何故「パパ活」「援助交際」ネタで笑ってはいけないのか。
前回の記事同様、趣味アカウントで思った事及び周りの反応について書き記す。
本当に、ニホンヒトオスというのは「売春」という制度について他人事あるいは「女性が進んでやっているのだから買うのは当然の義務だ」と受け取れるようなコメントを投げてくる。
全く、余計な仕事を増やさないで頂きたい。本来ならこんな当然の事をnoteにしなくても人として理解すべきなのだが、日本社会は田嶋陽子さん曰く「日本の政治は男の目線だけで動いている」事を常に意識しなければならない。政治もそうなら日常生活はもっと男目線で動いているのと同等である。
事の発端は渋沢栄一とふっかちゃんが並んでいて、渋沢栄一がふっかちゃんにお札を手渡している構図の写真に「パパ活」と言ったのだ。
(ちなみに僕は新札のデザインはシンプルにダサいという主観者だったので、犬のお札デザインのメモ帳を買った。)
僕「やめて下さい、笑えません。」
僕「人権蹂躙行為である売春をネタにするな」
僕「#クソ客のいる生活 のハッシュタグで見てみろ、誰も好き好んでこの職業をやっていない九州方面や飛田の風俗事情を見て来い」
そうすると、
♂👁「パパ活に親を殺されたのか?」
♂👁「パパ活という言葉を消しても意味がない」
♂👁「パパ活は女性が進んでやっている行為だから、麻薬をやめなさいと言っているようなもの」
などなど、まさに男目線でしか見えてないコメントを僕にぶつけてくるのである。誰も売春をネタにする事への疑問が微塵もないのだ。まるで売る方が消えないから買う側が居なくならないとでも言うかのように。
よく存じる方ならわかるが、僕は売春反対派である。だが、セックスワーカーとの面識もありその職業に就かざるを得ない事情を知る者として尊重すべきだと常々思う。残念な事にフェミニストの中にはセックスワーカーは女性の人権を貶めていると攻撃する人もいるのを確認している。分断が起きている事実とは対峙していかなければならない。映画『一粒の麦〜荻野吟子の生涯〜』に深く深く感銘を受ける者として、セックスワーカーであろうと幸せに生きて欲しいという願いは無論変わらないのだ。だから、個人攻撃ではなく「構造」を批判する必要がある。
結論として、好き好んでパパ活や援助交際または家出少女として生きる事は誰も望んでいない。性でも売り物にしないと生きていけない事情があるからだ。快楽に身を委ねたいからでは無い。もし快楽のみを必要とした女性は金を払ってでもやる。(信じられないがそういう事実も存在する)所謂、性依存者で精神的なケアやカウンセリングを受ける必要があるため、事実上健康的な女性は性を売り物にして生きたいとはまったく願っていないのだ。一部の男性は嘘だと思うかもしれないがこれが現実である。だから金を払ったからって風俗嬢に中出しを強要するんじゃねえぞ。またシステム上できる行為だったとしても1000%性病を患うのを覚悟しておけ。残念ながら僕の好きな著名人も風俗利用者である。あろう事か説教までしている。何処までも自己中な奴だ、金髪先生よ😑
二次元だとしてもだ。笑えるのは「人から買われる心配が無いから」だ。まるで遠い国のおとぎ話のように思えているから。高みの見物というやつである。
売春行為をネタにするのは「女性や人身売買を肯定的に受け止め人を金で買える行為を正当化する人物」ぐらいには思っているから、
マジでネタにするんじゃねえ。
もし、家出少女なりあなたの目の前に居たら福祉機関やシェルター(colaboなど)にすぐ相談するべきだ。手を出した時点でお前は紛う事無き性加害者だ。
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『人は自分より下だと思える相手がいることで どうしてとてもうれしい顔をするんだろう? と
そして その時の誇らしい笑顔は どうしてとても醜く見えるんだろう?と
しかし 頭をひねっても少女には答えを見つけることができませんでした』
これはとある作品のある一文だが(※敢えて伏せておく)何でも人権を踏みにじるネタを笑える根底にはこの醜さがあるのではないのだろうか。
2021/09/09 ネオフラワーデモ茨木 よもぎもちNovo🍡