クラフトビール的な

日曜日に、柳通り沿いにあるクラフトビール専門店に行った。店内は昔見たバッドマンが戦闘前に赴く武器庫のような雰囲気であった。6畳くらいの暗い室内で、一方の壁の前に背の高い冷蔵庫が並んでいた。陳列されているビールは一つも見たことがなかった。
 見渡していると、店員さんからなんでも聴いてくれと言われたのでダブルIPAはどれかを聴いた。説明を受けた後、「でも最初は皆さん見た目で選びますね。ジャケ買いのような感覚で。味は飲まないとわからないですからね。」と言われ、確かにそうだなと妙に納得して笑った。
俺とKは、二本買うことだけを決め、その二本を、「三十苦」と名のついたトリプルIPAビール+導かれたビールにすることを暗黙に決めた。「三十苦」という名は、「三」倍ホップの、「十」%の「苦」いビールから来ているらしい。
 ドラフトビールを近頃、自分からは飲もうと思わなくなった。クラフトビールが無ければ飲む。「味のモデル性が強いからだ」と飲まない理由を解釈するならこうなるかもしれない。好みの問題だけとは思えない。ドラフトビールの味も好きなのだから。
 この日、Kとトランス状態になりながら話した。同じ時代を生きるもの同士の会話だった。この話はまた別のタイミングで書くのもいいだろう。

今日、兄貴と飯を食った。餃子の無人販売所というものに足を踏み入れ、餃子を買っていった。無人販売所は初めてで、購入に少し緊張した。金を払っても商品を持って店を出る時は如何に自分が泥棒に見えないかが気になった。俺は機械やそれにより起こる展開を根底で信用していないのだと思う。フェティシズムがあることは認める。

 帰る前に、れいわ新選組がAbemaTVに出た話になった。端から合意への目的がなく、支持政党を表明しない芸人、市場原理から生まれたに過ぎない「もっともらしさ」に無自覚なコメンテーターなど、ストレスがたまる番組だった。こういう番組に出ている、軽口で「止揚」という言葉を使いそうな人間たちを俺は苦手ではなく嫌いだ。

 話を進めようとする俺は、兄貴に、「こういうストレスが溜まることにいちいち感情を使って語ろうとするのは偉いのかね」というようなことを言われた。関心層でありながら、無関心層に対して関心を持つことを強要しないスタンスの彼がこういうことを言い出すのは予想していた。少し実際とは離れるが、無理やり立場を定めるなら、俺は、「無関心層に対しては無関心の構え」、兄貴は「無関心層に対しても関心の構え」を持つとなる。もちろん、傾向の問題に過ぎない。

 社会について、正しさを志向することで、それによりストレスを感じるより、まずは身の回りの仲間と絆を深める。これは、正しいと思うし合理的だ。ビッグヒストリーの文脈で語られるダンバーズナンバー(人間の脳のサイズから見て交友関係は150人が適正数であるとの見方)を援用してもそうだと思える。つまり、大規模の集団が同じ社会で正しさを求める営み事態が疑いを持たれて当然なのだ。
 しかし、今日もニュースを聴いてれば最悪な事件が起こっている。やはり、モデルが必要だ。だが、万人に正しいモデルなどありえない。俺がドラフトビールを自分から飲まなくなったのは、「味のモデル性が強いから」と書いたように、合わないやつもいる。何故、俺が社会で起きていることに対して話し合う必要性を感じているかは、ここにある。大規模な集団でも小規模な集団でもモデルが必要だからだ。

話し合いの営み事態を楽しんでいる面も勿論ある。それが「楽しくない」と思う人間がいるのもわかる。それを心の片隅に置きながら、前進するしかなさそうだ。クラフトビール的に行こう。いずれ良いことが起きるかもしれない。

「味は飲まないとわからない」。まさしくその通りだ。



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