行ってきたよ:さいたま国際芸術祭2023 2023/12/08
私が聞いた評判が「SCPっぽい」というところから始まったさいたま国際芸術祭2023に行ってきた!!!
先に成分献血の予約をしてしまっていた関係で、滞在1時間半です…トホホ…
写真、縦横入り混じっております!すんません!
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(追記@12/9 22:17)
他の方のさいたま国際芸術祭2023にまつわるnoteを拝読した。本当にめちゃくちゃ変更の多い展覧会でした(行けないから終わってないのに過去形で書いちゃう)。
私の書いていることは一部だし、他の観客の書くことも一部。
テーマ自体が「わたしたち」で曖昧。スケーパーという曖昧な存在を大きく感じさせる展覧会だからこそ、着眼点の多さになんだか肝を抜かされている。
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大宮駅で反対の出口に出てしまい、区役所側から入った。
輪ゴムをぐちゃぐちゃのギチギチに固めたみたいな作品に出迎えられた。
この少し奥にさいたま国際芸術祭2023のメイン会場「旧市民会館おおみや」がある。手前の公園でJAの即売会(って言ったらいいの?)もやっており、賑やかだった。
チケットを入手し進んでいくと、意図的かどうかわからない材の数々。旧市民会館にいるということが、リアルと作品のラインを曖昧にしている。綺麗でも壊れていても、どちらもおかしくない。
これもどちらかわからない。錆具合から衝立自体はここにずっとあることはわかるが、自然と割れてしまったのか?作品の一部にするために割ったのか?
それにしても、この絶妙な色合いのくすみガラス、おしゃれだな。
非常階段を通って3階へ。3階はリアル傘置きと作品としてそのへんに置かれている傘があった。雨が降ったら、きっとこのバケツも意味が生じる。
日々変更の多い展覧会のようで、こちらのポートレートも日々違うものが掲出されているらしい。
このポートレートがある部屋の奥では、針金でつくられたハニカムを水面と捉えて、水面に浮かんだモノと水面にうつったモノがくっついたような展示物がいくつか並んでいる。
ここを越えた部屋にある映像作品。これはさいたま市にある調節池に人が入って、その人の呼吸と調節池の中からみた景色を収めたもの。
地平線(ではないか。地上と水面の境目)を中心としてリアルに捉えている田園風景と水面に映る田園風景。私達はさっきの部屋でこれを見せられていたのか!構成が上手すぎる…(違う作家です。マジですごい構成。)
換気口やファンが回っており作品にもプロペラがついていることで、この映像たちの呼吸をあらわしている…わたしたちもあの調節池に入ったのだ。
2階に戻るとヘッドフォンが空いていた。朗読を聞く。
最初に書いたようなリアルかどうかわからない「ちょっとした違和感」がある落とし物はだいたいスケーパーの類でよいと思う。
このてぬぐいもたぶんスケーパー。
この写真を撮影する前には男性が座っていたのだが、避けるように座っていた。彼の落とし物ではなく、スケーパーなのだろう。
ヘッドフォンから流れてくる、力強い朗読。伊藤比呂美さんの「いつか死ぬ、それまで生きる 私のお経」の一節などを本人が読んでいる。CDつき書籍があるらしい。
この朗読はなんだかくらってしまった。他人の死を通して自分がこの先残された生をどのように生きていくか。私が聞いた一節では「すべての人に平等に説く」と言っていたが、実は誰よりも自分がなにかと必死に向き合うために説いているのではないか?私にはそう聞こえた。そして、この受け取り方も彼女のお経の一節に取り込まれている。
いったん外に出て、外の階段からもう半分の2階に向かう。最終日に行われるコンサートのタイトルが、海外でよくあるプレートのやつに表示されている。いま気がついたけれど、国際芸術祭全体テーマの「わたしたち」を模したタイトルなのも憎い。
ガラスを突き破ってできた通路を通る。このガラスも本展のために突き破られましたか?
