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標高3000Mからseason2~Vol.7【僕のこと、知ってる?②】

具体的な起業内容やビジョンについて。
JUGEM時代から見てくれている方や、SNSで興味を持ってくれている方、直接お話しさせていただいている方。知っている人は知っているかもしれないが、ここで改めて。

◇     ◇     ◇

過去の自分

今回は自分の19年間に焦点をおいて今に至るまでの自分と、今後のビジョンに繋げたいと思う。
なかなか自分のこと中心だが、今に繋がる過去なのでざっとブログにしておこうと思う。

山に来るまでと、山に来た意味と、バドミントン。


□     □     □


自分と起業

最初に「起業」を考えたのは中学校卒業の一週間前。
自分は小学校、中学校と受験をした。


小学校四年生のとき。

「時代は変わっているのに親の示すロールモデルに従っていて将来はあるのだろうか」

と思った。思ってしまった。
安定した職に就いている親をそばで見てきた自分だったが、それは幸せな生活には見えなかった。

意味のない勉強をやめた。
本を読んだり、好きなことはたくさんした。
様々なことを抑圧されてきた反動であったかもしれない。


中学生になった。
学校は嫌いになってきていたが、自分で考え答えを導くという学校の教育方針(スタンス)は好きだった。
周りはみんな勉強をした。
ちゃんと親のいうことを聞いて勉強してすごいなあと思っていた。

卒業一週間前。
ふと、「この中学のメンバーで会社起こしたら無敵じゃね?」なんて思った。
みんなそれぞれ頭がいいし、面白いやつもいるし、スポーツできるやつもいるし。
高い次元で欠点を補い合えるのだから、なかなか面白いと思った。


高校生になった。
お受験の為の勉強をとことん嫌った自分は、中学校から偏差値が30くらい下の学校に入学した。
ここで、学歴コンプレックスにぶち当たった。
というのも、偏差値が20違うと会話が噛み合わなくなるというのは有名な話だが、それを体感してしまったのである。
地獄だった。
何も面白くない。
目立ちたがり屋のネタも、幼稚園に通い直しているのかなと思うレベルだった。
いま思い出しても、一生同じことでは笑い合えないなあと鳥肌がたってくる。
話が合うのは、庶務課の人と司書さんと一部の講師の先生だった。
こんな学校を名乗るのが恥ずかしかった。
学校が大嫌いだった。先生も生徒も。
高校一年生の時からずっと受験のことを考えていた。
大学は少しでも名前の知られているところに、と。

高校一年生か二年生の時、ゲストハウスを経営している人に出会った。
要するに起業をした人だ。
どこからか、「中学校に戻りたい」と思っていた自分の中から「あの頃起業したいと思っていたよなあ」と当時の気持ちが蘇ってきた。
その人はこう言った。
富士山の「ヤマゴヤ」に行った、と。
何故だか自分のアンテナに引っ掛かった。

高校三年生の冬。
センターの一週間前。
勉強をやめた。
大学に行くお金も意味も価値もよくわからなくなっていた。
同じ中学校の人たちで、学歴コンプレックスに陥っている人は多くいる。
「最低でも北○道大学の名前が欲しい」「特にやりたいことはないけれど大学行かないのはヤバイ」
多分、自分は高校三年間同じ状態だった。
ただ受験勉強をしてきて、行ける大学がいくつも出てきたときに(結果センター一週間前に)それを脱した。
自分の夢(もうすでにバドミントンで会社を起こすと決めていた)を達成するために、多大なお金と時間を費やしてまで大学に行くことが正解なのか。または、様々な職場を経験すること(まずはアンテナに引っ掛かったヤマゴヤに行く)を天秤にかけたとき、後者をとった。


ヤマゴヤ一年目
キタダケにあるキタダケサンソウに行くことになった。
何も知らない。場所も、なにもかも。
決まってからキタダケの標高に驚愕した。
登山したことのない人間が山梨の富士山の次に高い北岳に行くことになるとは。
山小屋は様々な分野を経験ができ自分を高められると知った。
数十人分の賄いを作ったり、登山道を整備したり、ヘリコプターで空輸をしたり、掃除を毎日きちんとしたり、人命救助に行ったりスマホをトイレに落として配管を切ったり繋げたり(これは単なる自分のミス笑)。
ここまで幅広く多くの職種に携わる職業はないと思う。
ただただついていくのに精一杯な一年だった。

