君が為シリウスは輝く 第13話

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 ほんの小さな亀裂がみるみる伸びていく。
 じわりじわりと盛り上がってくる。

「あ、あああああああっ!」

 窓が! 水が!

 ここから早く出ないと!
 閉じ込められたら死んでしまう!

 入口に走る。扉の前に立つ。動作が遅い。亀裂音が大きくなってきた。待っていられない。ようやくできた隙間に体を押し込む。背後で水が弾けた。一瞬早く体が抜けた。思い切り、非常ボタンを殴りつけた。けたたましい警報が鳴り響いて、入口の隔壁が轟音を立てた。

 安堵。

「うえっ――」

 体が冷たい何かに突き飛ばされた。壁に叩きつけられた。

「う、ぶっ……」

 痛みにお腹を抑える。
 冷たくてしょっぱいものがなだれかかってくる。
 圧力で息ができない。
 心臓は空回りする。

〈展望室、何があったの!〉

 ようやく圧力が収まった。ミモザの声だった。非常スイッチの下にあるスピーカーががなり立てている。隔壁の作動に気づいたんだろう。
 少しずつ息ができるようになって、右手をお腹から離す。なくなった眼鏡を探しながら、通信に答える。インカムもどこかに行ってしまったけれど、そっちはいい。

「ミモザ。展望室の窓が割れて――」

 右手に、水の感触が残った。流入した水に突き飛ばされたんだ。
 脊椎がそら寒くなった。走り出すのが一瞬でも遅かったらどうなっていただろう。
 暴れている声帯をなんとかなだめて、

「――水が入ってきたの」
〈水が! 大丈夫だったの?〉

 ミモザの焦り具合が跳ね上がった。水没する恐怖は人類共通だから。

「わたしなら大丈夫。水漏れも隔壁で収まってる」
〈そう、よかった……。でも、どうして窓が〉

 数百年も割れなかった窓が、何の兆候もなく割れた理由。
 いや、兆候ならあった。チョウチンアンコウを食べたあの影。

「ミモザ、こんなことしてる場合じゃない。奴らが来てる!」

 あの巨大な影は、間違いなく奴ら。

〈奴ら? そんな……ORDERにはそんな影……。カフ、何か見えないの〉
〈えぇ? こっちにはそんなもの映ってないよぉ。まったく、さっきからどいつもこいつもORDERを疑うんだからぁ〉
「嘘。わたし見たよ、チョウチンアンコウが、何か大きいものに襲われるところ」
〈そんなはずは――〉

 カフが嫌そうに呟いたそのとき。
 スピーカーにノイズが入った。ラッツが自爆した音に似ていた。まさか……。

〈レグルス! いまの音は何だ! 何かあったのか!〉
「レグルス、応答して!」

 この音は間違いない。通信が強制的に遮断された音。
 強制的に遮断なんて、機械が壊れない限りありえない。考えられる状況はひとつ。
 オケアノスが、やられた。

〈あ……アーくん?〉

 スピカのひとことで、すべてを察した。察してしまった。

〈アーくん、アーくん!
 いや、なんでどうして!
 アーくんが! アーくん!〉

〈落ち着けスピカ! 闇雲に撃つな!〉

 レグルスの制止もむなしく、バルカンが騒ぎ立てる。

〈嘘、嘘、嘘! こんなの絶対にありえない!〉
〈どういうことなんだぁ! ORDERには何の反応もないんだぞ!〉
〈カフ、落ち着きなさい! レグルス、状況は〉
〈わからない、いきなりアークの反応が消えた!〉

 だめだ、すべてがすべて錯綜してしまっている。
 わたしがすべきことは何。できることは何。

「レグルス、できる限り弾幕を張って」
〈わ、わかった!〉
「カフ、ミモザ。いまからパイロットできる限り集めて。すぐに出撃準備」
〈えぇ、わかったわ〉

 隔壁のブザーがとまり襲撃を伝える警報に変わった。いつもより音程が高い。全パイロットの出撃を指示する緊急警報。眼鏡を拾って、わたしは格納庫に急いだ。
 お願い、間に合って。どうか。

