくらいにしますが、生きやすい人々が、自己含め、増えるといいな・増えたらいいなと思っています。切実に。
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