現実の共有

 前回の投稿から一ヶ月が経っていた。大体午後3時頃に、鋭い孤独が毎日のように身体を流れていったのだから、いよいよ不味いなと思い始めていた頃だった。
 冬は元々大の苦手で、毎年十月末くらいに暗澹たる気持ちに苛まれる。 三月中旬くらいにならないとそれは治まらず毎年の自己の課題になっている。しかし、今回は厳しかった。
 その時期、孤独本(勝手に命名)を三冊購入したのだが、どれも面白かった。他の本を読んでいたのだが、完全にこの三冊に読書が優先された。それくらい元来、人間は孤独に耐えられないのかもしれない。下にメモをする。

 ・選んだ孤独はよい孤独 山内マリコ(2018)
 ・みんないってしまう 山本文緒(1999)
 ・そして私は一人になった 山本文緒(2008)

 何の本読んでるのかとよくある質問をされた時に、これらの孤独本の名前を列挙すれば、その後一日のやりとりがある程度決まりそうだ。ある人間は、遊びを促したりして孤独を埋めようとしてくれるかもしれない。ある人間は話を聞こうとしてくれるかもしれない。
 だが、そんなことをしてくれるのなら、いよいよ俺は冒頭に書いたように「鋭い孤独に襲われる」としか述べないつもりだ。

孤独本三冊を読んで感じたことは、孤独とは対象消失を抱えているのであり、孤独を描くことは、対象消失も描かれる。だから、誠実に孤独を描くということは現実を描くことなのだろうということ。誕生を描くこともまた現実だが、それだけでは現実じゃない。

 この三ヶ月の間に、多分、三通の「元気ですか?」の連絡に答えた。すべて「元気だ」と返しておいた。俺の現実を共有する気になれなかった。「鋭い孤独」の正体はこの「自分の現実を共有したい相手」が驚くほど少ないという問題なのか。


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