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或る日 #1

イギリスはロンドンで僕は工事中のビッグ・ベンを見上げていた。

来年まで修繕工事は続く。足場やシートに覆われたエリザベス・タワーだが、時計の部分だけは見えている。鐘の稼働は停止しているらしい。別に現代のロンドン市民は、ビッグ・ベンの鐘が鳴らなくても時間の把握に困ることはない。と思ったが、ブレグジットの議論に3年も費やした彼らには、時間をお知らせする鐘の音が必要だったようだ。この鳴らない時計台はウェストミンスター宮殿にあるが、そこは英国議会の議事堂として使用されている。納得だ。

遠くから「Order! Order!」という嗄れ声が響く中、僕の足はダウニング街10番地へ着いた。そこには1人の金髪の中年男性がいた。なぜか日本語が通じる。

「やあ。ロンドンからベルファストにはどうやって行くのが簡単? その後は、ダブリンと行ったり来たりしたいんだけど。そう、行ったり来たり」
「やめときな」
「一体どうして?」
「ブリュッセルにでも訊いてくれ」
「意味がわからないよ」
「じゃあな」
「そう……。たまには髪の毛セットしてね」

独特な喋り方の彼は去っていった。

市内の観光名所を歩いた後、テムズ川の畔にあるパブ併設のカフェテラスでしばらく時間を潰した。パブの客を一瞥し、昼からよく酒を飲むなと、テムズの風を浴びながら斜に構えた顔でコーナーカップに口をつけていたが、本当は羨ましいのだ。あいにく文庫本をホテルに忘れてしまったので、景色を眺める以外にすることがない。スマートフォンで嫌いな奴のTwitterのいいね欄を眺めて、「お前にはこんなツイートできやしないよ」と独りごちるのもいいが、なにせそんな崇高な趣味はロンドンの街に似合わない。やはりテムズ川に浮かぶクルーズを目で追いかけるしかやることがない。

目の前を通りすぎたクルーズが10隻を数えたところで、伸びをした。背もたれにもたれながら目線を店内にやると、アジア顔の女性と目があった。東南アジア系でも日本人でもない。多分、中国系。こういう些細な違いはアジア人だからわかるのだろう。彼女も僕を見て「あ、アジア人だ」という顔をした。僕は日本人らしい会釈をして、淀んだ空を見上げた。いつもの癖で、顔を両手で覆い上下に擦った。テムズ川の水で洗顔したような気分になった。

気づいたら、街中に立っていた。徐々に都会の喧騒が耳に進入してくる。どうやら、金融街のエリアに近いところいるらしい。あまりこちらの方には足を運んだことがないので、興味深く建物を眺めていると、通行人とぶつかってしまった。謝ろうと顔をあげると、そこにいたのは柔らかな笑みを浮かべるエド・シーラン。彼の背後にも人がいる。エド・シーランだ。その背後にもエド・シーラン。その背後にも、背後にも……。

大勢のエド・シーラン――ざっと50人はいる彼らは、なぜかペンを持っている。そして、口々に俺のTシャツに「極度乾燥(しなさい)」と漢字で書けと言う。日本人なら簡単だろと。エド・シーランは僕を試していた。

「漢字が怪しい。ググっていい?」
「ダメに決まってるだろ」
「冗談だよ」

僕は「乾燥」という漢字が書けるか心配だったが、書き出してみたらそんなことは杞憂だった。これならいくらでも「極度乾燥(しなさい)」って書けるぞ。なんなら「Shape Of You」のイントロのリズムにあわせて「極度乾燥(しなさい)」書けるぞ。

極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)極度乾燥(しなさい)

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…………

起き上がった僕は、時計を確認した。昼の1時だ。冷蔵庫を開けて、昨日茹でておいた卵を皿にのせる。他に、あらゆるおつまみを用意してテーブルに並べる。

僕は昼からアサヒスーパードライを飲んだ。数日前に作った豆腐を入れたオクラとササミの和え物が腐っていた。言うこと聞かない無秩序なタッパーの中身に対して僕は「Order!」と叫んだ。ふと思い出し、僕は引き出しから1冊のノートを取り出した。ページを何枚かめくり、「逆にエド・シーランにサインをあげる」という項目を見つけると、僕は左手で書かれたその文章に赤線を引いた。

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