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長編小説『テセウスの肉』第16話「雅人の視点②」

 春休みが明け、中学二年。クラス分けは残念ながら真希ちゃんとは別々になった。めちゃくちゃ落ち込んだ。その代わり、のえりーとは同じクラス。話せる女の子がいるお陰で、真希ちゃんへ話しかけるハードルが少しだけ下がった気がした。
 ただ、真希ちゃんも知っての通り、しばらく何の進展もなかった。
 俺の中で決定的に進展があったのは、夏休みに入る少し前。その日は一人で下校していた。期末テストが終わり、開放感あふれる夏空の下、後ろから元気な声が迫ってきた。

「おおお~~~い!!」

 のえりー。少し歩くと汗ばむこの天気で、彼女は走っていた。もちろん汗だくだが、首に掛けたタオルで顔を拭い、気にもしていない。
 俺たちは例の如く、二人並んで下校した。いつも何でもない雑談とか愚痴とかを言い合って、分かれ道で各々帰宅する。だが、その日は何の流れだったか恋愛話が始まり、暑いのに分かれ道の木陰で長話をした。

「雅人くんって自分から告白とかしなさそうだよね~」

 のえりーは俺の顔をじとーっと見ながら、にやけ顔で言った。

「え、そうかな」

 実際、現在進行形で何も行動を起こせていない。図星を突かれた俺は必死に平然を保とうと息を吸い込む。吐く。

「私はね! 好きな人には積極的にアピールするべきだって思うんだよね!」

 声を張り上げたのえりーは、青い空を見上げる。まだ太陽は高く、下校時間とは思えない空だ。

「好きな人、いるの?」

 のえりーは訊いた俺の顔を真顔で見て、少し止まった。そしてにこっと笑顔を作る。

「…………内緒~~~!」

 このとき、俺はしまったと思った。
 これは「雅人くんは?」とカウンターをかましてくる流れである。

「雅人くんは?」

 ビンゴ。
 俺は思いっきり思春期で、しかも初恋ということもあって、どうしても言いたくなかった。好きな人がいるだなんて知られたら、どうなってしまうだろう。小学生の頃、好きな女の子がバレて壮大なイジりを受けた男子を思い出す。

「い、いないよ?」

 自然に言えていただろうか。分からない。けど、のえりーは「ふうん」と言って、押し黙る。多分、五秒ぐらいの沈黙だった。その直後。

「ほんとに?」

 ダメ押しとは……。

「本当だよ!」

 少しムキになりすぎたかも。

「私さ」

 突然、のえりーの声色が変化した。それは、これまでの冗談めいた声じゃなく、これから真面目な話をしますという合図みたいに、ワントーン低い声。その声に、俺は自然と耳を傾ける。

「すごーく、難しいことだとは思うんだけど、やっぱり好きな人には思いをちゃんと伝えるべきだって思うんだ。自分から。だってさ、好きっていうのは気持ちでしょ? 気持ちって目には見えないじゃん。どんな気持ちだって行動とか言葉とか、何か自発的に表に出さないと伝わらない」

 そよ風がのえりーの短い髪を揺らす。以前より髪が少し伸びていることに俺はその日初めて気づいた。

「だから、私ずーっと頑張ろうって思ってるんだけど、それでも、それでも貴方を好きって思いは恥ずかしかったり、もどかしかったりして、喉の奥から出ていかない」

 のえりーはくるりと後ろを向いた。
 内緒、と言ったけど、きっとのえりーは誰かに恋をしているのかもしれない。なら、俺は応援してあげたい。

「……じゃあ、もっと頑張らないとね」

 難しい話は分からないけど、それだけは言えた。

「……うん、雅人くんも、そのときが来たら頑張って」

 そう言ったのえりーは、俺に背を向けたまま、歩き出した。バイバイは言わず、蝉時雨の中、彼女の小さくなる背を俺は見つめていた。その背中に、真希ちゃんを写して。
 この日だ。俺が、なんとしても真希ちゃんに思いを伝えなきゃと決心した日は。

