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推しのATMを自称しながら心をすり減らすオタクたち

時にオタクは、推しの「ATM」を自称することがある。

このスラングが流行し始めた時、なんちゅう恐ろしい言葉を生み出すんやと戦慄した。

ATM。Automatic Teller Machineの略。「現金自動預け払い機」のこと。
転じて、推しのためなら際限なく大金を使うオタクの自虐的自称。あるいは他称。
個人的な感情で言えば、あまり好んで使いたい言葉ではない。

余談だが私は推しバンドマンがライブ中の次回ツアー告知にて「お前ら今回も俺たちのATMとして頑張ってくれや笑」みたいなMCをかました夜、新宿ゴールデン街の飲み屋でもつ煮込みを食べながらさめざめ泣き散らかし、見かねたベトナム人の店員にティッシュを箱ごと恵んでもらったことがある。

そのころちょうど好きだったメンバーが脱退して1年くらいで。理由の分からない脱退に葛藤を抱えながら、それでもこのバンドを応援しようと思っていた矢先の発言だったためか、妙に私の心に「ATM」という言葉が鋭利に突き刺さってしまった。

この言葉について考えるとき、私は時を同じくして活用されている「推し」という言葉の利便性に思い至る。

「推し」という表現の誕生は革命的だ。なぜ今まで存在しなかったのだろうか?と思うほどに、「熱心に応援している存在」を指すのに強すぎず弱すぎない、適切な熱量と距離感を有した言葉だ。

これより前にも、似たような言葉はあった。かつてオタクたちは今でいう推しのことを「嫁」と呼んでいたこともある。今にして思えば廃れてしかるべきスラングだった。私たちは「推し」を「嫁」にしたいわけではないのだから。当時も腐女子の口で推しカプの受けを「嫁」と呼ぶことにめちゃくちゃ違和感はあった。

推しの前にあっては空気ないし壁になりたいというのはもはやオタクのスローガンと化している。SNSの発達によってオタクと推しの距離感が近づくにつれ、オタクは「立場をわきまえる」ことを肝に銘じる機会に何度も何度も出くわしてきた。

「ATM」という言葉も、ある種「立場をわきまえたオタク」による涙ぐましい発明と言えるのかもしれない。「ATM」を自称するオタクたちは、自虐的でありながら楽しそうだし、時に誇らしそうですらある。

だって、私たちが推しのためにできる最高にして唯一の愛情表現は「お金を使う」ことだから。私のようなセンシティブをこじらせた面倒なオタクが「ATMって何よ!私たちオタクは感情なんか持たずに黙って推しのためにお金だけ払ってりゃいいっての!?」とヒスったところで、どんな界隈でも一番偉いオタクとは推しのためによりたくさんのお金を使ったオタクなのだ。

ただ、一方で「ATM」を自称しながら病んでいくオタクも存在する。

立場をわきまえたオタクが正しい。たくさんのお金を使うのが偉い。そんな価値観から転じて、「何があっても推しにお金を使い続けられるオタクが偉い」風潮が起こったためである。

騒がず、泣かず、何があっても冷静に、確実に。推しが結婚しようが炎上しようが迷走しようが、粛々と推しのためにお金を使い続ける、学級会ともお気持ち表明とも無縁のオタクこそが、オタクの鑑───。

ATM自称タイプのオタクは時に、こういう考えに潜在的に苦しめられているように感じる。

だからあえて言う。

ATMは、「無尽蔵にお金を引き出せる魔法の箱」ではない。

ATMから引き出せるお金は引き出す側の財力に応じた金額までなのだ。それはつまり引き出す側の「稼ぐ能力」に応じた金額だ。オタクが正しく「ATM」であるならば、推しがオタクから引き出せるお金は、「推しの能力に応じた金額」まで。つまり推しの「推したくなる」能力に応じた金額を冷静に判断し、引き出せてこそ真のATMと言えるのではないか。

炎上後の復活の仕方クソだせぇなとか、最近ファンとの距離感キモイなとか、あの発言地味に引っかかるなとか。そういう感情が邪魔をしているときはオタクATMから推しのために降ろせるお金が底をついている状態なのだ。また推しのためにお金を使うには、推しがこれからの活動でコツコツと尊みやら愛しさやらエモさやらをATMに貯蓄してくれなければ、無い袖は振れない。ATMなんてそんな具合でいいはずなのだ。

底をついている「推しのために使えるお金」を無理に引っ張ってくるのはもはやATMなどではない。「都合のいい女」だ。売れないバンドマンが侍らせてるアレみたいなもんである。機械とは対極の実に生生しい存在だ。こういう心を削った消費を繰り返しているときのオタクは、都合のいい女同様、何らかの形でこの苦しさを貢いだ相手に報いてもらいたいと感じてすらいる。

それは、私たちオタクがもっとも嫌厭する「立場をわきまえないオタク」の姿なんじゃなかろうか。


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