初稿 「二番目の俺」
浦安市に来た両親をいつもと違う道で、駅まで見送っている時に、大層なクリスマスツリーを目撃した。この投稿日のタイムスタンプは2月となっているはずだ。つまり2月に目撃したのだとはじめに伝えておきたい。
最初に母親が、見つけて驚いていた。俺は、その反応を見て二番目に驚いた。実際に足が向かったのも母親で、やはり俺は二番目に向かった。
これは、「クリスマスツリーにイルミネーションが施されています」と画像認識技術を持つAIなら、平読みで答えてくれるだろう。そういう代物だった。現代的な稼働と停止のコストバランスも厳しく判定する目線を持ってみても、明らかに「明るかった」と表現する。そういうものに、母親と二番目の俺は呼びかけられた。つまりアフォードされた。
女性性を持つものが、最初に呼びかけられ、呼びかけられたものに呼びかけられる男性性を持つものが登場する(二番目の俺)。こういった世界観を俺は持っている。その根底には、「呼びかけられる世界観」の確信がある。
初稿であるのにも関わらず、自己紹介もせず、語り始めたのはnoteにアフォードされたからだ。と形式を蔑み手短に述べたいところだが、少し参入意図を述べておこう。クローズド・コミュニティしか積極的に参加してこなかった自分の歴史の重量は重いのだから
オープン・コミュニティとは、誰にでも可視化されている共同体の認識で、クローズド・コミュニティはその逆の認識だ。ここで、メリット、デメリット等を書く必要はない。問題はなぜ前者で表現をしようと考えるに至ったか。それは、意外と単純なのかもしれない。呼びかける存在は、また呼びかけられる存在であるという確信から、クローズドの空間では、限定を認める限りそれが成立するという、認識の制御が常に働くことになる。(理性的である。)究極に、手短に言うと「ノレない」。だって認識が常に制御されているのだから。
冒頭の話に混ぜ込もう。あのクリスマスツリーは、誰にでも可視化されているから人間の足を動かせる存在になったのだ。あいつには可視化でき、あいつには不可視で行くなどという認識の制御はそこにはない。だから、素直に魅了されて「明るかった」。
これがこうしてここに書いている理由だ。開かれたものの明るさに気づいてしまったのだ。いつまでも二番目かもしれないが。
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