動きながら考える。動いた先で考える。
「とりあえず動いてみる」というは、いろんな面で手っ取り早い方法だと思う。
いまの試験勉強を開始するときに、試験申請の期間に間に合うけれど、勉強時間が少ないことを理由に来年受けようかなぁと考えていた。
だけれど時間がないからこそ、集中して取り組めたり、これから先の挑戦したいことが見えてきた。
これはきっと、1年後の試験に向けて取り組んでいたとしたら、今の段階では見えなかった。
何かを始める時や、何かを決断する時って、結構な勇気がいる。
仕事の求人を見た時に、必要資格の欄は要チェックして、1つでも条件に当てはまらなかったら諦めてしまうこともある。
好きな人をデートに誘う時に、いまの自分に自信が持てないから…と足踏みしてしまう。
勉強している内容をアウトプットしたいけど、まだ人に見せられるものじゃないから上達してから、と一旦はやめてしまう。
どれもこれもきっと、失敗したくないし、今のまま挑戦しても成功しない気がするし、できることならカッコ悪いことしたくないから。
だけれど、失敗するかは分からないし、いつもカッコ良く生きていくなんて無理だと思っている。
そもそもカッコ悪くない生き方って、失敗しないことなのかな。
すごくダイエット頑張ったり、化粧頑張った時にデートに誘おうとしたら、相手には恋人がいるかもしれない。
アウトプットするの恥ずかしくて止まっている間に、アウトプット頑張っていた人が猛成長しているかもしれない。
どうなるか分からないことに対して、何も始まっていない状態を継続することってもったいない気がする。
他人に判断されることや、世の中に自分を晒すことって、正直言えばこわい一面もあるはず。
だけれど、何かに向かっていく最中ってそんなに失うものだってないはず。
仮にうまくいかなくても、新しい道を切り開くきっかけになる可能性がある。
もう一度挑戦することもできる。
だから、大丈夫なのだ。
♢
わたしの父は、就きたい職務があってよく試験に向けて勉強していた。
だけれど30代の時は、上司とウマが合わないことも多くて面接で受からないこともあったみたい。
筆記試験も1点足りないこともあったみたいで、受からなくて落ち込んでいる時もあった。
そんな中、やっと受かった時。
家庭の事情でやっと手に入れたのに、諦めないといけなくなった。
それから数年間は試験勉強もしなくなったけれど、40代の時に再度試験に挑戦して合格した。
それから50代になって定年前に再度挑戦したけれど、2度目は難しかったみたい。
とは言っても、無理かもしれない…という可能性に賭けるのではなくて、「とりあえず動いてみる」勇気はすごいなぁと、娘としては誇らしい。
試験に落ちた時も知っているけれど、父の姿を見ていると自分の中に思い描いていた失敗やカッコ悪さは払拭された。