突き当りに作品がひとつ。正面からみた壮大さもあるけれど、私はこういう役目を終えて見向きもされないのに作品の一部にされている、自主性がないようであるところが好き。
進んでいき、大ホールへ。会期スケジュールにもっと特別なことがいろいろ起きそうなタイミングが書いてあった。献血終わって戻ればよかったなあ。
この清掃員はスケーパーである。雑巾に洗剤をシュッとして、特に汚くもないガラスの曇りをよく確認して、雑巾をトンとガラスに触れさせる。やたらシュッとさせるので、スケーパーの周りは洗剤の香りが漂っていた。
大ホールでは、普通見ないような舞台裏をみることができた。役者だったわたしたちと、舞台裏にいたことのない人ではまた違った目線なのだろうな。当たり前か。
勝手な想像だけれど、さいたま市民は比較的舞台裏に触れる機会も多い気がする(いろいろやってるよね)。
ある意味、さいたま市民に寄り添った展示物なのかもしれない。
ゼラと回転式フィルムで作り出された月夜が、ブルー転に溶けて本当の月夜みたいだった。
舞台面を抜けていくと楽屋がいくつかある。
どの楽屋も(私が行ったタイミングでは)誰もいなくて、ガランドウとしていた。まるで公演が終わって最後に楽屋を出るみたいな。そんな寂しさ。
ブラックライトで照らすと読めるポスター。
アンリアレイジで慣れたかと思ったけど、これは印刷の分野なのでまた違った大変さがあるのだろうな。
ちなみにブラックライトを当てる前は全部まっしろなのでブラックライトをあてないと本当に読めない。言いにくいことを言えるポスター。
3階の反対側。
フレームで囲まれている反対側のスペースに行くには1階まで戻り、反対側の階段を昇って辿り着かねばならない。
反対側のフレームからみた、スケーパーかどうかわからないわたしたちも、反対側の人たちに作品の一部にされている。
地下へ続く階段を行く。どこか、おわりのはじまりを感じさせる階段。
シンプルに声を出して驚きました。でもこういうスペース、ある!最初の3階で忘れられた傘たちも、きっとここにある。
大ホールのある建物の向かい、地下にある小ホールへとつながった。なにか音楽が聞こえる。小ホールの正面入口には「ラストコンサート」って書いてあったかしら…
小ホールにたどり着くまでもいろいろあって、これはみんながよく撮っているオーバーフローの水道。雑保管案内と溢れそうで溢れない水との関係性をみせたかったんだな~と、会場にきて良かったを実感した。
コーヒーを作る談話みたいなものもあって、上階ロビーには自販機もあった。売り切れだったけど。
公民館の貸出食器ってこういうところに入っているのよね。なにが入っていたのだろう。もっと現地でみてくるべきだった。
小ホールのバルコニー席らしきところにたどり着いた。下手側。
ロビーにも廃8mmフィルム?や写真のような廃バケツがランプシェードになっていたり、舞台面で使われていたなにか(「上」は「上手」の意と思われる)がテーブルになっていたり。いままでこのホールを使ってきた誰かの「わたしたち」の意思が詰まった空間。
4席ある中で、一番下手側に腰掛ける。
聞こえていた音楽は、この小ホールで流れていた映像作品からだった。「ラストコンサート」なのに少女たちが歌っているのは「おはよう」と繰り返される合唱曲。階段を降る前に感じていた「おわりのはじまり」は、この雰囲気だったのかもしれない。
小ホールを後にした。来たときには気が付かなかった、入口のスケーパーに気がつく。これもどうやら、誰かの祈りに対応して日々変化しているようである。
販売農家が増えたJAの即売会を横目に、会場を去る。
信号を渡って割とすぐ、ソールがはがれてしまった。
2ヶ月前ほどにAmazonで購入した。わたしのスケーパーは、Amazonにいる。