マンガ評 藤本タツキ 『チェンソーマン』
2022年度「サギタリウス・レビュー 現代社会学部書評大賞」(京都産業大学)
自由部門 大賞作品
「くだらない夢と高潔な夢」
山本健太郎 現代社会学部健康スポーツ社会学科 1年次
作品情報:藤本タツキ 『チェンソーマン』(集英社、2019)
私はこのマンガを初めて読んだとき、周りの目も忘れて、呼吸をするのも忘れて、瞬きすら忘れて読み進めたことを覚えている。これは他のものとは違う。本物の作品だ。他の、読者受けを狙った甘ったるいマンガとは訳が違う。そんな感想を抱きながら私はこの漫画を読破した。ぜひ本編を自身で見て、どう感じたかを自分自身の頭の中で100回は反芻して欲しいし、説明も作品の価値を損なうと感じてしまうのでしたくないのだが書評なので少しだけ内容を書かせていただく。
時は1990年代、悪魔が住む世界。主人公の名はデンジ。自殺した父親が作った大きな借金を返すため、体のあちこちの部位を売り、食パン一枚で食いつなぐ日々を過ごしていた。ある日彼は顔からチェーンソーが生えている悪魔の犬、ポチタと出会い共にデビルハンターとして生活することになる。超極貧生活の中でもテンジはポチタと食パンを分け命をつないでいた。そんな中、借金取りたちがデビルハンターの死を望むゾンビの悪魔と契約し、テンジを食い殺してしまう。しかし、死の寸前にしたポチタとの契約によってテンジはポチタを心臓に招き入れ、チェーンソーマンとして命を吹き返す。人間でも悪魔でもない生物となったテンジはゾンビの悪魔たちを皆殺しにし、力尽きて倒れそうになったところを政府直属のデビルハンターたちに拾われ、テンジはその組織で生活をしていくことになる。ここまでが第一話で描かれた内容だ。デビルハンターは各地に出現する悪魔を殺して生計を立てる職業で、作品の中では日本が舞台となっている。
戦闘が行われるマンガに限らず勝負事や、能力など優劣が付きそうな事象を描く場合、作品の中でのキャラクターや物、能力などには曖昧な強弱をつけながら読者による想像の余地を残すことがとても重要である。そうでなければ強敵に挑むワクワク感や弱さへの同情といった感情は湧きあがらず、かといって割り切った強弱をつけてしまうとそこには退屈感だけが残ってしまうからだ。その点このマンガは、悪魔の強さが人間がそれに抱く恐怖の感情の大きさという曖昧かつ想像しやすい強弱によって決められている。例えば、「コウモリの悪魔」と「銃の悪魔」の名前を見ると、どちらが強そうか一目でわかるだろう。逆に「剣の悪魔」と「銃の悪魔」を比べても一目見ただけではどちらが強いのか分からない。この曖昧さと強弱がこの作品の優れているところと言えるだろう。
そして私がこの作品で最も優れていると感じた場面が、デンジと「ヒルの悪魔」の戦闘シーン中に放った言葉だ。
『み~んな俺んヤル事見下しやがってよお・・・、復讐だの、家族守りたいだの、猫救うだの、あーだのこーだの、みんな偉い夢持ってていいなア!!じゃあ夢バトルしようぜ!夢バトル!!俺がテメーをぶっ殺したらよお~・・・!てめえの夢エ!胸揉む事以下な~!?』
(チェンソーマン第一部 第十話)
この時テンジは、胸を揉みたいという願いを叶えるためにデビルハンターをしている。
一見自暴自棄にも見えるようなこの言葉だが、これは物事の核心をつく素晴らしいワンシーンだ。多くの人間は物事に取り組む時や生きるということに意味を持ち出してしまう。しかし、人間にとってそんなものは不必要であり、欲望のままに生きようが、どんなことを考えようが、それはすべて些細なことであるという、人間が目を背けてしまいそうな部分に大きく切り込んでいる。他にも人間の根底にある部分が強く揺さぶられる言葉が多く、甘ったるい正義や使命などが全くと言っていいほど描かれないのがこのマンガの素晴らしいところだ。
残念なところを一つ挙げるとするならば読者の想像力が試される場面が多いことだろうか。先ほど触れたように優劣に関してはとても優れているが、ストーリーを理解する難易度はかなり高いように感じた。マンガを読むのが初めてな人には説明が足りず、分からないまま物語が終わってしまう人も少なくないだろう。しかしその欠点をもってしても素晴らしい本物の作品であることには間違いない。きっと今後の人生や考え方が変わるはずだ。読んだことのない人は死ぬまでに一度読んで欲しいと私は心から願う。
〈審査員の評価ポイント〉
引用を用いて具体的な批評がなされており、文章の節々から作品に対する強い思いが感じられる。是非作品を読んでみたくなるレビューだった。
©現代社会学部書評コンテスト実行委員会