   *

 思いを伝える、と言ってもどうやればいいんだろう。女の子に告白したことなんて生まれてこの方一度もない俺にとって、その方法というのが課題となった。考える。考えて考えて、ふと思い出した。
 小学二年生のころ、一度だけ同級生の女の子に手紙をもらったことがあった。それは今思えばラブレターだったと思う。多分内容は、「まさとくんがすきです」みたいな端的なものだった気がする。あの頃はよく意味が分からず、その女の子に「俺も好きだよ(友達として)」と直接伝えた気がする。あれ、結局どうなったんだろう……。その女の子とは小学校高学年でも度々話したりしたけど、なぜか気まずそうにしていた。そうか、今長年の謎が解けた。
 とにかくだ、手紙――つまりラブレターがいいのではないかと恋愛知識皆無の俺は考えた。今は夏休みに入ったばかり。夏休み明けに渡すとして、一か月以上も考える時間がある。これは好機ではないか。じっくりゆっくり考えた手紙を読んでもらえれば……読んでもらえれば、――付き合える?
 このとき俺は、恋愛の先に「付き合う」というものがあるという当たり前のことに気が付いた。
 そうだ、告白して終わり、というわけではないんだ。俺は一人っきりの自室で、両頬をバシっと叩く。そして、夏休みの宿題がひとつ増えた俺は、まず便箋セットを買いに自転車を走らせたのだった。

 やらなければいけない夏休みは短くて、終わるのが待ち遠しい夏休みは長い。俺は「夏休み短くね!?」と「夏休み長くね!?」とほぼ毎日言いながら、夏休みを終えた。
 始業式が体育館で行われている中、俺は重要なことに気が付いていた。

「手紙、どうやって渡すんだ……?」

 校長先生の話に対する拍手の最中、俺は小さく呟く。小学生の頃は、多分直接渡された気がする。けど、クラスも違う、最近は会話もしていない女の子にどうやって手紙を渡せばいいのだろう。みんなの前で渡すなんて嫌すぎるし、二人きりになるタイミングなんてない……。
 俺はその悩みに二週間を費やした。そして、ひとつの結論に辿り着く。

「下駄箱に入れよう」

 それは、ラブレターを渡す古典的手法。しかし、間違いなく受け取ってもらう成功率は高い。俺は決めた。よし、やってやる。俺は絶対に彼女に告白して、付き合うんだ。

「雅人、ごめんなあ、突然転校になっちまって」

 それは酷く突然で、残酷なタイミングだった。俺の父親が転勤になり、家族で大阪に引っ越すことが決まった。大阪には親戚がいるらしく、何かと都合がいいらしい。俺は行きたくないと言ったが、具体的な理由が言い出せなくて、あっさり決まってしまった。いや、多分理由を正直に言っても、変わらなかっただろう。
 俺は悲しくて、悔しくて、布団の中で泣いた。でも、泣いても変わらない。転校は一か月後、それまでに思いを伝えようと決心した。だが。
 だが、障壁は絶え間なく現れた。

「陰毛ちゃんだってさ」

 クラスメイトの一人が笑って俺に言った。
 秋の匂いがしてきた頃。隣のクラスから大きな笑い声が聞こえた翌日。俺は突然言われたその卑猥な言葉に耳を疑った。

「え、何急に」

 俺は眉間にしわを寄せ、聞き返す。クラスメイトが俺を見て、「知らないのか」といった顔で説明を始めた。

「隣のクラスの女子がさ、髪質をおちょくられて付けられたあだ名だって、ひっでえよなあ」

 口ではそう言いながら、笑っている。
 ……女子の、あだ名?
 いや、まあ、どんな髪型にそんなあだ名が付けられたか、想像はつく。分かりやすさだけで言ったらとても的を射ているネーミングだ。だが、倫理的に……道徳的に終わっているだろう。だが、想像できてしまう分、俺は嫌な予感でいっぱいになっていた。

「それって、誰のことなの……?」

 恐る恐る、訊く。
 クラスメイトは何の気なしに、ふっとその名前を口にした。

「たしか、帆波って言ったかな。ほら、すげえ癖っ毛の」

 頭が、真っ白になった。自分の初恋相手がそんな……残酷で低俗で攻撃的で軽蔑的なあだ名を付けられてしまっただなんて。

「なんか今日は学校来てないっぽいけど、まあ来れないわな」

 なぜそんなにも平然に言えるのか。俺は目の前のクラスメイトが同じ人間とは思えなかった。……いや、人間なんて、興味のない人がどう言われようがこんなものなのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、口を噤む。
 帰宅した俺は、混乱した。一体どうすればいいのか。俺が真希ちゃんのためにできることは何かないか。必死に考えた。でも、教室に来ていないのでは会えないし、例え会えたとしても、今やほとんど話していない、一年前に少し一緒に仕事をしただけの男子に何が言えるというのだろう。
 自分の無力さに、怒りさえ覚える。
 そんな風に憂いと怒りがないまぜになった毎日が数日続き、その間真希ちゃんが教室に来ることはなかった。が、転校までもう残り数日となったある日、ふと思い出した。