「シリウス、どうなってんだよ。……って、お前びしょびしょじゃねぇか」

 格納庫の前でシャウラに出くわした。のんきな彼に無性に腹が立つ。

「どうでもいい。とにかく準備!」

 叫ぶだけ叫んで、オルキヌスに乗り込む。シートが冷たかった。

〈緊急警報ってどういうことなんですか〉
「どうもこうも聞いた通り。敵が来てる」
〈敵って……あ、これ……〉
〈そんな……〉
〈嘘……〉

 表示に気づいたんだろう。先に乗り込んでいた年少組の声が凍った。

「起動急いで!」

 十人の名前がひとつだけ真っ白になっていた。見て見ぬふりをした。

〈シリウス、見つけたぞ!〉

 スピカの悲鳴に交じってレグルスの頼もしい声。スピカだけ通信の音量を下げる。

〈弾幕の明かりで何匹か泳ぎ回っているのが見えた!〉
〈おい、シリウス、レグルス、これってどういうことなんだよ〉
〈ORDERは何をしていたんだ!〉

 あぁ、もう、シャウラもナオスもうるさいったら。

「簡単、ORDERにもOLVISにも映らない新種がいるってこと」
〈映らないって……〉
〈そんなことありえるのですか〉
〈新種……〉
「たぶんね」

 わたしだって、ORDERもOLVISもすり抜けるヴァスィリウスなんて聞いたことがない。けれど、いま目の前にそいつらがいる。

「さっきもデータにない大きな奴がきたんだから。映らないくらいで驚かないで」
〈どうやって戦えっていうんだよ〉
「不可能じゃない。映らないってことは、逆に言えばそこらじゅうにバルカンをまき散らしてやれば陰になって浮かび上がってくる」

 光を反射しない黒色が、はっきりと見える理屈といっしょ。

〈そういうことだ! 何匹か倒したがいい加減きつい。早く頼む!〉

 ちょうどαの残りの六人が準備を終えた。けれど六人。敵の性質を考えればもう少し頭数が欲しい。βは出撃までまだ時間がかかりそうだった。
 わたしは決断する。
「カフ! この六人で出撃するから、シャフトの準備して!」
〈大丈夫、すでに整って――〉

〈なりません〉

 カフの通信を、冷たい老婆の声が遮った。

〈誰の声ですか……?〉
〈誰なんだ! 僕たちの出撃をとめるのは!〉

 みんな戸惑っている。当たり前。ほとんどの人がこの声の主を知らないんだから。
 わたしだって、声しかしらない人だから。

「艦長……」

〈か、艦長、どうして〉
〈なぜ、あなたが……〉

 カフもミモザも混乱しているようだった。艦長が戦闘中の通信を遮るなんてはじめてだった。それにその内容は、レグルスを見殺しにしかねないから。

〈敵は、ORDERにもOLVISにも映らない性質のようですね。ならば戦力の逐次投入などもってのほか。アルマに残っている十六機は同時に出撃させてください〉
〈それじゃあ、うえで戦っているレグルスさんはどうなるんですか!〉
〈シェダルですか。このままレグルスとスピカが死んでしまうようなら、あなたがた六人が増えたところで無駄死にするだけです。ですが十六人揃えば、新種といえどもシリウスの言った方法で戦えるでしょう〉
〈か、艦長がそんな判断でいいのか! 見殺しだぞ!〉
〈ナオス。あなたがたに死なれては困るのです。シリウス、アステリズムβ全員の出撃準備が整い次第、同期させてください。以後の指揮はあなたが執るように。以上〉

 それは、完璧すぎる指示だった。非の打ちどころがなさ過ぎて、冷たさしか感じないほど。わたし自身がこれだけはっきり言い切れたら、どれだけ楽だったんだろう。
 返事ができなかった。

〈おい、シリウス。艦長の命令なんて関係ない。行くぞ〉
〈そうです、レグルスさんを助けに行きましょう! シリウスさんだって次期艦長じゃないですか、ひとつくらい命令を破ったところで誰が責めるんですか〉
〈そうだ、シェダルの言う通りだ! 僕たちに命令しろ、シリウス! アナとウェズンだってそう思うだろ〉
〈そんな……わたしは……〉
〈ウェズンとわたしは任せる。シリウスに〉
〈くっ……早くしろ、シリウス!〉

 時間が体を押し潰してくる。
 ふと、十人の名前が目に入ってしまった。
 アークトゥルスは真っ白だった。
 スピカとレグルスは少し淡くなっている。レグルスのほうがこらえている。
 ほかの七人は真っ赤。初期状態からこれっぽっちも変わっていない。
 ベルの名前はデフォルトの、きれいな、命を宿した赤のままだ。

「艦長の指示に従って」

 血を吐くような気分だった。けれど、吐いた血の分、体が軽くなるのを覚えた。

〈シ、シリウスさん!〉
〈シリウス! 見損なったぞ!〉
「レグルス、なんとかこらえて」
〈言われなくてもなんとかするさ。……ぐっ〉

 レグルスの名前がまた白に近づいた。

「シェアト、聞こえる」
〈あぁ、良好だね〉
「時間がない。同期はネットワークじゃなくてわたしとあなたのリンクだけにして」
〈なるほど、了解した〉

 十六機分の相互ネットワークを組むよりは時間の節約になるだろう。

〈ぁぁぁぁぁぁっ――〉
〈おい、スピカ! そっちは――〉

 ばつん、とスピーカーが弾けて、真っ白な名前がまたひとつ増えた。

〈スピカ!〉

 ようやくシェアトからβのデータが送られる。名前の一覧が賑やかになった。

〈シリウスよりアステリズムβへ。本戦闘に限り全機をアステリズムαに組み込み、わたしが指揮を執ります。全機発進シークエンスへ。わたしが先導します〉

 進入するなりシャフトは細かく振動していた。
 レグルスのバルカンはまだ唸っている。

〈アンタレスよりアルマへ。全機シャフト内に進入を確認〉
「シリウスよりアステリズムαへ。全機停止」
〈じょ、上昇開始〉
〈あぁ、まどろっこしい! おい、シリウス! こんなときでも確認必要なのかよ〉

