正しい日本語、日本語の乱れ等の議論に抜け落ちている視点
問題が起きるのは、本来、言語は「人間の為に有らなければ成らない道具」なのに、そのような部分を維持する社会的な運用構造力が不十分なのが原因。
と仮定して解決の社会的仕組みを考える方がいい
人は皆が使っている言語という決められた物を基本利用しなければならないが、言語はヒトにとって最も重要な道具、
そこを鑑みて、言い回し方や使い方等、人にとって社会的に使用出来た方が良い新しい表現や、このような事をこのような表現で表現可能にすべきといった物を、
人が提起する事ができ、
それを民主的に共有して公共化の合否を、人権民主主義的※に精査でき、
社会での利用の、正当性が担保※される
「言葉の民主的改善と合意が支えられる仕組み」が作られる事が、
本来、有らなければならないのだと思う
(※1「人権」が入るのは社会の偏見から生まれる哲学のない言葉の混入を阻止する為 )
(※2 けして、「正しくない言葉」を決める場にならない様に規定。人間の為の自然言語が死なない様。)
言語の正しさを、社会に任すのみは、現実社会の力学は必ずしも民主的な選択の結果ではない事、その環境の元で個人は普段、信用の為、特定の言語のあり方が求められる立場である事、そのあり方に人が適応する結果、正しい日本語等と言われる物において様々なマウントによる衝突が生まれる事から考えても、言語に必要な民主性は社会に任すのみだけには問題点があると考える。
言葉は哲学で言う所の「クオリア」の表現物でもあり、言葉にはその利用の意味を成立させる背景の「ニュアンス」が有るため、その使用目的によってその言葉が適切かどうかが利用において関わり、ただの字面通りのコミュニケーション手段か、それ以上の背景目的が有る表現選択なのかが重要になり
(また、使われる理由として、社交辞令的・形式的なコミュニケーションと「それ以外」を区別しやすくする為に、いわゆる若者言葉は使われ易い傾向がある)
そこを理解せずに概存の言葉を利用していない事を指摘する者により、生まれてしまっている言論も多い。
(話は変わるが、個人が集団側、社会側として個人へ力を持つ立場に有る時に「欠落」する人権知性の問題を問わず、"個人としての立場においての人の社会性"への性悪説を前提とした言論の表現は乱暴な言葉になりやすく、人間が集団側として楽をするために個人の社会性を否定する事で人間の人間への全ての不適切な対応と言葉の使い方が起きていると思う)
言葉のあり方について余談になるが、制度的な言語の改良コミュニケーションがない為、人間が、思っている事に相対的に近い表現に必要なコストが、普遍的な範囲ですら固定し、判り易くする為のある程度普遍的な文法改変すら長く俗として扱われ、社会的正当性が与えられず
また、
人間が、一般利用可能な言葉を、自己の表現したいものに対して不整合な感覚を覚えるまま利用せざるおえない事が、それが起きている、ある程度普遍的な範囲ですら、当然のように高止まりし、違う言葉が自己として名乗る力が強くなってしまう為に、個々がこの世界へ自己の物での表現を損失してしまっている面がある様に思う。