コロナ下での演劇人のふるまいについて思うこと

私のつながっている人たちは、たいがいに賢い人たちなので、自分たちがいかに振舞うべきか、感染症の性質はどのようなものであり世界がどのような対策をしているかを知ろうとする。そういう人たちには、私が以下に記すようなことは戯言にしか過ぎないし、またそうではない人たちに私の声が届いたことなんてこれまでもなかったのだから、結局はこんなことを書いても無駄であるとは思う。

あるとすれば、所属している会社に迷惑がかかる、という否定的なことばかりで、SNSに思ったことを書いて良いことなんて、万に一つもないのかもしれない。


なので、これは一つの振舞いとして、自分の信仰を告白することになるわけだけれども、私は危機的状況に置かれたときに、やはり旧約聖書を参照してしまう。

それは、旧約聖書の中に戦争や感染症拡大下での人々の欺瞞や利己心が描かれているからだ。もちろん、中には良心的な人もいただろうし、中道的な立場を取る人もいただろう。物語の中で描かれているのは、立場の高い人と、低い人であって、中間的な立場の人というのは、あまり描かれない。パフォーマティブではないからだ。

一つ、演劇をリモート化するという言説が出てきている中で思うことは、演劇の「ライブ感」をガジェットで解決することは、演劇的な解決法だとは言えないのではないか、ということだ。

なにもテクノロジーを批判しているのではない。むしろ、その逆だ。テクノロジーを信じるならば、装飾は必要ないはずだ、ということだ。

例えば、通信速度を上げる、画面の解像度を上げる、そういうことはやってしかるべきだと思う。しかしそこに、人々の言う「仕掛け」の類(「いいね」ボタンを押しやすくするとか、課金したらいろんなコンテンツが見れるようになるとか)は、テクノロジーうんぬんではなくて、装飾的類なのであって、実はテクノロジーとは関係がない。(いや例えば、ブラウザを開く、という行為こそがインタラクティブな行為だ、というのであれば良いのだが…。)

演劇について考える時に、私はいつもモーセが神のお告げを聞く場面を参照する。モーセは火の中に神の姿を見た。ヴィジョン(幻想)を見た。火という技術がなければ、そもそもこの描写は成立せず、技術そのものを否定する必要はない。けれども、火の中に神の姿を見たのは人の営みであって、それはその人が神の存在を信じていたからである。

だから、演劇を見るという行為にも、舞台上に人がいるというのは、舞台上に人をどう成立させるか、ということよりも、舞台上に人がいる、ということを信仰する観客を必要とする。この、舞台上に人がいると信じること、その様態こそが問われるべきであって、ここにテクノロジーが介入する。例えば、スカイプなどの類でコミュニケーションを取った時に、必ず遅延が生じるが、今私が話をしているのは、遠くにいる私の知り合いである、という確信があるからこそ、この遅延は認識の外に置かれて「リアルタイム」で話をしていると考えることができる。例えば、これが手紙であったとしても、昔の人は手紙を書いた人が存在している/存在していた、ということを信じていただろう。それを「リアルタイム」と呼びならわしていたとしても、不思議なことではない。仮に手紙をリアルとは言わず、電話やスカイプなどをリアルというのだとしたら、それはテクノロジーの問題である。通信速度が上がったことで、即答されない返答に、人の行為を感じることができなくなってしまったのだといえる。そこに人がいない、と感じてしまうようになった。

ラクー=ラバルトがいみじくも指摘したように、演劇は再現である。だから、舞台上に人がいる、というのは本当に人がいるかどうかということよりも、人がいるということを再現する、ということが演劇なのだ。だから、人がいれば演劇なのではないし、良いわけではない。そこに再現という行為があることこそが、重要なのだ。

実に当たり前のことを言っているに過ぎないのだけれど、人がそれを「演劇」と名指すかどうかは、その行為の中に宿っているのであって、それらを成立させる背景に宿っているわけではない。背景にいくら絵を描いたところで、それは絵であって、それを人は演劇とは呼ばないだろう。ただ、演劇の場合はそれが仮に絵であったとしても、それを動かし、そのビジョンによって人に語り掛ける、という営為を伴うことで、人が存在するという信仰を駆り立てることができる。火の中に神を見るのはモーセの信仰心だが、火を操り、人に神の存在を示すのは、演劇的行為なのだ。

だからリモート演劇で重要なことは、「まるで人が目の前にいるかのような」臨場感んを生み出すことではなく、人がそこに存在しているという信仰を駆り立てることだ。

戦争中、例えば「戦争だけれど、演劇で人々の気分を盛り上げよう」という理由で、演劇をやる必要があるだろうか。私はないと思う。しかし、戦争中にも関わらず、演劇をする、演劇を見るために試行錯誤をすることの方が、私は演劇の必要性を感じる。それは、そこの人が存在している、ということを信じさせる営みだからだ。

そして演劇は集団的な営みであって、人が存在するということを信じさせない人たちに集団的に抗う手段であると思う。

と、だらだらと書いてしまったが、コロナ状況下であっても、私の信仰は揺るいでいないし、私が演劇に求めるものがどういうものか、より一層明確になったような気がする。