 がくん、とシャフトが揺れる。

「当たり前でしょ、シャウラ。静かにして」
〈お前……〉

 エレベーターがもっと速ければいいのに、ともどかしい思いを持っているのはシャウラひとりだけじゃない。それくらい、わかってほしい。遅い。本当に遅い。わたしが艦長になったらこの古びた設備もなんとかしないといけない。そうすれば通常時だってもっと余裕が生まれるし、こういう緊急時の対応ももっと素早く――

〈シリウス〉
「え、レグルス?」

 唐突に個人通信が入ってきた。

「ど、どうしたの……」

 思わず声が震えてしまう。

〈艦長の判断は、いや、お前の判断は間違ってない〉

 レグルスの声は、びっくりするくらい穏やかだった。

「どういうこと?」
〈いつか言ったよな。残せるものは残す、と。あとは頼んだ〉
「え……何? レグルス、レグルス!」

 通信はそれで途切れた。
 昇降機のせいで体が細かく震えていた。本当に、改装しないといけないらしい。
 十秒が経ち、二十秒が経って、エレベーターは停止した。

〈アルマよりアステリズムαへ。注水終了。ハッチオープン〉
「ハッチオープンと同時に全機弾幕」

 視界がライトグリーンに染まった瞬間、無数の光が飛んで行った。
 バルカンとレーザーの掃射が、全方位をくまなく塗り替えていく。
 奴らの体液や肉片は吹き払われて、あたり一面が黒一色になる。

「撃ち方やめ」

 残ったのは、足元でたゆたう放射線の赤い照り返し、オケアノスの赤いフォルム。
 それ以外は、完全に真っ黒。

「掃射、もういちど」

 続けざまの索敵射撃にも変化はない。

〈何もないね。どうする、シリウス〉

 先ほどハッチが開いた瞬間、新種の体液や肉片はOLVISに映っていた。その点では新種も変わらないらしい。周囲が真っ暗になったこの状況、ここには何もない。

「戦闘終了」
〈アルマよりアステリズムαへ。了解した。……破片の回収作業を頼む〉
「了解。シェアト、このあとのことは全部任せる」
〈え、どういうことだい? シリウス?〉
〈おい、シリウス!〉

 背後から呼び止めようとする声を無視して、わたしは泳ぎ出た。
 ベルのところへ。
 約三分。識別信号に照らされて巨大な赤い影が見えてきた。
 ベルが乗るオラトリア。

「ベル、大丈夫?」

 オラトリアのすぐ横に機体をつけて個別通信を送る。表示ではベルの機体はまったく損傷していない。でもその声を聴くまでは安心できない。

〈シリウス!〉

 鼓膜が破れるかと思った。

〈シリウス! シリウス!〉
「だ、大丈夫、わたしなら大丈夫だから、落ち着いて、ベル」

 ベルが無事だったという安堵に手が震えた。救難用のハッチを開くと、

「シリウス!」
「ベル!」

 ハッチからベルが飛び出してきた。わたしはベルを抱きとめながら、盛大に尻餅をついた。ベルの腕がきつい。ベルは、どれだけ怖かったんだろう。そしてこれから、どれだけショックを受けてしまうんだろう。

「よかった、無事で……」
「うん。シリウスの言う通りじっとしてたから」
「ありがとう、ベル……」

 ベルの体が重い、とても重い。
 けれど、けれども。
 もし――。
 もしあのとき屋上で待機していたのが、レグルスでも、スピカでもアークでもなくて、ベルだったとしたら。わたしは艦長の指示になんて答えただろう。ベルを、レグルスと同じように見殺しにしたんだろうか。そうだ、わたしは三人を見殺しにした。
 あれ、息がうまくできない。目が熱い。

「シリウス、濡れてる……寒くない?」
「うん、大丈夫」
「シリウス、大丈夫?」
「ねぇ、ベル、わたし、どうしたらいいんだろう」
「大丈夫、シリウスは生きてる。生きてるよ」
「でも、でも……」
「シリウスは生きてる、生きてるんだよ……」

 腕も背中も痛いくらいに、抱きしめ合った。


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