冬は八ヶ岳の黒百合ヒュッテというところでご縁があり働かせていただいた。
この山小屋は人との距離と繋がりが深い山小屋で、様々な繋がりができた。
ボッカ(山小屋で使うものを担いで山を登ること)も経験ができた。


山小屋二年目
様々な山小屋を見聞きするなかで、一年目には気づけなかったことが気づけるのではないか。
見えなかったものが見えてくるのではないか。と北岳山荘に今年も登っている。
ヘリコプターに乗ったり、より近い距離で空輸に携わったり、シビアな救助活動を見たり、こういうのもあるのかと今年は今年でなかなか面白い。
23日に下山したらまとめをしようと思う。

以上が起業に向けての今ここにいる意味である。
何故山にいるかおわかりいただけただろうか。


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自分とバドミントン

初めて競技としてのバドミントンに出会ったのは、中学一年生の時。
自分は野球が好きだった。好きな球団は読売ジャイアンツ。
部活でも野球がやりたかった。
しかし、自分の進んだ中学校には野球部がなかった。
当時付き合ってた彼女と同じ部活にしたいなあなんて思ってはいたが野球とフォームが似ていて将来的に生きてきそうなバドミントン部を選んだ(あの大谷翔平選手も幼い頃バドミントンをやっていた)。

家にバドミントンラケットがあったり、遊びでやっていたので人よりできるかもと思っていたのかもしれない。


中学校は部活が月に2~3回しかなく、放課後や冬休みにはなかった。
夏休みも数回。

だが、「一回一回の部活の質をあげること」「どれだけ濃い練習にできるか」を部員主体で考えられた。
顧問の先生にも仲間にも他校の同期にも先輩にも本当に恵まれていたと思う。

だからこそ、どんどんバドミントンが好きになった。キャプテンもやった。
どうしたら強くなれるか、バドミントンを楽しめるかをずっと考えていた。
地区のどの学校よりも練習時間の少ない自分達が、あそこまで上達したのは凄いと思う。
女子に関しては、団体戦で勝っちゃったし。地区3位になっちゃったし。

高校受験。
野球のできる公立高校を探した。
だがしかし、受験勉強をしているときに思ってしまった。
バドミントンがしたい、と。


高校生になった。
結局、バドミントンを続ける気満々になっていた。
ようやく練習漬けの日々になると思いきや、学校のHPにバドミントン部と記載されていたものは本当は「女子バドミントン部」だった。
そして部員も部活の空気も最悪。
ステップが似ているということでフェンシング部から誘われた。「あんな部活でダメになるより全国行ける部活で頑張らないか。」と。
迷わず、顧問に頭を下げて男子ではあったが、女子バドミントン部に入部した。

怪我があったり、学校の部活ではなくチームに行ったり、練習が酷すぎて帰ったり、逆にやらない後輩を帰らせたり(顧問公認)、ラケット折ったり、ペア解散したり、競技で悩むことよりも他のことで悩む方が多かった。
他校に行った方が100倍上手くなったと周りから言われ、自分もそう思った3年間だったが指導者的立場に立たせてもらったり、この部活をまとめたことは自分の将来を考えるいいきっかけになった。


そして思った。
「バドミントンで、会社を作りたい」と。

最初は「体育館を作ってバドミントンのできる場所をもっと増やす」から始まった。
だが次第にお金を考えたとき、廃校活用が話題になっていたりオガール紫波を丁度知ったタイミングだったので「廃校を活用した合宿施設を作る」だったり。

ハコを作ることを考えていた。
もちろんそのなかで自分はどうしていくかは考えていたが。

だが結局お金と社会経験は必要だと考えたので、山小屋へ来た。

以上がバドミントンから切り込んだ今ここにいる意味である。
何故山にいるかおわかりいただけただろうか。

次は未来の自分を。



つづく

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なおき(ばどみんとんばか)
カンボジアに学校を建てたり、愛で地球を救ったりはしませんが、貴方を見たことのない世界にちょっとだけ連れていけます。