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高校時代の読書感想文がいまでもアラサーの自尊心を支えている

「授業サボれるんなら俺も真面目に読書感想文書けばよかったわ~」

県の表彰を受けに授業を抜ける私の背中へ、聞かせるようにか聞かれると思わずにか、同級生の放った言葉は随分鋭利に突き刺った。

夏休みに毎年課せられる課題、読書感想文。Twitterなんかではよく、「何のためにやらされるのか分からない課題」「もっとも必要のない課題」などとクソミソにけなされている。

でも、私にとって毎年の読書感想文もとい読書感想文コンクールは陰鬱な学校生活の中で唯一、日の目を見ることの叶う大事なイベントだった。
陸上部にとってのマラソン大会みたいな、吹奏楽部にとっての甲子園みたいな、私にとっての読書感想文コンクールだったのだ。

高校一年生の時の読書感想文はとりわけ力を入れた甲斐もあって、全国のコンクールまで進むことができた。それゆえの県からの表彰に赴こうとしたところで、同級生の言葉だった。

たぶん私はその瞬間まで、「私以外の多くの生徒は私のように真剣に読書感想文に取り組んでいない」などとは想像もしなかった。みんなが真剣に取り組んだ力作の中から、それでも私の感想文が選ばれたのだと、思っていたかった。

ひどく惨めな心地がしたのを覚えている。

「嫁島さんの読書感想文、読みましたよ。」

だから、司書教諭のD先生に声をかけられた時にはどう返したものか惑った。

読書を好むたちにもかかわらず、私は司書教諭と一切交流したことが無かったから。してみたい気持ちが無かったといえば嘘になるが、当時の司書教諭は県内の学校の読書推進及び学校図書館の発展に貢献するバリバリの仕事できる人間で、司書から連想する物静かでおとなしいイメージとは対極のハツラツとした人だったから。

それなのに。D先生はわざわざ私に伝えてきた。

「なんて言ったらいいのか……あのね、嫁島さん。どんな形でもいいから……貴方は文章を書き続けた方がいいって、思いました。」

感想、というような感想では無かった。でも、それこそなんて言ったらいいのか、分からないけれどきっと、私はいまだに、これよりも嬉しい言葉を貰ったことがない。

「小説家になればいいのに」だとか「貴方には文才がある」だとかいう類の称賛ではなかったところに、今にして思えば先生の「若者に与える言葉」への繊細な配慮を感じる。

人生を狂わせるような呪いにはならない。けれどただのお世辞で受け流すにはあまりにも真摯な。

───私は「文章を書き続けたほうがいい」人間なのだ。

そう、大人に教えてもらえたことが、大人になるまでの私を随分助けてくれた。

彼女の言葉は激しい拘束や強迫観念を伴うことなく、折に触れて私に「書き続けたほうがいい」のタイミングを教えてくれた。

時に趣味で、時に仕事で。台本、詩、古文、短歌、レビュー、二次創作、コラム、エッセイ、Web記事、ブログ、note……甲斐あってか偶然か、気が付けば私は文章を書いて生活するライターという生き物になっていた。それでも、私が書き続けた文章のうち、直接的に糊口をしのぐ糧となったものはほんの一握りだ。

でも、それでいい。

「文章を書き続けたたほうがいい」人間であるということが。それを実行し続ける人間であることが。

絶望的に果てしない世界でうろたえてばかりいる私を、いつだってささやかに肯定してくれるから。

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