「音楽祭実行委員の人~」

 それは、帰りのホームルームで先生が言った一言だった。俺は今年の音楽祭実行委員にはならなかったので、関係ないと思っていたが、ひとつだけこの呼び出しに俺の中の思い出が甦るのを感じた。
 昨年の実行委員会初回。真希ちゃんが言ったこと。

「入江は、優しすぎて色々押し付けられ気味だけどさ、それでも文句一つ言わないで最後までやり遂げるでしょ。そういうところ、すごいと思うよ。だから、頑張ろ」

 俺が、自分の中でダメだと思っていたところ。それを、肯定してくれた。いい側面を見てくれた。そうだ。俺は真希ちゃんに救われたんだ。今度は、俺が真希ちゃんを救わなきゃ。
 自宅に帰ると、俺はすぐにラブレターを書き直した。真希ちゃんがきっと気にしている、その髪型も俺は好きだ。そこも含めて、俺はキミが好きなんだ。拙いけど、思っていることを真っ直ぐに手紙にしたためる。
 そして、転校二日前。
 真希ちゃんは相変わらず教室には来ない。だから俺は放課後、下駄箱にそのラブレターをそっとしまった。明日、きっと真希ちゃんは俺のラブレターを見てくれる。そう信じて、俺は帰宅した。
 俺は真希ちゃんがその手紙を見て、何を思ったのか、知らない。翌日、俺は引っ越しの準備をした後、昼から学校に行ってクラスでお別れ会をしてもらった。その最中、もしかしたら今日、返事を聞かせに来てくれるかもしれないと密かに期待していた。だけど、真希ちゃんは来なかった。そもそも学校にも来ていないかもしれなんだから、まあ当たり前かもしれない。
 夕方。俺は大きな花束と手紙を抱えて、自宅前に俺は立っていた。親が最後の荷物を車に積み込んでいる。見送りに来てくれるほどの友達はいないよな、と思っていたその時、後ろから久しぶりに元気な声が聞こえた。

「やっほう、雅人くん」

 のえりーは相変わらず元気で、明るい笑顔だった。車に荷物を積み込んでいた父と母が、空気を読んだのか、車に乗り込む。

「のえりー、どうして」

「え、だめだった? 見送りに来ちゃ」

 正直、嬉しかった。誰も来ないと思ったから。

「ううん、ありがと。こんないい友達がいたんだなあ俺」

 沈黙。のえりーは、微笑んで、俺を見つめる。

「最近、何してたの?」

 そういえばここ最近は話してなかったと思い、俺はのえりーに訊いた。

「まあ、ちょっと忙しくて。人助けしたりね。私スーパーヒーローだからさ」

 冗談めいたその声は相変わらずで、俺はふっと笑った。そして、俺はカウンターに備える。

「そっちは?」

 ビンゴ。

「俺は……」

 最後だし、お礼言わなきゃな。

「好きな人にラブレターを書いて、下駄箱に入れてみた」

 秋の少し冷たい風が、俺たちを撫ぜる。
 一瞬、のえりーは真顔になって、そして変な笑顔で言った。

「おお、好きな人いたんか! しかもちゃんと思いも伝えたなんてやるなあ」

 そして、のえりーは夏休み前みたいにくるりと後ろを向く。

「お礼、言いたかったんだ俺。のえりーのお陰で……帆波さんに伝えられたから」

「……そっか」

「ちゃんと伝わったかなあ。もう、会えないから分かんないけど」

 のえりーは俺に背を向けたまま、空を見上げる。薄曇りで、旅立ちにはふさわしくない日暮れ前。

「さあね。伝わってればいいけど」

 そうだ、もう願うしかない。俺の思いが伝わっていて、彼女の心を救えていることを。

「じゃあ、そろそろ。見送りありがとう、のえりー」

「……おうよっ、向こうでも元気でやるんだぞっ」

 のえりーの表情は最後まで見えなかった。俺は車に乗り込む。
 車が走り出すのと同時に、のえりーは反対方向に歩いていく。エンジン音が夏休み前の蝉時雨みたいに鳴り響いて、のえりーの背中が小さくなる。俺はまた、その背中に真希ちゃんの背中を写していた。

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