グラグラする世界
世界の揺れを、感じたことがありますか?
いま、世界じゅうが、今までのルールとは、根本的に違った価値観で動き出そうとする予感を感じています。
ぐらぐらぐらぐら、地震のように社会が揺さぶられて、
何か代わりに新しいものが立ちあらわれてくる予感、感じている方、多いと思います。
小さな価値観の変化は、既に起き始めていると思います。
今までは、外でワイワイみんなで楽しく、にぎやかに過ごすことが、何となく良いことだとされていた気がします。
けれども、今は、家の中で料理をしたり、本を読んだり、限られた人との深い付き合いを、
穏やかにできる状態が、好ましい、、。
そんな方向に、世の中が動いている気がします。
手書き日記は、自分の世界が崩壊する瞬間を、
今まで、何度も味わってきました。
きっかけは、小学校で人気者で幸せだった自分が、転校してから学校に馴染めなくなってしまったことでした。
そして、たくさん勉強したのに、希望の高校には入ることができず、悶々としながら勉強を続けていました。
その後も、大学で無気力に過ごしていたし、就職しても、厳しさについていけず、病気になって仕事を辞めてしまいました、、。
人を本気で好きになることも、自分に自信がなくて、ほとんどありませんでした。
手書き日記の世界は、何度も何度も揺さぶられてグラグラして、
海辺に作られた砂の城のように、時間が経つと水に流されて、
そこでまたゼロから何かを築こうとすることを繰り返していました。
その後も、何度も自分の世界が崩壊する経験をしたのですが、なぜ自分がうまくいかないのか、、、最近までわかっていませんでした。
でも、ようやくその理由がわかってきました。
他の人の決めた価値観やルールに、自分を無理に当てはめようとして、自分の本当にやりたいことや、好きなこと、
どうやって生きていきたいのかに無頓着になってしまっていたのです。
自分の世界ではなく、社会や他の人の世界に、無理に自分を合わせて生きようとしていたみたいです。
自分の感情や好き嫌いもよくわからなくなり、どんどん自分が薄っぺらいのっぺらぼうのような存在になっていってしまう自分がいるのを感じていました。
そして、手書き日記は、一人でいても、あじわえる小さな世界を好むようになりました。
それは、本の世界です。
本の世界は、没頭すると、時間も空腹も忘れるくらい、自分の外側で起きていることに気付かなくなる事ができた世界でした。
体調が回復してからは、調理場で、とにかく動き回って体を使う仕事をしていましたが、
仕事が終わってからは、ずっと部屋にこもって、貪るように本を読むようになりました。
こんな生活を十年ぐらい続けているうちに、自分の中に変化が起こるのが分かりました。
昔は、文字を書いたり、本を読むのが苦手だったのに、日記をつける習慣がついて文章で表現することができるようになったり、分厚く密度の濃い専門書みたいなものも、気負うことなく、すらすらと読めるようになっていたのです。
一体、何が起きたんでしょうか?、、、たぶん自分の内側に世界が築かれていったのだと思います。
今回は水で流される砂の城ではなかったのです。
自分の内側に世界ができて、外側との間に境界線ができできたような気がします。
自分がモヤモヤして、はっきりしない形が分からない存在だったのが、濃くて、はっきりした形と輪郭のある、何かに変わってきている感覚があったのです。
今まで、自分が変だと思われないようにしていましたが、何も言わずにいると、
何を考えているのかわからない人であると思われて、余計変な人だと思われていたみたいです。
ふつうになりたい。
ふつうに生活して、ふつうにやっていきたい。
ずっと、そう思っていたのですが、どうやらそれは、手書き日記には難しいことだったみたいです。
本の世界に没頭して気づいたことなのですが、自分ひとりで考えているだけで、他の人に何も伝えることがなければ、どんなに面白いアイディアや、創造的な視点を持っていたとしても、
それはただの妄想になってしまうようです。
でも、これがたとえ、よく考えてみたら、なぜだか良く分からないことであっても、多くのひとが、みんなが信じていたら、それは常識と呼ばれるようです。
妄想と現実や常識は、、、いったい何が違うんでしょうか?
答えは、言葉でも、文字でも、音楽でも、パフォーマンスでも、どんな手段でもいいから表現して、誰かに何かを伝えて、自分のしていることを理解してもらえる事ができているかいないかの差であることに気が付きました。
自分一人で、おかしなことを考えていると、その人は変人や奇人と呼ばれてしまうかもしれません。
それが妄想だからです。
でも、妄想を誰かに伝えて理解してもらえると、変人と思われていた人の考えは、現実に影響力を持つようになるようです。
あー、なるほど、そういう考え方なんだ、、と、他の人とコミュニケーションを取って、理解されると、自分の内側と外側の世界に、何らかの関係が生まれます。
そして、その関係が現実を作るようです。
こんな風に、誰かと何かを共有することで、現実が生まれるようだ。
そう思うようになりました。
例えば、お金は、ただの紙切れですが、一万円札一枚で、20kg位のお米と交換できます。
これって、すっごく変な事だと手書き日記は思うんです。
山羊なら、お札を食べてしまうでしょう。
お金で代わりにものを買えば、ものすごくたくさんの餌が手に入るのに、、、、。
これは山羊と人間が、現実を、お金に価値があるという物語を、共有していないからだとおもいます。
山羊とは言語でのコミュニケーションが取れませんから、、。
同じ、お金に価値があるという物語が共有できていないのです。
一人で信じていると、妄想。
でも、誰かにわかってもらえるとそれは、現実になり、みんなが信じてそれを共有すれば、常識になる。
お金には価値があるという物語を、虚構をみんなが共有することで、社会は成り立っています。
でも、この世界は簡単に崩壊することもあります。
誰も、お金に価値がないと思うようになってしまったら、世界はぐらぐらして、崩れ落ちてしまうかもしれません。
どんなに疑っても、疑っても、どうしても否定しようがないものを基礎として、いろんな学問は成り立っていたのだと思います。
そのベクトルを変えて、どんなに悲観的な状態でも、どう考えても何か明るいものが先に待っている、、それは疑いようもなく、間違いなく存在する、、、。
そう、絶望的な状態の中でも、信じることができる事もあると思います。
人間の最もすごい、根本的な能力は、何だと思いますか?
それは、物語を信じて、共有する能力であると思っています。
話をして、分かり合えるのは、同じ価値観と物語を共有しているから。
だから、お互いのことをそれほど細かく知ることがなくても、理解して、共感する気持ちかななれるのだと思います。
外側の世界がぐらぐらしてしまっている時には、自分の内側に揺るぎがない確固とした物語を築く時間が与えられている、、、そんなチャンスがある時間なのではないか?
今までの価値観が通用しないなら、自分の内側の世界を築き上げた物語を、外の世界を作り直すのに、使うことができることもあるかもしれない。
世界が揺らいでいる時、そんな時は、新しい物語を作るチャンスであるのかもしれない、、、。
そんな風に思っています。