スタートアップは連帯感形成にミッションを使うな

先日、とある若いYouTuberが友人たちとゴルフ場の池の水を全部抜いて掃除する動画をみた[1]。
膨大な量の水草を刈り取ってトラックに積み、を繰り返す。途方もない作業だ。
そのなかで彼らは自然と分業して効率をあげて最終的に池は綺麗になる。
さらにこのプロジェクトを通じ、彼らの結束は深まった。
淡々とした描写が続く動画ではあったが、つい最後まで観てしまったのは、この幸せな世界を見届けるためかもしれない。

そしてこの幸せな世界こそ、19世紀の社会学者デュルケームが社会分業論で唱えたものだ。語弊を恐れずにいうと、社会は分業によって発達し、さらにその過程でお互いを尊重する繋がり(有機的連帯)ができる。そして従来ある家族や民族などの同質的な繋がり(機械的連帯)にとってかわる、というものだ[2]。

私はこの社会分業論を知ったとき、大きな違和感を覚えた。
なぜなら分業というのは、それぞれがベルトコンベアのどこかの作業場所で全体を知らずに作業することだというイメージが強いからだ。そしてご存じのとおり、実際の世界は分業によって有機的連帯を形成しているとはいえない。デュルケームもこの連帯を生じていない分業が起きている現実を異常事態として「アノミー的(無規範的)分業」と評している。

さて、スタートアップ企業の初期は間違いなく有機的連帯によって成り立っている。
開発とビジネスとバックオフィスはそれぞれの強みを信頼しながら合一目的に向かって適切に分業している。しかし組織はその拡大に伴い、有機的な繋がりを失うアノミー的分業に陥る。

これを打破するために、経営陣はとにかくミッション・ビジョンといって合一目的をさらに意識させようとする。しかし、その道徳を掲げることが本当にアノミー的分業(連帯のない分業)からの脱却手段になるのだろうか。実際、教科書通りのスタートアップは組織拡大期にもミッション・ビジョンの浸透はすでに行なっているところも多く、今更それを強化することがにわかには解決策に見えないという組織もあるだろう。

ここで再びデュルケームの考えに学びたい。
デュルケームはアノミー的分業を正常に戻すためには「社会の中の個人の崇拝」こそが必要だと考えた[3]。
これには文脈がある。デュルケームのいた時代は、宗教という絶対的規範が相対的に弱まり個人主義の考え方が台頭し、存在する(being)だけでは認められず、何をするか(doing)が求められるようになり人々が不安になっていた。そこで、社会の中での個人の人格というものを新たな宗教のように認めることが新たな規範なのだという。

同様にスタートアップでは、メンバーそれぞれの人格、人間性を認め合うことで有機的分業を取り戻すことができるのではないか。彼らもデュルケームのいた時代と同じく、doingのみによって認められる分業に置かれて不安が強いのだ。それを支えるのは彼ら同士で、社会のなかでの個人を尊重しあうことなのだ。例えばドラッカー風エクササイズ[4]だ。それぞれの組織における人間性を認め合うことで、有機的連帯は強まるだろう。

池の水を全部抜いた若者の有機的連帯は、池の水をなんとしても抜きたいという個々の野望(ミッション)によってではなく、それぞれのメンバーへの人間的な信頼だったはずだ。
そう考えれば、スタートアップの有機的連帯の形成においてミッションよりも大事なものが見えてくるはずだ。

[1] 30年間無掃除のゴルフ場の池の水全部抜く - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UpaECr1OcnI
[2] 機械的連帯と有機的連帯 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ki_solidarite_mecanique.html
[3] 近代的自己の創出 ―共依存的関係性の起源 http://ds0.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~nabeyama/works/syuron1.htm
[4] ドラッカー風エクササイズで期待をすり合わせて安全なチームに https://tech.pepabo.com/2017/07/07/the-drucker-exercise/

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