表紙ミニバージョン

『エロスとオカルト』(5/15):演劇について

<目次>

・「未完成の芸術」

・「〈見る〉‐〈見られる〉から生まれる神話」

・「演劇に知性はあるか」

・「反遂行的遂行行為」

・「舞台の時間」

・「観客抜きの劇場」


「未完成の芸術」

 演劇は未完成の芸術だと言われる。これは演劇をどう評価するかに関わっている。どんな芸術領域、どんな社会的現象も同じだと言えば同じなのかもしれないが、演劇において理想的な「評価」の方法は、上演を観ている観客が上演時間中ないし上演終了後にその作品の評価を下し、なんらかの方法でその理由を人に伝えていくことである。

 しかし、そんなことが不可能であることはハナから判っている。上演を読み解くコードや期待感をゼロにすることはできない。だから演劇は未完成の芸術であると言われる。

 そうやって考えていくことに異論はないが、それでは全ての芸術領域や社会現象の評価方法も全く同じなので、演劇だけが未完成性を主張できるのか、という疑問に晒される。行為が常に差延の影響を被っているために、演劇に追いつくことは不可能だと言うことは、「作品」や「作家」「俳優」「劇場」と言った基準で、なぜ演劇が測量されているかを曖昧にするだけだ。また、そういった意見は、作家の書くという行為と俳優の演じるという行為の間に相違点を見ていない。

 もちろん、完成された作品というものも、上演芸術の中に存在する。そこで言われる「完成」は、欠点がないという意味ではなく、読み取れる意味が高度に純粋化されているとみなすことができるという意味である。演劇批評や演劇事典、演劇の歴史を読めば書いてある作家や技法、身振りといったものがそれである。

 こうした評価軸は伝統芸能だけではなく現代演劇にも顕著であり、「作品」単位で過不足なく意味内容を伝達しうることが良しとされる。演劇が「法則」や「倫理」を持ってしまう危険性があるが、演劇制作に甚大な影響力を持たない限りは、留保しておくことができる。また、そうした単位(それは作品であっても、身振りであっても、技法であっても何でもよい)は然るべき博物館や研究機関で保護され、一般の観客の目に触れることができるように一定数の市場を持っているべきである。そういった意見には十分に賛同する。

 だがそうした考え方に立脚した場合、演劇が他の芸術と毛色が違うであろう部分、また批評が到達しえない部分、つまり演劇を専門とし、演劇の専門家が演劇に対して評価を下そうとする立場と、ズレが生じてしまう。

 演劇がもはや人間の全体性を表象しうる媒体ではないと考えられるようになった現代の時流(それは演劇批評だけではなく、世間の演劇への評価も含めて)においては、劇場での行為は、文化や社会といった、ある集合体ないし共同体を土台にして評価が下される。例えば先進国の都心に位置する劇場でスキャンダラスな作品が上演された場合、それは右翼と左翼とのイデオロギー抗争に焦点が当たるであろう。例えば人類学的な視野に立って儀礼を演劇的行為と見做す場合、そこで転倒する主客とその方法に焦点が当たるだろう。例えば芸術作品としての評価が低いような作品に対しては俳優へのファン心理や、その国の文化レベルの特異点に焦点が当たるだろう。演劇は、マスメディアの行うような広告宣伝とコンテンツ内容を一致させるような円環の閉じ方をせずとも、「作品」が見るだけの価値があるということを伝えるために、このような批評的感性を発見してきた。それは、人文科学的に言えば発明でさえある。

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